第2話 廻廊
「後は出口、だな」
立ち上がった朔夜はそうつぶやくと、ゆきに手を差し伸べた。
「………」
その手を取って、ゆきも立ち上がる。
真っ白な空間は何もかも白く飲み込んでいるため、ほんの少し先の状況も見えないほどだ。
そんな中、朔夜の言う「出口」をゆきは判断できない。
「出口、わかるの?」
答えを求めるゆきの瞳に、
「お互い、契約者だろ?」
と、朔夜は袖をたくし上げ、背中に近い二の腕にある、蒼い花びらの痣を見せた。
花の形に並んだ花びらは三枚だ。
「契約した人間は、お互いの世界を廻廊を使って行き来できることは理解してるか?」
歩き出した朔夜は、ゆきを振り返り見た。
ゆきも朔夜に続いて歩き出す。
先ほどの狼は、ゆきのそばをぴったりついて歩いていた。
「うん、跋逖に聞いたことあるけど、実際、廻廊に入るのは初めてで。普段は跋逖が近づけないし」
「まぁ、そうだろうな。いつ、契約したんだ?」
「えっと、確か小1の時に」
「あぁ、それならまだ、跋逖の中で夏目は小学生なんだろうな」
と、朔夜は笑う。
「えー、嫌だな……」
つぶやきつつ、ゆきは納得する自分にため息をついた。
「……吉良くんは、いつ私のこと知ったの? もしかして、吉良くんと跋逖は面識があったりする?」
「中学前ぐらいから、夏目のことは知ってた。だから、跋逖のことも見かけたことはある。……俺たちに近づくなって視線が、怖かった時期があったよ」
と、朔夜は笑っていたが、ああ、と、ゆきは肩を落とす。
妖だけでなく、人も遠ざけていたのか、と。
「まあ、その気持ちは理解できる。大事な存在に、祓い人なんかと関わらせたくはないだろうしな。特に跋逖はこの世界を昔経験済みだ。ただでさえ妖にとって人間は短命なのに、祓い人はもっと短い」
「それだけ、妖は人間にとって危険な存在なんだね」
「……妖は、普通に生きてる人間には見えもしない。関わったとしても、交通事故にあうより低い確立だ。気が付かないまま、終わっていくことも多い。その方が、いい」
先に進みながらも、朔夜はゆきを気遣いながら周りを警戒するように歩いていた。
「私もさっき、初めて遭遇したのかも」
跋逖以外で、と俯き歩くゆきに、朔夜は苦笑した。
「今頃、跋逖は気が気じゃないだろうな」
「……う」
何かが胸に刺さったように、心苦しい。
確かに、ここに来る前のあの顔……。
を思い出して、ゆきは、ああ、と、声を上げて顔を両手で覆う。
そんなゆきを横目に、朔夜は少し笑った。
そして、
前方を見る。
「急がないとな。夏目をここに引きずり込んだ妖は、確実に廻廊にいる」
朔夜の言葉に、ゆきは自分の腹部を抑えた。
「鉢合う前に出口を……」
と、朔夜はゆきを制止、足を止めた。
「夏目、前方に歪んだ空間が見えるか?」
「?」
朔夜に言われて、ゆきは前方を確認した。
確かに、ぐにゃっと歪んだ空間をここから見ることができた。
「あれが出口?」
廻廊側も同じように歪んで見えるのかと、ゆきは朔夜を見た。
「あぁ、けど、そのすぐ近くに妖がいる」
「え……!」
蘇る緊張にゆきは焦る。
朔夜が見据える前方は、白い空間と紅い柱が続いて見えるだけで、ゆきに妖の姿を確認することはできなかった。
どうしていいのかわからないゆきに対して、傍にいる朔夜は微塵も動揺することがなく、その立ち振る舞いは跋逖のように落ち着いている。
彼に従えば大丈夫だ。
そんな直感のようなものが、ゆきの心にほんの少し余裕をもたらした。
さらに、腕に伝わる温かな狼の毛並みが、ゆきを安心させる。
「ヒズミが近い。跋逖と交信できないか?」
「……?」
キョトンとしているゆきに、朔夜の瞳が飛び込んできた。
「普段、跋逖と会話するみたいに。跋逖はきっと、答える」
「……わかった。えっと、跋逖、聞える?」
恐る恐る声を出すゆきの頭に、声が響いた。
―――ゆき! 無事だな……?
驚きと安堵、心配が混ざった、跋逖の声だ。
「うん、大丈夫だよ、今のところ」
答えるゆきに、跋逖の声はいつもの調子を取り戻していた。
―――お前が廻廊のどこにいるのか、邪気が強すぎて探れない。意図的に遮られているようだ。
「私の気配じゃなければ、わかる?」
―――……たとえば?
「……吉良くん、とか?」
跋逖の様子をうかがうように尋ねるが、反応がなく、ゆきは戸惑う。
朔夜と居ることを、不快に思いはしないだろうか。
―――わかった。そのまま吉良の者と共に居るといい。
ようやく跋逖の返事がして、ほっとする。
―――吉良の気を探って、すぐ合流する。
と、返事が聞こえたすぐ後に、
「跋逖!」
目の前に現れた跋逖に驚きつつも、ゆきは強く安堵する。
―――吉良の者よ。感謝する。
跋逖は、朔夜の姿を確認すると、跪いて礼を言う。
「あぁ。それより……」
朔夜の目は、前方を見たまま動かなかった。
それが意図するものを、跋逖は察する。
「俺たちがおとりになる。その間に、夏目を連れてあそこから外へ」
―――お前は、どうする?
「夏目の気配を感じ取って廻廊に引きずり込んだ妖だ。ここで仕留めないと、また同じことをする」
―――……わかった。
跋逖の言葉を聞いて、朔夜は狼の前でしゃがみ、喉を撫でた。
「いくぞ」
『わおおおおおお―――――ん』
式の狼が遠吠えをしたのを合図に、朔夜と狼が前方に向かって同時に走り出した。
一呼吸置いた後、小さく悲鳴を上げたゆきを抱きかかえ、跋逖も走った。
それに気が付いた前方の妖が、こちらへと向かって来たのが、ゆきにも見える。
がくん、
と、視界が横にぶれた時には、
ゆきは廻廊の外に跋逖と出ていた。
「……」
あまりに突然で、一瞬のことで、ゆきは呆然とするしかない。
目の前が、日常の風景に戻ったことにまだ慣れない。
チカチカする。
跋逖は抱きかかえていたゆきを下すと、ヒズミに目をやる。
追って出てくるモノは、いないようだった。
不意に、ゆきが朔夜を心配する声が漏れた。
「……大丈夫かな」
座り込んでしまったゆきを、跋逖は見下ろした。その視線は少し冷たい。
―――……心配か?
「うん……」
ヒズミを見つめたままのゆきに、跋逖はため息をもらす。
―――ヤツは吉良の人間で祓い人だ。このようなこと、慣れている。
「……私は、慣れてない」
むくれるゆきを見て、跋逖は。
―――わかった。
と、ヒズミに飛び込んでいった。
「………」
そのヒズミを見つめること少し。
「!」
両手に、朔夜の腕と狼の首根っこを掴んだ跋逖が飛び出してきた。
ゆきは、全員の無事な姿にホッとする。
跋逖に投げ出された朔夜に近づき。
「吉良くん、大丈夫? ケガとかしてない?」
と、覗き込んだ。
その不安そうなゆきの顔に、朔夜は少し驚いたような表情になる。
「あ、あぁ。これくらい、問題ない」
「……よかった」
泣き出しそうに笑ったゆきに、朔夜も笑う。
「心配されるのは、悪い気はしないな」
と、つぶやいた言葉は、誰にも聞こえない。
廻廊へのヒズミは、いつの間にか消えていた。
朔夜は狼を撫でながら、跋逖を見る。
「跋逖、鵺様がお待ちだ」
複雑な心境を表すように、跋逖はなんとも言えない表情をした。
「夏目は俺たちが見てるよ」
朔夜のまっすぐな視線に、跋逖は答えた。
逃げ道はもう、ない。
―――頼む。
跋逖は軽くうなずくと、
スッ
と、二人の前から姿を消していた。