第1話 遭遇
あれから十年。
ゆきの短かった髪も腰近くまで伸び、ブレザーにチェックのスカートの制服が似合う年頃になっていた。
跋逖、彼は人間界で言う、鬼、らしい。
藍黒いごつごつした肌で、整った顔立ちはイケメンだ。
ツンツンと固くて短い髪の下にある狭い額には、短い二本の黒い角。
薄紫で黒い瞳孔が線状に縦に伸びた瞳。
左目は無い訳でも、見えない訳でもないが、なぜか布で隠されている。
手足の指は三本で、細身の筋肉質な体型。
今のゆきの背丈より、少しだけ低い。
ゆきにはもう見慣れた姿だが、彼を見ることができる他の人間や、跋逖が言う他の妖たちとも、まだ会ったことはない。
その妖とは、人間界で言う、鬼や妖怪、化け物、モノノケと言われているモノたちのこと。
その妖が住む異世界へと続く、ぐにゃぐにゃとした空間は、相変わらず唐突に出現しては、人を飲み込んでいく。跋逖はその入り口を、ヒズミとか扉、と表現していた。
その入り口は一方通行で、一度足を踏み入れたら戻ることはできない。それは、人間も妖も同じだという。妖の世界にも、このようにヒズミが突如現れ、妖が人間界に迷い込んでくる。
あの晩の跋逖のように。
異世界に足を踏み入れたものが生き残るために必要なのは、双方の血。
ゆきと跋逖が昔交わしたそれを、血の契約と、跋逖は呼んでいた。
何かの理由でケガを負っていた跋逖は、あの晩、ゆきに出会わなければ、正気を失い、人間を襲っていたかもしれないと。妖たちは人の血を得て、正気を保ち、ケガを治す。こちらの世界で妖が生きのびるためには、人を喰らうしか道はない、と。
人間と違って寿命が長く、生命力にたけた妖たちは、人間の血を得ることで、人間を喰ってこっちの世界で生き延びるのだ。
そんな妖から人間を守るために生まれた家業。
代々能力をもち、血縁によって受け継がれるその家系の人々を、祓い人と、跋逖は呼んでいた。
以前、人間界で跋逖はその祓い人と契約をしたことがあったと聞く。
ゆきはまだその「祓い人」と呼ばれる人たちと会ったことがはないが、会ってみたいと思っている。
目の前にあるそのヒズミは、他の人に見えなくとも、確実にそこにある。
同じように、この幻影の扉を見ている人たちが、どのように対処しているのか。それを知りたかった。
昔はただ、人がヒズミに入って行くのを見ていることしかできなかった。
でも、今は……。
昔のように眺めるだけではなく、その入り口にできるだけ人が飲み込まれる前に、引き留めようと努力していた。
しかし、跋逖は廻廊への入り口であるヒズミは危険だと、ゆきに近づくことさえ許さない。ゆきが何かに巻き込まれることを、極度に嫌うのだ。
それ故、跋逖が諭す危険を、ゆきはまだ理解していなかった。
「あの!」
「え?」
ゆきに声を掛けられたスーツ姿の男性が、足を止め、振り返った。
ゆきは片目を右手で抑え、その男性を見上げる。
「すみません。その先にコンタクトを落としたみたいで……。できたら、ちょっと回り道を……」
「あ、ああ。踏んだらいけないもんね。……一緒に探そうか?」
「いえ。大丈夫です。ありがとうございます」
ゆきはぺこりと頭を下げた。
「みつかるといいね」
と、男性はゆきに言うと、まっすぐ進むことを止め、大回りして行ってくれた。
男性が去って行ったのを見届け、ゆきはホッと胸を撫でおろす。
彼の向かっていた先、今はゆきの目の前に、あのヒズミがあったからだ。
ゆきが目を覆っていた手を放し、足元に置いた鞄を手に取ろうとした時だった。
『ジュケツ、みつけた』
「!」
突如、耳元で不気味な声がして、ゆきの身体が固まる。
嫌な汗が流れた。
―――……ゆき!
跋逖の叫び声と共に、
焦って手を伸ばしたその姿が視界に飛び込んできた。
しかし、
その手はゆきに触れることなく、
目の前から、
消えた―――……
一瞬にして視界が闇に落ちた。
腹部を何かに捕まれ、引っ張られ、そのまま倒れるように、座り込んでいた。
ただ茫然と、その場に留まることしかできずにいる。
そして、次第に視界が眩しくなり、思わず目を閉じた。暗闇から一転して明るくなったので、目が慣れるのに時間がかかる。
慣れてきた瞳を開けて、見えたのは。
「……っ!」
空も地面も感じない、真っ白な世界。
ゆきは息をのむ。
そこは異様な空間だった。
その中で映えるのは、紅い柱がゆきの両側に、鮮やかに、均等に、どこまでも、まっすぐ続いていた。
他に何もない真っ白な空間が、その紅い柱を不自然に際立出せ、一筋の道を浮かび上がらせている。
柱でできた境界線の先は、飲み込まれてしまいそうな不思議な感覚がする。
つい、触れてしまいたくなるような……。
ゆっくりとその先に手を伸ばしかけた時。
「……!」
何かが近づく気配がして、ゆきは息をひそめる。
突然この空間に引き込まれて、今、この状況に至った経緯を忘れていた。
あれはきっと妖だ。
自分を引きずり込んだモノの感触が、腹部によみがえる。
跋逖も傍にいない。
その事実が、大きな恐怖を連れてくる。
ゆきは、ただただ、身体を強張らせるしかなかった。
が。
「……え?」
「……夏目?」
真っ白な空間からゆっくりと姿を表したその気配が、
見覚えのある人物で驚いた。
しばらくお互いを呆然と見つめていたが、その人物はどこか納得したようにゆきを受け入れた。それを見て、張りつめていたものがゆきから消えた。
細身で背の高い彼はゆきと同じ高校の制服姿で、ゆきの前にしゃがみ込み、前髪が少しかかった瞳でゆきを見た。
「夏目、一人か?」
「どうしてここに……?」
二人の問いが重なった。
同じクラスの彼を受け入れるのに精一杯なゆきに対し、彼はきょろきょろと辺りを見渡し始めた。何かを探しているようにも見える。
ふいに、彼の背後から覗き込むモノに、ゆきの瞳が大きく開いた。
それは、大きな大きな、狼、だった。
「ああ、こいつなら大丈夫だ」
ゆきの様子に気が付き、彼は自分の隣にやってきた狼の頭を撫でる。
しゃがんでる彼より、その狼の目線は高かった。
呆然としているゆきに狼は近づき、その毛並みをゆきの顔や腕に這わせた。
あたたかな感触がして、とても優しく感じるその毛並みが、心地よかった。
甘えるようなその行動に、彼はふっと笑う。
「俺の式だから、襲わないよ」
「しき……?」
「あー、……夏目の跋逖みたいな感じか? いや、跋逖は妖だから全然違うな」
「……え」
彼の口から跋逖の名が出、ゆきは凍り付いたように血の気が引くのを感じた。
「………。気が付いてなかったのか? それとも、俺たちのこと聞いてないとか?」
驚いた彼の言葉に、ゆきの頭の中で何かがつながった。
「……あ」
そう、彼の名前は。
「吉良、だった……」
唖然とするゆきに、彼は困ったように笑う。
「吉良 朔夜。跋逖の昔の主、吉良 景康の子孫だよ」
吉良 景康。
その名は跋逖から何度か聞いたことがある。
以前、ゆきと同じように契約を交わした跋逖の昔の主。
「もう、何百年も昔の話だって……」
「そうだな。江戸時代の人だったと聞いてるよ。祓い人の中では有名な人だ」
「江戸時代……」
祓い屋家業の名門三家のひとつ。
吉良家。
「そうか、吉良くんて、その吉良家の人だったのね」
ゆきは、はあ、と、息を漏らす。
どうして気が付かなかったのか。同じクラスで、名前も知っていたのに。
「でも、何でここに? 偶然、じゃないよね?」
「あぁ、鵺様に言われて」
「ぬえさま?」
聞き慣れない言葉に、ゆきは再び朔夜を見上げる。
「……、そのうち、ゆっくり」
何も知らされていないらしい状況を察して、朔夜はとりあえず、と、顔をあげた。
「夏目、お前どうやってここに来た?」
「あ、あぁ! なんか嫌な声がして、ここに引きずり込まれたの。あれ、妖、だよね?」
ゆきは思い出し自分の腹部を擦った。
そして、朔夜をまっすぐと見た。
「ねえ、吉良くん、ここって……」
そのまっすぐな瞳に、朔夜は強くうなずいた。
「あぁ。こっちとあっちをつなぐ唯一の道。廻廊だ」