序章
人間と妖のふたつの世界のはざまに、廻廊と呼ばれる空間があった。
決して交わるはずのない住人が、迷い込んだら二度と元の場所には戻れない、それそれの世界をつなぐ、入り口。
だがそれは、
廻廊を見守り、時に妖を導き、時に討伐する者が人間界に現れるまでの話。
妖から人々を守るため。
人間から、妖を守るため。
彼らはその命を懸けて、戦う日々に身を置く使命にあった。
廻廊を見守る護り人と。
妖から人々を護る祓い人。
それらの人間と血の契約を交わした妖とともに、
その歴史は繰り返される―――――
「………」
少女は、目の前に倒れるモノを見て、立ち止まった。
夕刻に紛れ草村に倒れていたそれは、動かないと気が付かないほどに、暗かった。
藍黒い肌のそのモノは、人間と同じような姿形をしているように見える。
黒っぽい着物の様な衣服だが、下半身はズボンのようになっていた。
腰巻の上の部分が、切り裂かれたように大きく破れている。
「血?」
と、少女が首をかしげるのは、そのモノから流れる体液が蒼いから。
「おに?」
と、見るは、黒い短髪と額の境目に、左右対称に生えた二本の小さな角が見えたから。
「生きてるの?」
しゃがむ少女にそのモノが気が付き、飛び起きた。
片目が布で隠れていたものの、もうひとつの瞳が開いたのを見て、少女は小さく息をのむ。
大きく見開かれたその瞳は、薄紫の中に黒い瞳孔が線状に縦に伸びていた。
それはまるで、獣の目、のようだった。
飛び退いたそのモノは、動いたことで腹部の傷口が開き、苦痛にその藍黒い肌の顔をゆがめながら、流れゆく体液を止めようと、三本指の手で腹部を押さえた。
『お前、人間か。……私が見えるのか?』
ゆがめられた表情から、声ともわからない言葉が伝わる。
少女は驚いたように目を瞬いたが、すぐに答えた。
「他の人には見えないんだね。その傷、どうしたの? 大丈夫?」
『怖くもないんだな』
少女の慣れたような言動に、そのモノは諦めたように肩を落とし、全身から緊張を解いたようだった。
『お前、歳は?』
「六歳」
『六つか。幼いな』
「ねえ、あの、ぐにゃっとしたところから出てきたの? あれ、どこに続いてるの? あなたのいた世界?」
少女は自分の後方を指さした。
そのモノはそれを確認すると、息を漏らす。
『あれも、見えるのだな……。あれは、こちら側、人間の世界と、あちら側、妖の世界をつなぐ廻廊への入り口だ。ふつう、人間には見えないと聞いている』
「うん、そうみたい。誰も見えないって言うの。あのね、あの中に消えて行っちゃった人、もう戻ってこないんだ」
少女は、はあ、と、大きな息をもらした。
『……見たのか?』
「うん、何回か。でも、みんな信じてくれないの」
『そうか。……あれに入った人間は、妖の世界にしか行けぬ。二度と、こちら側には戻れぬだろう』
「……じゃぁ、あなたも?」
のぞきこんだ小さな瞳に、そのモノは何かに気が付いたように、小さく笑った。
『あぁ、お前は……』
「?」
そのモノは、覚悟したように身体を少女に向けた。
『お前、私を助ける気はあるか?』
その、まっすぐな瞳に、少女はにこっと笑う。
「うん、いいよ」
『……そうか、どうやらお前はそれができる人間らしい』
「そうなの?」
『しかし、その代償は、お前のような幼子にはまだ背負いきれぬであろう』
「……?」
『それでもか?』
「うん」
『では、この先、私がお前の力となろう』
一度閉じた瞳が再び開き、少女を見る。
『血の契約を交わせば、私の傷は治り、人間の世界でも生きていける。お互いの世界に留まれもすれば、行き来もできる』
「……」
『そして、それはお前も同じこと。こちらとあちらの世界をつなぐ存在と気が付かれれば、自然と命を狙われるだろう。厄介ごとにも巻き込まれる。それでもか?』
一つ一つ説明するが、幼い少女が理解しているようには思えない。
ただうなずく少女を、利用するようではあったが、そのモノに選択肢は無かった。
『お前の命絶えるとき、私はお前の心の臓をいただく。それが、私とお前との契約が終わるときとなろう……』
心臓と言われ、少女はとっさに胸を抑えた。
小さな鼓動が早くなる。
「……食べるの? 私の心臓?」
初めて不安げな影をかすめた瞳が、そのモノを見上げる。
『今すぐではない、お前の天命が尽きる時だ』
その瞳に答えるように、そのモノが放った優しい響きに、少女の瞳が瞬いた。
そして、少女はふっと微笑んだ。幼い少女の笑みではないように、大人びていた。
「わかった。私の心臓、あなたにあげる」
また、そのモノが笑ったように、少女には見えた。
その優しい微笑みに、不安はかき消されていく。
『では、血の契約を交わそう。その命、果てるまで』
見上げた顔に、額に、何か暖かいぬくもりを少女は感じた。
それはだんだん光を帯びて、少女を包み込む。
『私は跋逖、お前は―――』
「私はゆき。夏目 ゆき」
少女の左肩に痛みが走り、ゆきの顔が苦痛にゆがんだ。
頬に涙がこぼれ、流れる。
肩を抑えた小さな手の隙間から、紅いしぶきが舞い上がる。
そのしぶきは跋逖の腹部、傷があった場所に吸い込まれていった。
それと同時に、
今度は跋逖の腹から蒼いしぶきが上がり、ゆきの肩に吸い込まれた。
その肩には、跋逖の体液と同じ色の蒼い痣。
血の契約のしるしである、一枚の花びらが、浮かび上がっていた。
跋逖の身体も光に包まれると、服の蒼いシミがなくなり、傷口が治っていくのがゆきにも見える。
「あ……よかった」
ゆきの痛かった肩も、何事もなかったようにおさまっていた。
―――我が名は、跋逖。これより、お前に忠誠を誓うモノ。常に傍で、お前を守る下僕となろう。
跋逖はゆきの前に跪き、頭を下げた。
跋逖の声は心地よく、ゆきの心に届く。
「傷、治ってよかったね」
ゆきはそう言うと、跋逖をニコニコと眺めていた。