表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

一般向けのエッセイ

底辺と保守

  

 南井三鷹さんのヴェブレン評論を読んでいたら、社会の頂点と底辺は保守化しやすいという話が出ていて面白かった。

 

 それでこの話はヴェブレンが元になっているからそこも絡めて書こうと思ったが、ヴェブレンは難解でまた色々な方面に話が及んでいて私の手に負えないので、実感を含めた軽い感想文程度で行こうと思う。

 

 さて、底辺は保守化しやすい、と言うとまず思い浮かぶのが、ニコニコ動画のオタク=保守、であるとか、ヤフコメの保守性なんかだったりする。他にも「小説家になろう」なんかもその傾向がある。

 

 ちなみに底辺と言うと、揶揄のフレーズに使われるので、私がこう書いただけで怒る人もいるだろうが、私も底辺だし、科学的というか、客観的・論理的に考えていく上で使う概念の一つでしかないのでそういうスタンスで見ていただけるとありがたい。

 

 ヴェブレンは有閑階級、つまり社会の上部にいる人も保守化しやすいという話をしている。この人達を今風に上級民とでも呼ぶと、上級民は既存の秩序の頂点にいるから、その秩序が維持される上で権利を得て、利益を得て、アイデンティティを作っているので保守化しやすいというのはわかりやすい話ではある。

 

 (ヴェブレンは上級民が既得権益を守る為に保守化するのではなく、自分の価値観を変えたくないから保守化する、と主張しているようだが、普通に考えればその二つはコインの裏表であるので、ヴェブレンのこだわりはよくわからない。私は誤差の範囲内と見て、一つにまとめられると思う)

 

 では下層民、底辺は何故保守化するのかと言えば、底辺化する事により反抗するエネルギーすら奪われるというのが要因として考えられている。これなども、なるほど、としっくり来る部分がある。

 

 私が勝手にヴェブレンに変わって強調しておきたい事は、人にとってなにより難しいのは考え方を変える事にある。日本的な考え方、日本的心性というものが、これほどまでに社会が激変し、人が入れ替わり、何もかも変わってしまっても、あたかも一定のものとしてあるように感じられるのは人は繰り返しそこに回帰していくからだろう。つまり困った事があればまた昔の方法論、血が蘇るというか、そういう風になっていく。

 

 これは日本の場合、明治期から始まった近代化において、はじめ、西洋文学を信奉する改革主義者だった文学者が年を取ってくると一様に日本回帰のスタイルになっていったというので確認できる。やはり、精神の奥底に眠っている古いものは非常に強く、調子が悪くなったり、歯車が狂いだしたりするとそこに回帰して、修正しようと努めるものらしい。これは今の日本にも言えるかもしれない。

 

 さて、底辺の保守化という問題だが、例として、オタク=保守の問題を考えてみたい。ちなみに言えば、今の科学技術偏重の、アップデートとかインストールとか2.0とか3.0とか言っている人も基本的には「保守」の分類に入るのだが、その問題はここでは取り扱わない。現代の多様性に見せかけた一様なものを取り扱っていくときりがないので、要するに現代という塊をどう考えるかが問題であり、一見、進歩・改革に見えるものも基本的には「保守」に入ると私は考えている。大雑把に言うと保守とは、既存のものに自分の魂を枉げさせる事を心の中で是認した人達の事と考えたい。その折り曲げ方はそれぞれだが、それぞれは個性ではなく、一様なものが多様な形に現れたに過ぎぬ。基本的には同一のものである。

 

 オタクと保守という面では、「黒子のバスケ脅迫事件」の犯人が、著書で比較的まっとうな考察をしていた。犯罪者がまっとうな考察をしているのというのも妙だが、現在ではまともに知性を働かせると、大衆資本主義と矛盾するので、社会の真ん中にいない人にしかまともな考察は無理なのかもしれない。

 

 その犯人が言っていたのが、オタクはシステムから与えられるものを享受してそこに安堵している存在であるという事で、しかも、オタクはそのシステム運用の為の金銭も支払っている。一種の興行的なものがそこではあるとされている。

 

 既存の秩序の肯定というのは、小さく、矮小化されたものの肯定という風にフィクションではなっていく。これはオタクに限らず、日常肯定まったり派の、ほんわか系の作家とか映画監督とかも絡んだ問題であろう。そこで内側でほんわかと、互いに慰め合う状況は、外側には排外的な姿勢として打ち出される。自己と対決するできない人間は、互いに慰め合い、是認しあうが、是認しあうだけではストレスが溜まるので、その怒りは外側に向かって排出される。あるいは排出を促される。

 

 それは排外的な保守主義となって現れる。問題はどこまでを「味方」とするかであって、その境界線をどこに引くか、だ。ここではイデオロギー同士が闘っているのではなく、「自分達」のアイデンティティをどこに定め、その外側をどこに定義し、自分のストレスや怒りをどこにぶつけるか、それに対して社会的な承諾を得たいという心中の在り方を表しているのだろう。

 

 社会の頂点に近い「上級民」は、既存の秩序を肯定する事によって社会の階段を駆け上った人物であり、だから彼らはそのアイデンティティをシステムと一致させている。このシステムの維持という事が問題になっていくが、これは底辺の人間にとっては与えられたものの享受という事になる。

 

 オタク擁護、オタク礼賛というのも一時的に行われたが、それはオタク的なものが例えば、東大卒の「偉い先生」に褒められるというような、裏で執り行われる握手のようなものだった。底辺と頂点は互いに一致を必要として手を握りあったのだが、それは、システムが与えてくれるものを享受する層が、システムを運営する上級民によって認可されるというような儀式だったと考えられる。

 

 ここまで、オタク・保守について辛辣な事を書いてきたが、私自身はオタク・底辺なので、気持ちは非常に良くわかる。

 

 特に最近は生活に疲れてきたので、保守化、オタク化、底辺の三つが融合していく様を自分の中に感じている。体が疲れ、時間もない状態に置かれると、難しい事を考えるのが嫌になる。ここに書いているような事を感情的に否定し、現在流布されている快楽装置に浸りたい…その快楽装置が「なろう小説」であり「ユーチューバー」であり「スマホゲー」だったりするわけだが、底辺化と余裕の無さは考える力を奪っていく。そしてただ難しい事、知性的に頭を働かせるのを拒否して、与えられたものに従属し、隷属する事、奴隷になる事を自らの意志と思おうとする。隷属する事が自分の意志だと思えばこれほど楽な事はない。

 

 人は簡単に奴隷になるものである。人は簡単に動物以下の存在になれる。最近起こったトイレットペーパーの買い占めなども、動物には決して起こらないだろう。動物は現在にのみ生きていて、人間のような未来や過去は持っていない。人間だけが脳を発達させ、過去を引きずり、未来を予測する存在になった。その「優れた」人間の頭脳が、未来の利害を見越して、自分の利益を拡大して考えて、買い占めという行動に走らせたのだった。これは人間がいとも簡単に動物以下の存在になるという例証にもなるだろう。人は優れた知性を持つ。それ故に、動物より遥かに程度の低い行為も平然と為せるし、それに正当性や根拠を与えすらする。

 

 底辺・保守・オタクの問題に戻ると、自分は放っておけばそうなるタイプの人間である。その場合、最初に言ったように、変心するのは簡単である。

 

 人の意志というものは実際には非常に簡単にできている。意志というものはない、と言ったほうがいいぐらいかもしれない。人は与えられたものの中で動き回るが、その際、多くの人は与えられたという意識はない。だから彼らは健康的である。しかし、そこでは自己の対象化を欠いている。知性とは一種の病である。肉に刺さった棘である。この棘はいずれ価値のあるものに変貌してくだろうが、基本的には好かれないし、嫌われる。底辺と上級民という事で言うと、私はそのどちらにもある種の健康さ、体育会系の毅然たる立派さを感じてきた。底辺の人間は従属する事において健康的であり、有能な人間もまた既存の価値観に従い、自らをその意向に沿わせて発展させる事に健康的であった。

 

 例えば、東大というものがある。普通に見ると、東大が落ちぶれてきたのははっきりしていると思うが、そう言うと「偉そうな事を言うのなら自分が東大出てから言え」と言われたりする。ここでは、当然と言うべきか、「東大は頂点」という価値観以外の価値観は存在しないぞ、と提示されているわけだ。東大というものが落ちぶれてきているのに並行しつつ、東大の肩書きだけがやたらクローズアップされるのはおそらく歴史的必然なのだろう。中身が落ちぶれてきたとしても、多くの人は中身ではなく、外形で判断する。そして外形で判断する人々が多数いる事により、実際その判断で利益を得る上級民は、それを否定せずにそっとしたままにしておくので、全てはなんとなく駄目になっているように見えても、みんなはそのシステムにしがみつこうとする。

 

 これはもっと簡単に言う事ができる。毎度文学の例をあげて申し訳ないが、自分が唯一よく知っている領域なのでその話をさせてもらう。

 

 文学の領域で人と話してわかったのは、作家志望の人達のほとんどは「文学に興味がない」という事である。正確には文学の中身には全然興味がない。

 

 作家志望の多くは「自分も新人賞を取って作家になりたい」と考えている。その際、現代の文学の零落に関しては関知しないというか、そういう事は彼らにとってどうでもいい。少なくとも芥川賞は現在でも権威であり、文学をやるのなら目標にすると思われている、という事が重要なのである。実際に、その作品の中身がなんであるかはあまり問題とされていない。

 

 作家志望をここで「底辺」と考えると、それに呼応する「上級民」は、賞を運営する出版社や編集者らだろう。彼ら上級民もまた、作品の中身にはそれほど興味がないし、それよりもどう「経済を回すか」が優先されている。その結果、今はよく知られたように、タレントが芥川賞を取るようになったり、また出版社はしきりにタレントやタレント的インテリに小説を書かせて賞を取らせようとしている。「上級民」も「底辺」も共に文学の中身は問題とはしていない。東大生の教養の質、その中身、彼らが何を持ち何をしようとしているかが問題ではなく、ただ東大生というレッテルだけが問題となりクイズ番組や何やかやに引っ張り出されるのと似たような現象が起こっている。

 

 また文学の中身は多くの一般の人にとってはどうでもいい事であるから、ここでははっきりと空白化が進行している。そしてこの点を批判する人間は私含めている事はいる。

 

 だが、批判者というのは、誰も知っての通り裸一貫である。素寒貧である。何もない。後ろ盾がない。批判者の言う事が多くの人にとって妥当だと感じられても、妥当だと感じた人はバラバラの個人で、それに別にその人の為に絶対守り抜こうというわけでもない。何かを創ろう、志そうという意志も、よほどのエネルギーがなければ発生しない。一方で、どれほど形骸化して、どれほど中身がなくなろうと、権威というものにはまとまりがあり力がある。この差は大きい。仮に正しい事を言っているように感じられる人がいても、その人が正しさを守り通すのは難しい。権威の外に立っている人間は裸で外に放り出されているような状況だからだ。

 

 ここには大きな差というものがあり、大抵はこの差に破れていく。私自身もそれをリアルタイムに確認してきた。純文学作家としてデビューした、私も知っている人物が、編集者に言われてだろう、すぐに時勢に迎合した、いかにも受けそうな作品を書いているのを目撃したりした。

 

 また、自分自身、高い質のものを持ち、それをネットで発表して賛同者も一定数いたが、プロの「業界」に受け入れられず怒ってすっかり創作をやめてしまった人も見た。どれほど形骸化・退廃しようとやはり権威は強いわけである。だから芥川賞を批判するよりも、そういう賞や賞を取った人を利用してビジネスを志す方が「大人の判断」とされる。大人の判断とは、敗北から始まる第一歩である。敗北するのは優しい。また、誰もが優しく受け入れてくれる。社会はこの人物を実に丁寧に、優しさや金銭や称賛で包んでくれる。世界は現今では称賛と金銭で魂を圧殺する。

 

 私的な語りになってしまったが、話を戻そう。保守・底辺・オタクといった層、つまりは「俺ら」なわけだが、そうした「俺ら」というのは、主体的にそう感じたり実行したりしているように見えても、実際には自然法則の如きものに導かれてそう考えるようになった、そう考える方がわかりやすい、と私は思っている。

 

 こう言うと一部の人の激怒を招きそうだが、これは自分の中にも外にも感じる事だ。自分が思ったり感じたり、そういう考えを持ったりするという事が内面的には「自分だ」と感じられても、俯瞰的な視点を持てば、そうなるようになっているからなるという風になっている。それは先に言ったように、私の場合であれば、疲れて何も考えたくないと、投槍な現状肯定の気持ちになり、時間の隙間を埋めてくれるシステムが与えてくれる快楽装置で満足するという風になる。それを人は後付で肯定するが、実際には、人間社会の方が個人より遥かに大きいのだから、まずこれに流されるという作用があって、それから流される事に対する主観的是認や理由付けが現れてくる。順番はそういう風になっている。

 

 ちなみにこの事は自分の以前からの疑問と結びついた答えになっている。社会学や歴史学は近代に発展したが、もし個々人がそれぞれ自由に、主体的に自分の生き方を決めて生きているのであれば、個人の進んでいく方向がバラバラになってしまい、社会学や歴史学のように集団で人間を括る学問は成立が難しいのではないか。以前はそんな風に考えていた。

 

 同じ事だが、若年期には、私は「大人」はみなそれぞれ自分の意志を持って、自分の人生を実現する為になんらかの努力をしているのだろうとナイーブにも考えていた。だが、そうではない事が大人になって理解できた。人は、自分の意志を捨て去る事で大人になる。また人は自分の意志や思考を持っているのではなく、全体にまずそれを従属させてからその意志を自分のものとして改めて感じて生きる。だからこそ社会学や歴史学のように、人を集団で括り、その傾向性を計る学問が成立する。もし社会の成員が独自の我を持つ天才ばかりなら社会学は成立が難しいだろう。

 

 だから、人があるイデオロギーを持って、ある主張をしているように見えても、それは全体の傾向性であって、個人の思想ではないと私は思っている。というか個人の思想などという貴重なものは、知的闘争の中で勝ち取られなければならないのだが、これを得るには膨大なエネルギーを必要とする。ほとんどそんなものないと言った方がよほどスッキリするだろう。

 

 近現代社会においては、人間は自分達が作った社会システムに蹂躙される事になったと言い換えてもいいかと思う。ヘーゲルは理性的に歴史を築いていく自由を高らかに歌ったが、実際築いてみると、作られた社会は第二の自然として我々を規正しはじめた。我々はそれを守る事を要請される。それの維持に汲々となっている。最近のコロナ騒ぎなどを見ても現代人にとって「経済」は神なのだと改めて感じたが、それは自分達が生み出したものが自分達から外化し、自分達を疎外するものになり、遂にはそれを崇拝するものに昇華していった。そうした様を感じる。

 

 そうした歴史的事象は、あるいは戦争になり、平和になり、色合いを変えるが、その本質は物質性の人間に対する優越であろう。人間が生み出したものが人間を凌駕していく様であろう。ここでは「大衆」は大きな意味合いを付与されている。大衆は「マス」としてむしろそれ自体が物質化したものとして世界を流露していくが、それは内部による様々な言説やフィクションによって肯定化される。

 

 権威というのはできあがったものであり、それが正しいか正しくないかがよく詮議されるが、そんな事は私からすれば全くどうでもいい事にすぎない。自分の人生を生きようとする人物は、すべての答えが目の前に揃って出ていようと、最初から自分でやり直そうとするのである。そうでなければ人生でないとわかっているからやるのであって、正しいかどうかは問題ではない。

 

 無論、実際的には「正しさ」は重要であろうし、私も無鉄砲な猛進は嫌っている。ただ、ある答えが正しいかどうかというより、それが既に出た答えであるというたった一つの理由で、人間はそこから何かを始めようとする。まあ、AIに絶対的な答えを求め、あらゆる道を消去しようとしている人々には永遠にわかるまいが。

 

 歴史的に成されたものが目の前にあり、我々はそれに従属する事からまずスタートを始める。それが大人と呼ばれるものである。大変結構な事だ。だが、この従属という現象は、人間の深い部分で怨恨として残る。

 

 その事実を森鴎外の遺書は明かしている。鴎外が最後に見たのは死は勲章で払えない、という事実だった。権威は死に勝てないのである。

 

 この文章のタイトルは「底辺と保守」としたが、底辺が保守化するのはおそらく自然の趨勢であろう。そしてヴェブレンの言うように、社会の頂点が保守化しやすいのも自然の趨勢であろう。あるいはそもそも人間というのは保守的であり、習慣を変えたがらないと言った方がいいかもしれない。今、変化とか成長とか言っている状況がいかに、既存の価値観の上書きなのか、見るのは簡単だ。

 

 私が不思議なのは、人が三流の芸人やタレントが、あるいは作家になり、思想家もどきになり、「インフルエンサー」になり、また三流の学者などが小説を書いて賞を取ったりしているのを見て、何故何も疑問に思わないのかという事である。だがこれも、疑問に思う人間が少数派なのだろう。なぜなら、今あげたようなものは落ちぶれてきているとはいえ、それらは権威同士のやり取りだからだ。大したわけでもないタレントの兄弟なんかが出てきて、それもタレントという事になっているのを見るのは失笑物だが、「悔しかったからお前もそうなってみろ」という話になる。それならばキムタクの娘に生まれるのも「才能」という事になるだろう。しかしこんな事もジョークではなくもはや現実なのだから、現実そのものがジョークになったと考える他ない。

 

 我々が様々な状況に囲まれて、そう考えるようになるというのはおそらく当然の事態であろう。人は考える事の難しさについては考えない。だが誰も考える前に意見を持つ(誰かの言葉だ)。そしてその意見は自分の考えなのか、とは考えてみない。

 

 例えば、なぜ北朝鮮の虐げられた人々が何故一致団結して革命を起こし、政権をひっくり返さないのか、日本にいる我々には不思議にも見えるだろう。もし一致団結できれば、結局は人間の数には勝てないだろうから必ず革命は成るはずだ。だが現実にはそうはなっていないらしい。

 

 これは何故かと言えば、人間は、残念ながらそういうものではない、という事だろう。人間は合理的でも経済的でもない。ただ、最初に捉えられた価値観に沿って、合理的とか経済的の意味を決めているに過ぎない。そこに自由がある気がするが、その自由は自分の不自由について考えない事で得られた自由に過ぎぬ。真に自由になろうとする人は世界から捨てられる。その光景を全身で体感した事のない人間は世界も知らず、自己も知られない。

 

 知性というのは肉に刺さった棘だという見方は今でも有効だろう。権威を振りかざす人は密かに、自己快楽を感じているが、彼はその自己を「社会的正義」によって糊塗しているために気づかない。自分より弱い障害者を沢山殺害して、正義を謳った犯罪者もいたが、彼にとっては自分より弱いものを屠るのが正義である、とする理論が必要とされたのだろう。あるのは正しさや間違いではなく、ただ力と力の関係でしかないと言った方がまだスッキリするのだろうか。その内、立派な人々はレイプにも殺人にも立派な意味付けをして、正義の威光の下に、犯し、殺すだろう。自分自身と闘うのは難しい。その闘いが止んだ時、人は他人をーー自分より弱いものを殴り始める。

 

 底辺と保守というタイトルでこの文章は始めたが、私自身、底辺であり、放っておけば保守化する人間であろう。オタクでもあるだろう。だが私はそれらを新しいとも思っておらず、また自分自身の望むものであるとも思わない。私が疲れた時、考えるのをやめる時、私はある大きな流れに身を委ねたい感情を覚える。多くのイデオロギーはそうして現れるものであって、これを自分の知性を果てまで進めた人間と峻別する必要がある。

 

 私は少なくとも自分が奴隷である事を知っている奴隷であり、自分が別の奴隷を鞭打てるのを自由だとは思っていない、とは言える。だがその為の知性保持の闘いは情けないほど消極的なものだ。私は自分自身の消極性の方が人々の積極性よりも価値があると考えているが。早い話が底辺になるのも、優等生になるのもさほど難しい事ではない。どちらも、何かに押し潰された顔をしている。難しいのは自分自身になる事だ。自分自身として生きる事だ。そして自分自身になった存在はおそらく、現在という境界線では突然変異の生物のようなものだろう。立川談志のような人は突然変異的な生き物と言えるし、彼は独自であり、どこまでも彼自身だった。人は彼を変人・奇人と片付けるであろうが、それによって人は自らが何者でないかを逆に示す。人はまず敗北する事で人生を始める。そこでこの民主主義の世界では、最初に敗北する事が勝利である事になった。その価値観の転倒はニーチェを持ち出すまでもないと思われる。

 

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点]  うーん、まず『保守的』と『保守主義』は違います。これは実は重要な概念です。 ◆  『保守的』は、既存の権威や、周囲の状況に対して、従属的であり、また、新しいことを好まず、過去において…
[一言] >社会の頂点と底辺は保守化しやすい そもそもこの認識が違うと思います。 保守化し易いのは頂点と底辺ではなく、それを含めた社会構造を支える全てです。 社会の中に居場所があるのに、居場所があるか…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ