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ブクマありがとうございます。
エイアンドの鼻になんとも芳しい香りが届く。
石鹸の香りとも香水の香りとも異なる、エレン本来の体臭なのであろう。近付くだけで臭ってくる男どもの汗臭い体臭とは大違いだ。
吸い付いた唇を離すと、そこには赤い印が付いていた。服を着たままの状態で吸ったので、当然、その位置は服に隠れる場所ではない。そして、エレンの白い肌についたその印はひどく目立つ。
その事実にさらに興奮したエイアンドは、次に自らの唇をエレンのそれと重ねた。
はじめて触れる女性の唇の柔らかさに驚き、感動を覚えるエイアンド。
しかし、同時に嫉妬もする。何故自分も女なのに、この柔らかさが無いのかと。
──ズルイ、ウラヤマシイ、ネタマシイ……
そんな想いで唇を吸う。
エイアンドにとっては、エレンは理想の女性そのものだ。
長く美しい髪。白く柔らかい肌。その顔も所作も、香りも。
これほどの女性であれば、男どもを侍らせる事も夢ではないだろう。
学園中の男を虜にしたとしても不思議はないとすら思える。
だがそんな男たちは誰も、このエレンの唇の柔らかさをしらない。感触をしらない。
いや、この先、知ったとしても、はじめて触れたのは自分なのだという想いがエイアンドの心を満たす。
そんな優越感に浸っているエイアンドの背にエレンの腕が回された。
こんな行為も許すエレンは、やはり女神なのではないかとエイアンドは考える。
唇の感触と、抱きしめられる感覚にエイアンドは安らぎを覚える。
──そして、正常な思考が徐々に戻ってくる。
慌ててエレンから離れるエイアンド。解かれた腕の感触を、唇の柔らかさを、この期に及んで惜しく思う自分に呆れつつ、エイアンドはエレンに謝罪する。
「申し訳ない!」
「……え?」
エレンは少し惚けている風ではあるが、エイアンドは言葉を続ける。
「エレンの首に……その、痕をつけてしまった。それに、許可も得ずに唇を奪ってしまった。女性のはじめての唇を奪うなどっ……はじめて……なのだろう?」
その言葉に、エレンは少し目を泳がせて言う。
「ええ、その、私もした事はなかったのですが、その、エイアンド殿下も……もしかしてはじめて……では?」
「そう、そうだ……な。こんな、こんな事は今までなかった」
エイアンドはまさか、女の自分が女性の唇を奪うとは思ってもみなかったのだ。もちろん、男に許した事などもない。
「そ、そう……ですよね、やっぱり……あの、女同士ということで、数に入れないということでどうでしょうか?」
エレンが、そんな事を言った。
「エレンは、ソレで良いのか?」
このような無体も、エイアンドが女だからと許すというのか。女同士だから、数には入れないと。
エイアンドは、その言葉に安堵と無念が入り混じった感覚を覚える。
「はい。なので、エイアンド殿下も、はじめてはまたの機会という事で……」
「それは、ダメだ!」
「えっ!?」
エイアンドは思わず叫んでいた。
「その、自分からしたの……だ。だから……私のはじめては、エレンだ」
「は、はい……」
エイアンドの勢いに、エレンは思わずといった風に了承した。
エイアンド自身、何故こんなにこだわるのかは分からなかった。
いや、自分がやったことの責任を取るのだ。自分の、はじめては、エレンだと。その責任を、一生背負うのだと。
「エイアンド殿下」
エレンの呼びかけに、エイアンドは改めてエレンの顔を見る。
「今も、殿下は凄く怒っていました。……いえ、悲しんでいました」
そんな風にエレンはいう。
「私は、いったい何を言ってしまったのでしょうか?」
まるで、自分が悪いかのように。
違うのだ。勝手に怒りを覚えたのはエイアンドだ。その感情に身を任せてエレンの唇を奪ったのも、エイアンドだ。
エレンは何も悪くない。
そんな想いでエレンを抱きしめるエイアンド。
「で、殿下……?」
「殿下はなしだ」
「エイアンド殿下」
「エイアンドと……貴女は私の婚約者なのだから……」
「……エイアンド」
実のところ、エイアンドを呼び捨てにする者は皆無なのだ。
母も兄も「殿下」をつける。
より目上の父王ならば呼び捨てにするであろうが……こちらは名を呼ばれる事はない。いつも「そなた」「そち」「息子」だ。名を覚えているのかすら、怪しいとエイアンドは思っている。
なので、エイアンドを呼び捨てにするのは、エレンだけだ。特別な女性だけだ。
なので、エイアンドは自らの事情を話す事にした。
しかとエレンを抱きしめたまま。
◇
20年ほど前……大戦の余韻もまだ残っていた頃、一組の男女が恋に落ちた。
男は王子で、女は商家の娘だった。
豪商とはいえ、女は平民。
他国であれば、結ばれぬ定めであっただろうが、その国……ローラシア王国では問題にならなかった。
伝統的に、平民でも貴族や王族と婚姻することは珍しくない国だからだ。
ふたりは何ら問題なく幸せになれるはずだったが、女の実家の商家が事業の失敗で莫大な借金を背負った。
しかも、隣国との重要な取り引きの失敗も重なった。
そのような家の女が、妃になることなど許されるはずもなく、ふたりは引き裂かれることになる……そんな折、とある侯爵家から救いの手が伸びた。
曰く、借金を肩代わりしよう。隣国との取り引きも、失敗を補填しよう――と。
その代わり、侯爵家の娘を正妃として迎えよと。
王子と娘はその条件をのみ、侯爵家の娘が正妃となり、商家の娘は妾の地位に収まった。
だが、愛し合うふたりにとっては、そんなことは些細な問題だった。肩書きなどどうでもよかったのだ。
ふたりは結ばれ、愛し合い、ほどなく娘の懐妊が知れ渡った。
その直後、正妃となっても閨を共にすることのなかった妃が王に迫った。
自分にも愛を注いでほしいと。
閨をともにしてほしいと。
その訴えに王子も心を打たれ、正妃と閨をともにするようになった。
そうして産まれたのが、エイアンドだ。
女児であったのに、王子として偽ることになったのは、母親である妃の野心の為だ。
国母となる野心のために、女児のエイアンドを男児と偽ったのだ。
弟であっても、男ならば継承権が上であるために。
女であれば、正妃の娘であっても継承権はないために。
――そして何年か後、件の商家の借金も、隣国との取り引き失敗も、正妃の実家……いや、正妃の差し金であったという告発があった。
だが、その話がその時には王となっていた王子の耳に入る頃には、告発者は魔物に殺されていた。
めったに魔物が入り込まぬ王都で。
通報した者以外、誰も見ていない魔物に殺された告発者。
その告発の真偽は謎のままだ。
その頃から父王は正妃とエイアンドを疎んじるようになる。
言葉には出さないが、エイアンドを世継ぎにしたくないのは明らかだった。
なので、エイアンドは言ったのだ。母に。
このような事ははもうやめましょう。私も女として生きたいです――と。
母は怒り狂った。
二度とそんな事を言わぬように。女として生きたいなどと言わぬように。
そう言って母はエイアンドの腹を裂き、子を産めぬようにした。
エイアンドは、それ以来母には逆らえなくなった。
逆らえば、次は何を奪われるかわからない。
これ以上は、奪われたくない。
だから、エイアンドは子を産むことを利用するような女には怒りを覚える。
そして、子を産めぬからと女を諦める者にも怒りと……悲しみを覚えるのだ。
自分も諦めねばならぬのかと。――諦めたくはないと。
次回24日です。




