血と肉
潤にも訳はわからないが急場は凌げたらしい。
引き攣る様な左手の甲の痛みを確かめる間も無く、潤は凍り付いて身動きもしない美咲を抱きあげる。
美咲の身体は硬直してマネキンの様だ。
抱えた美咲の臀部が手にあたり、冷たい感触がモロに手のひらを濡らす。
硬直した美咲を抱えたまま廊下を小走りに階下を目指す潤。
洋二が居たはずの横を通り過ぎる時、目の端に見覚えの有るシューズが映ったが。引き剥がすように視線を逸らし先を急ぐ。
踊り場まで辿り着くと、美咲を肩に担いだまま階段を駆け下りる。
一階降りたところで肩の上の美咲が暴れ出した。
「降ろして!」
担がれて潤の背中を掴んでいた手を離し、潤の背中を激しく叩く。両の太ももを潤に抱えられたまま、両足を激しくバタつかせ潤の束縛から逃れようともがく。
「離してっ」
突然の美咲の狂乱に驚き、一瞬手の力を緩めた潤の手から、身を振りほどくように降りた美咲は、潤の胸倉を掴み振り絞るように懇願する。
「濡れてるから…洗わせて」美咲の肩が震えている。
美咲の頼みに潤は眼を剥く。
余りの事態に美咲は思考がついて行かないのか。
何が起きているかは潤にも定かではないが、身の危険が差し迫っている事だけは痛いほど理解出来ていた。
この状況で失禁を恥じる美咲の心情が潤には計り兼ねた。
命よりも大事なことなのか。
まだ高校生の潤には美咲の心情を察しろと言うのも無理な話だが。
「すぐ、すぐ済ますから」
目を泳がせながら、教室と階段の間の手洗い場に入ろうとする美咲の手を潤は掴み、一緒に入る。
一緒に入って来た潤に怪訝な目を向ける美咲に真剣な眼差しで潤は語り掛ける。
「今ここで美咲を一人には出来ない、外見張ってるから」
言って手洗い場の入り口に廊下を向いて立つ。
霧はトイレの中まで押し寄せて、見張る意味など無いようにも思えるが、美咲に背を向けて立ち込める霧を睨む。
一瞬の間をおいて、洗面台のコックがひねられ、水が激しく洗面台を叩く音。
神経が研ぎ澄まされているのか、背後で動く美咲の衣擦れの音まで潤には聞こえる気がした。
続けて聞こえた水音は美咲が下着を洗う音か。
不意に背後から伸びた手が潤のシャツのボタンを外しに掛かる。
「シャツも濡れてるから」
一瞬何のことかわからなかったが、シャツの前に触れてみて、美咲の雫が自分のシャツの前も濡らしていたことに気づく。
美咲の言葉に逆らわず、潤も自らボタンを外し背後の美咲に脱ぎ捨てるようにシャツを渡す。
僅かに振り向いた潤の視界に、洗面台の中で水しぶきを浴びる美咲の下着が垣間見え、見えてはいないが背後の美咲があられもない姿でこの状況に対処していることを潤に知らせた。
霧を通して校舎の内外から聞こえる阿鼻叫喚の叫びを耳に。
潤は、俺は何を想像しているんだろうといぶかしむ。
ついさっき見た親友洋二の最後の姿が鮮明で凶悪な映像を脳裏に結んでいるのに。
そこに耳から入る背後の水音が、見えてはならない想像の中の美咲の肢体の映像を重ねる。
潤はこんな状況にも拘らず股間の物が勃起していることを感じ、視線を落とした股間が外部からはそれと分からない事に安堵する。
理解を越える異常事態を目の当たりにして、美咲だけじゃない、俺の意識もきっと混濁してるんだ。こめかみを押さえてなんとか平常心を取り戻そうと試みる。
大きく頭を振る。
まったくどうかしている。
頭を振ったはずみに左手の甲に注意が向く。
さっき起きた出来事を左手の甲を見て原因を探ろうと、手の甲を凝視する。
霧が校内の視界を奪っているとはいえ、手元はハッキリ見える。
燃えるような痛みを感じた左手の甲には何やら紋様の様なものが浮かび上がって見える。
一瞬浮かび上がった紋様が動いた様な気がしたがそんなはずはない。
鬱血の様に色がついているようにも見え、引き攣れの様にも見える。
記憶が何やら呼び掛けて来る。
潤の記憶が引き出しの奥から言葉を引っ張り出して来た。
「バハ…ムート…」
言葉に出してみて潤は自分で吹き出しそうになった。
いつかゲームの中で見た竜王のシルエットに似ている。
全く今の自分はどうかしている。
高揚した気分が自分をどうにかしているのか、霧を透かして蠢く敵が見える気がする。
潤は唐突に脳裏に浮かんだ「敵」という単語に戸惑った。
なんで「敵」という単語を思い浮かべたのか。
敵という単語を再認識した瞬間、潤はつま先から、股間を通過して頭頂まで震えが駆け上るのを感じた。
恐れの震えではない。股間から指先に向けて力がみなぎって来るのを感じる。
これが武者震いって奴か?潤はひとりごちる。
経験した事の無い明確な感覚に潤の脳が震える。
あり得ない事だが両足の裏から、明確な微振動が上へ上へと昇ってくる。
気のせいではない。実体の有る振動が身体を駆け上がる。
背中に鳥肌が立つのを実感として感じる。
これはなんだ。
身体を駆け巡るうねりに潤は翻弄されそうになる。
血液が物理的な強制力を伴って全身の血管をうねり身体を支配しようとしている。
血管の中に何か居る。潤はハッキリそう感じた。
知らず首は上向き、腕は振り上げるが如く脇を開ける。
両足が廊下の床を踏み抜き、大地を蹴る光景が潤の脳裏を掠める。
「潤君!!」
背後から声を掛けられて我に返る潤。
振り向けば潤のシャツを胸元に抱えた美咲が、恐ろしい物を見るような眼で潤を見ている。
「どうかしたの」
何処か恐ろしそうに潤に問いかける美咲に、潤は肩の筋肉をほぐすように動かし答える。
「なんでもないよ、少し緊張してるだけ」
今さっきまで身体を内から支配していたような呪縛は解けて、美咲からシャツを受け取ると、まだ濡れて皮膚に張り付くシャツを苦労して着込む。
今の感覚は何だったのか。内からの呪縛は綺麗に解けて寧ろ身体が軽い。
「ついでにスカートも洗っちゃうからもうちょっと待ってね」
言われて気が付いたが、美咲は既に下着を履き終わり、逆にスカートを洗面台に浸してもみ洗いを始めている。
「あんまり見ないで」
この状況にもまだ恥じらいを残している美咲は、足を擦り合わせて無駄な抵抗をする。
濡れた下着が美咲の曲線を強調して潤の視線を固定しようと魔力の如き吸引力を発しているが、潤もまだ辛うじて残る自制心を総動員して視線を廊下に戻す。
「他の皆、どうしてるんだろうな」
誰に言うともなく潤は呟いて霧の向こうに想いを馳せる。
教室を出てからまだ5分も経っていないだろうが、このわずかな間の出来事が轟々という音を伴って潤の脳裏の中で繰り返されている。
スカートを洗い終えた美咲が絞るには絞ったがまだ半分濡れているスカートを履くとまだ湿り気をたっぷり含んだ生地が皮膚に張り付き豊かな曲線を描き出す。
だが潤がその眺めを堪能する猶予を時は与えてくれなかった。
手洗い場を踏み出した美咲の向かい、廊下の外の霧の中に潤は巨大な眼の存在を認識する。
霧の中だ。見えるはずが無いのに潤には見えている。
実体を伴わない、だが強大な風圧が潤の顔を撫でる。
「美咲っ!」
叫ぶと同時に美咲の前に身を屈め、美咲の右腕を抱え込む。
まるで予期していたかのように潤の背中に身を預ける美咲。
生地越しだが美咲の肉の感触を確かに感じ、頭の中で誰かが吠える。
「俺の肉だ!お前らには渡さん!」
再び血が騒ぎだす。