滅びの砂時計2 ダゴドンの逆襲
当作品は、【滅びの砂時計】の続編です。
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この日も、あの日と同じく平々とした一昼夜が過ぎようとしていた。
“あの日”とはある夏の夜、すなわち水底より差登り、異獣ダゴドンが顕現しようとした日に他ならない。
ダゴドンは冒涜的なまでに人に酷似した異形である。
その大顎は研鑽練磨の果てにあるとしか思えない鋭利な牙を生まれながらに無数に誂える。
神木を思わせる山脈めいた筋肉の詰まった四肢は、棲家たる大潮流すら微風のように貶め、剰え自らを颶風として獲物へと導くのだ。
膂力のみで全ての生命を肉塊へと変貌させうるが、その上肢には歯牙以上に狂気めいた大自然の刀匠たる収斂進化の御技を想起させる鉤爪を備える。
地上の霊長たる獣にとっての僥倖は、海溝の霊長というべき獣・ダゴドンが好奇心にいささか欠ける種だったことと云えた。
ダゴドンにとって未知とは虚空の同義であり、海底に於いて飢餓空腹たりえないならば、地上へ向かう動機は発生しえなかった。
しかしながら、それは突然起きた。
海難事故で溺死した沈んだ少女の亡骸。塵芥の如く海底に降り積ろうとした彼女の腐肉から溶け出した地上の匂いは、ダゴドンたちの食欲を大いに刺激するに充分。
“地上には、この肉が食いきれないほどあるに違いない!”
人肉が未知から既知へと記号を塗り潰したことで、人類にとっての滅びの砂時計は始まった。
だがしかし、夏の夜、ダゴドンたちにとって更なる未知である飛蚊の掻き毟るような脅威までも既知としてしまったのである。
彼らの体臭は蚊を引き寄せやすかったらしく、しかも両手に備えた鉤爪の存在から手で叩き潰すことができず、彼らは猛烈な痒みから海底へと退却を余儀無くされた。
地上には肉も有るが蚊も存在している。その事実から地上の滅びの砂時計は止まった……かに思えた。
しかしながら、大鮪を貪るダゴドンが天啓めいた着想を得た。
海底では月の移り変わりや気温によって食物が異なる。ならば最強最悪の天敵も一年中では無いのでは、と。
時期は寒冬、冬将軍師匠も走るクリスマスシーズン。
死を配るサンタクロースの如く、ルドルフより俊敏なダゴドンが真赤な目をピカピカギラギラ光らせ、地上に上陸した。
既に日が落ちた砂浜に人々の姿はなく、ポイ捨てされた空き缶や休業中の看板が吊り下げたままになっている海の家の割れた窓ガラスがガタガタピューピュー音を立てているだけだった。
浮上した一匹のダゴドンは、腕の鉤爪を切断して万が一蚊と遭遇したときでも叩き潰して対応できるようにしていたが、その姿も音もない。
蚊がオールシーズンではないのではないかという着想に対し疑心暗鬼だったが、何事も起きない現状にダゴドンはその大きな口を歓喜に歪めた。
攻撃は無い。そして卓越した嗅覚は容易く、その匂いを捕らえた。
ダゴドンは走った! 餌の匂いだ!
「いらっしゃああへぇえっ、へへへへへ! ぁあああフうー……あー、吐きそう」
暖簾には、『お』『で』『ん』の文字が踊る……そう! 屋台オデンである!
店主はダゴドンを見ても会心の笑みを浮かべている! そう! アルコールが入っている! 泥酔だ!
客商売において笑顔は基本であり、店主は基本に忠実と云えた! が! 半漁人みたいな怪物と人間を見分けできない状態で客の応対をするのはやりすぎだぞ!
ダゴドンは思った!
【こいつ、俺が怖くないのか?】 と!
海中ではアルコール発生のための発酵・醸造という現象に遭遇することが無く、酔うという概念が存在しないダゴドンには店長の状態を察知することが不可能だった!
っていうか、アルコールを知っている地上人からしても、飲兵衛の思考は付いていけないとされることがあるから注意が必要だ!
「お客さん、背高いねー。外人さん? 日本語分かるゥほほほほほほほほ!」
外人さんというか人外さんだ! 惜し……くはないか、惜しくなかった!
状況に付いていけないダゴドンは店長の指差す先、貧相な折り畳み椅子にギシギシと音をさせながら腰掛けた。
とりあえず、ダゴドンは酔っ払いに逆らってはいけない、そんなルールを察していた!
……そう! このダゴドンは空気を読んじゃうダゴドンだったのだ!
「初めてならオススメいくつか出すねぇへへへへへへへへ、ハイ」
出てきたのは、白い正方形の食物……そう! 豆腐である!
オデンに豆腐を入れるのは無知蒙昧な酔狂であるように思えるが、実はそうでもない!
四国・香川県周辺で見られるローカルオデンである。厚揚げは全国的に入ることがあるが、この豆腐はただの木綿豆腐。
香川は讃岐うどんで知られるようにうどんを県民食に据えていることが知られる通り、県全体にうどん屋が見られる。
そして当然だがうどん屋ではダシが有り、そのダシにオデンダネを入れることが多く、多くのうどん屋でオデンを併売している。
ダゴドンは自らの嗅覚に従い、豆腐を手掴みして口に運んだ。
そして、ダゴドンは思った!
【う、美味い! 豆腐がほぐれると同時に口に広がるダシの風味! 温かさが口全体に広がり、腹に落ちてからは全身を暖める! 心地よい!】
と!
ここで店長は、ある問題に気がついた!
「あぁー、外人さんだからお箸使えないのね。火傷しないように、ほれ、これ」
先っちょがフォークになっているスプーン! ス〇キヤのラー〇ンフォークだ!
〇ーメン〇ォークは、愛知県名古屋が発祥のラーメン屋、スガ〇ヤで用いられているスープもメンも食べられるスーパーツールである!
これなら箸が使えないお客さんでも食べやすい! 外国人への配慮もしている良い屋台だった! そんな感じで次のオデンダネが出てきた!
出てきたのは、黒い正方形の食物……そう! 黒ハンペンである!
愛知のお隣、静岡県発祥のローカルオデンである。ハンペンは全国的に入ることがあるが、このハンペンはただのハンペンではない。
静岡のソウルフードであり、静岡では黒をただハンペンと呼び、白い全国区のハンペンを白ハンペンと区別することもある!
フライにしても美味く、白より身の詰まった風味は一度食べると忘れることはないのだ!
ダゴドンは自らの嗅覚に従い、黒ハンペンをフォークで突き刺して口に運び、そして! ダゴドンは思った!
【う、美味い! すり潰した魚介の風味が実に濃厚! 一噛みごとに大海原を思い起こさせる! 生命に溢れるスリミ・オブ・スリミ!】
と!
海原を想起させるその味に、思わずダゴドンは俯いた。
涙を流すこともない水棲生物ではあるが、その首の角度を店長は知っていた。
「……あんた、なんか有ったのか……? まあ……飲めよ」
店長に差し出されるまま飲み下したそれは、あまりに衝撃的。独特な風味と喉から舌まで叩きつけるような刺激、泡盛だった。
沖縄原産のアルコールは、一撃でダゴドンの脳髄を弛緩させた!
そして!
ダゴドンは!
やっぱり!
思った!
【こんな仕事やってられっかよぉおおおおおお!
上司の思いつきで地上を見て来いって云われてよぉ~~!
蚊が出たらどうするってんだよおおお! 俺一人で蚊に刺されて死ねってのかよォォォォ!
爪を切ったから自分で潰せって、気付かない内に刺されてるヤツも居たじゃないかぁあああ!
怖くて怖くて、でも断ったら村八分だって云うし、決死作戦だってのに女房子供は“頑張ってね”の一言だけって!
もうちょっと、何かあるだろ! 泣けとは云わないけど、もうちょっと、何かあるじゃん!
普段から“お父さん、ウロコ臭い”とか云われるし、お父さんの泳いだあとはダシが出てそうだから泳ぎたくないとか云われるし……】
と!
「あんたも大変だねぇ、まあ、もう一杯飲めよ」
言葉ですらないが、そこは酔っ払いのとある能力が解決した。
そう、酔っ払っていると言語ではなく、ニュアンスだけで意思疎通をし出すのだ。
この現象は多くの地域・国に見られる! 見られるのだ! 見られるから仕方ない!
沖縄オデン名物・ソーキを食べつつ、空気を読みすぎるダゴドンと泥酔オデン屋の酒盛りは続いた!
『酒が飲める酒が飲める酒が飲める、オデンも食えるぞー♪』
そして翌朝。
このダゴドンは海洋を漂っているところを仲間に回収された。
仲間たちは、このダゴドンがかつてない頭痛を(二日酔いで)訴え、(酒の飲みすぎで)記憶が無かったことを重く考えた。
客観的推察により、ダゴドンたちは地上には記憶操作のできる未知の脅威が存在しており、帰還した彼はその警告として戻されたと結論付けられた。
泥酔して、浜辺で爆睡していたオデン屋店主は、風邪気味の体で屋台を引きずり、人類滅亡の砂時計を中断させたという自覚もないまま、仕込みに戻った。