日常からの変異
これは、一人の凡人の何気ない日常を綴った物語である。
誰からも頼られず、誰からも必要とされない、そんな男がある出来事により…
「今日も疲れた、早く帰りたいな。」
いつもの帰り道、暗闇で独りごちている様は怪しいとしか言いようがない。
しかし、周りには誰もいないので問題ない。これはただの口癖のようなものであり、特に意味はない。
何となく口にするだけでストレス解消になっている気がするだけだ。
今日は取引先から無茶な注文が入り、少し気が滅入っているが、そんなのは気にするだけ無駄だ。
どうせ、出世なんて望んでもないし、凡人らしく、細々と生きていけばいい。
そんなことを自分に言い聞かせながら歩いていると、暮らしているアパートに到着した。
狭い1kのアパート。会社から近いことだけが取り柄の安物件だ。
無理をすればもう少しいいところに住めるが、所詮、無精者の一人暮らし。そんなものにお金を使うくらいであれば他に使った方がまだマシというものだ。
部屋に入ると郵便ポストにチラシが数件、ハガキが一枚入っていた。
「田中 太郎 様 このたびはご応募いただきまことにありがとうございます。当社の…」そこまで読んで、ハガキをゴミ箱に入れた。
「また変な勧誘の手紙か。最近多いんだよな。」
最近よく入る怪しい手紙を見て、ついつい独り言を言ってしまう。
もちろん俺の名前は田中太郎などではない。
神田 祭という男か女かよくわからない、都会のイベントみたいな名前が本名だ。こんな名前をつけた親のセンスを疑うところだ。
しかし、そんな俺に対して、なぜか何度も田中太郎名義で手紙を送ってくる輩がいるのだ。
そもそも、今時、田中太郎なんて名前の人がいるのだろうか。いなくはないのだろうが、明らかな偽名としか思えないのだが。
普段ならば馬鹿馬鹿しいと一蹴してしまうところだが、今日の俺はなぜかその手紙をゴミ箱から取り出し、手に取ってしまった。
「田中 太郎 様 このたびはご応募いただきまことにありがとうございます。弊社の厳正な審査の結果、田中様には特別なテスターとして実験を受けていただくことになりました。つきましては、下記の日程のとおり弊社にお越しいただきますよう、よろしくお願いいたします。なお、参加できない場合は下記連絡先までご連絡ください。…ガラクタス株式」
読んで見たものの、なんだか訳がわからない。日程は明後日の昼間、場所もアパートから30分もしないところが書かれている。
「なんなんだこれは。ガラクタス株式会社なんて会社聞いたこともない。ネットで検索してみるか。」
そう言いながら、インターネットで検索してみるも、それらしい会社はヒットしない。
「特別なテスター、実験って、こんなのに引っかかる奴なんていないだろ。」
この怪しさに少し心惹かれながらも、明日も仕事だということを思い出し、手紙を机の引き出しにしまった。
その後は、買い置きしていたカップ麺を食べ、風呂に入り、気がついたら寝てしまっていた。
翌日、何事もなく仕事に出かけた。
昨日のミスが尾を引いていたのか、今日も取引先との商談が上手くいかず、上司に怒鳴られた。
「神田、お前は何度も同じミスを繰り返す気だ。もう入って何年になると思っているんだ。」
上司に怒鳴られながらも、気持ちはどこか上の空だった。ミスが続き自暴自棄になっているのか、あの手紙に想いを馳せていた。
仕事も上手くいかない凡人な自分だが、特別なテスターとして実験に選ばれたのだ。もしも、そっちが上手い話ならば、今の仕事をやめればいい。
まるで宝くじを当たって仕事を辞めようとする会社員のような愚かしい気持ちになっていたが、不思議とおかしく思わなかった。
明日への決意を固め、なんとか仕事を終え、アパートに帰った。
家に帰ると当然のようにまたあのハガキが届いていた。俺は時間と場所を確認し、明日に向けて休むことにした。
「明日が俺の新たなスタートだ。たのしみだな。」
そんな変な希望を抱き、眠りについた。
目が覚めると見たこともない場所にいた。周りは白一色、机も椅子もベッドも何もない。
昨日からの記憶を辿って見たが、普通に自宅のベッドで寝ていたはずだ。アルコールも好まないので、普段は飲まず、それにより記憶が混濁しているわけでもない。
夢かとも思ったが、あまりにも現実的すぎる。手を振ったり、その場でジャンプしてみたり、地面を叩いたりしてみたが普段と変わらない。地面を叩いたてはじんじん痛む。
「どうなってるんだ。誰かいないのか。」
とにかく大声で叫んでみたが、何も反応はない。反応だけでなく、反響もない。どうやらここは思ったよりも広い空間らしい。
自分の持ち物を調べてみた。予想はしていたがあのハガキが一通ポケットに入っていた。
しかし、その内容は少し変わっていた。
「田中 太郎様 本日は弊社にお越しいただきまことにありがとうございます。早速ですが実験を始めさせていただきます。簡単な実験ですが、場合によっては死に至る可能性もありますのでご了承ください。なお、実験を全てクリアした暁にはあなたの望みを全て叶えて差し上げます。…ガラクタス株式会社」
ふざけた内容にもほどがある。死の恐れがある実験だと、誰がそんなのやるというのか。望みわ を全て叶えるというのも眉唾ものだ。果たしてどうやって叶えるというのだ。
居ても立っても居られず、俺は再び大声をあげた。
「誰かいるんだろ。こんなふざけた遊びもいい加減にしろ。人を勝手に連れてくるなんて、やって良いことと悪いことがあるだろう。」
『貴方が望んだからこちらまで連れてきたのですよ、神田祭さん。』
どこからともなく機械音のような音がした。
「俺がなにを望んだというんだ。」
『貴方は変わりたがっています。今の自分は本当の自分ではない。本当の自分はこんなものではない。そう思っているのでしょう。私は貴方のその望みを叶えてあげているだけです。さあ、お行きなさい。そして、願いを遂げなさい。』
「何を訳のわからないことを。俺は…」
そう言おうとしたした最中、突然、視界が真っ暗になった。
『さあ、せいぜい足掻きなさい。愚かな人の子よ。』
遠くからあの機械音が聞こえた気がした。