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第六話「拉致」2/2

 何本かの手が、背理(はいり)をぐいっと起き上がらせた。

 誰かは髪を握ってバスケ野郎へと頭を差し出させ、また誰かは両腕を後ろ手に締め上げる。

 それも十分痛かったが、自力で座っていられないほど力の抜けている背理には、相手の好みの姿勢を勝手にとらせてくれるのであればまだ楽だった。



 そのとき、背理の襟元からぽろっと何かが現れた。

 転がり落ちるように出てきたそれは、さらけ出された背理の首の下で、宙ぶらりんになって揺れる。

 そして、きらり、と暗がりの中でかすかな明かりに反射した。


「なんだ? それ」


 ふと光った物に、バスケ野郎が反応し指を伸ばしてきて絡める。


「さ、触るな……!」


 首を引っ込めようとしたが、押さえつけられているために動けない。

 背理はとっさに声を上げてしまった。


「へぇー……大事なもん?」


 バスケ野郎は面白そうに笑うと、ぶちっと背理の首から小さな光をむしり取った。


「……ッ!」


 首筋に、火傷をしたときのような痛みが細く走る。


「か、返せ……!」


 背理は初めて、この拘束から抜け出そうと抵抗した。

 だが一人対数人なので、びくともしない。

 もがく背理を、バスケ野郎はいい気味だとばかりに、薄ら笑いで見ている。


「そんなに大事か? なら、ちょうどいいな。これで取り引きだ」

「と、取り引き……?」


 背理は小さな光を見たまま、おうむ返しに聞く。


淑野(よしの)に近づくな。目障りなんだよ」


 バスケ野郎は、小さな光をぷらぷらと振りながら吐き捨てた。





 すると、背理が「はぁーっ」と息を吐いた。

 そして動かない肩をすくめるようなそぶりで、バスケ野郎を見上げた。


「……それさぁ、その淑野さんの、なんだよね」

「……はっ?」


 バスケ野郎の動きが止まる。


「……おい、嘘でもついてやり過ごそうってか?」


 一瞬黙ったものの、すぐに舌打ちし、背理を睨んできた。

 だが背理は動じない。


「よく見なよ。それ、女物でしょ?」


 背理に言われて、手の中をまじまじと見つめるバスケ野郎。


「この前彼女とすれ違ったときに、拾ったんだ。メールで聞いたら、大切なものらしくてね。急いでて落としたのかなと思ってたんだけど……君の話を聞いたらそうでもなかったみたいだよね」

「……どういう意味だ」


 彼が立ち尽くしたままこちらを見た。


「淑野さんって僕のことが好きなんでしょ? じゃあ……落としちゃったんじゃなくて、わざと僕に拾わせたんじゃん。今度返す約束なんだけど、あれってデートのお誘いだったんだなぁって」


 暗がりの中、すらりとした長身が震えている。


「好きでもない女と、デートかよ──」

「別にいいじゃん、君に関係ないし──ちょうどいいや、教えてあげるよ。それね、君には思いもつかないような……いや、君にはとてもできないような、そういう演出で返そうと計画してたんだ、せっかくだからさ。好きな相手であれば、多少強引でも受け入れちゃうシチュエーションってあるでしょ? 実を言えば、僕もそれがちょっと楽しみでね。だから首に提げてたんだ──臆病者の君に、好きな子の大切な物を、壊す度胸があるのかな?」

「てめぇっ──」


 バスケ野郎が背理に詰め寄ろうとした。

 背理は構わず話し続ける。


「あとねぇ、君は勘違いをしてるみたいだけど、淑野さんのほうから僕に近づいてくるんだからね? 僕は呼んでもいないし、なんとも思っちゃいない。だから、淑野さんが僕を好きでも、君が淑野さんを好きでも、どうでもいいね。……ただ、淑野さんのほうは、僕のことは好きでも、僕に手を出した君なんて、嫌いだろうね」

「黙れ!」


 ダァン……!


「てめぇ、まだ痛い目に遭い足りないようだなぁ……っ!」


 バスケ野郎の怒鳴り声とともに、背理に向かって何かが飛んできた。

 それは勢いよく床に当たって、大きな音を立てて跳ね返る。

 バスケットの、ボールであった。





 ──ドンドンドン! ドンッ!


 突然、ドアが激しく鳴った。


実原(さねはら)くん、中にいるの!? いったいなんの音、誰かに何かされてるの、大丈夫!?」


 立て続けに声が聞こえた。

 バスケ野郎がぎょっとしたように振り返る。

 背理も、背理を押さえている仲間たちも、この空間に暗闇と一緒に自分たちを隠している扉を、見た。


 再び、扉が叩かれる。


「実原くん、いるの!? 大丈夫!? 実原くん、返事して!」

淑野(よしの)……?」


 バスケ野郎は、固まっていた。


 どうやらこのバスケ野郎は実原(さねはら)という奴らしい。

 しかしそんなことはどうでもいい背理は、扉の外で何が起こっているのだろうと考えた。

 淑野がいる。

 ということは、ここはまだ学校……?


「よ、淑野……か……?」

「実原くん……? 実原くんなの、大丈夫、平気? 先生、呼んできたほうがいい……?」

「いやっ、……大丈夫。大丈夫だから……」


 実原は背理を置いて、扉に近づいた。


 先生を呼べるというのなら、ここは学校だ。

 では、真事(まこと)はまだどこかにいるのだろうか?

 ここは、保健室ではない。

 いなくなった自分を、彼は探してくれているだろうか?


 淑野の声は続いていた。


「本当に大丈夫……? 実原くん、そこにいるの……?」


 実原は、目を閉じ、扉に手を伸ばした。


「いるよ……淑野、オレは大丈夫だから──」



 ドッカーン!


 扉が吹き飛んだ。

 ものすごい勢いで、真っ二つに割れた。

 すぐそばにいた実原は、扉とともに吹っ飛び、物陰に消えた。


 そして、現れたのは──。


「つ、綴季(つづき)真事(まこと)……っ!」

「なんで、綴季が──」


 背理の後ろにいる面々が、うろたえはじめた。

 背理は、急に灯った明るさに目をしばたきながら、顔を上げる。


「よう、背理(はいり)


 そこには、真事が立っていた。





「私……私ね、実原(さねはら)くんに、その……告白されたの」


 淑野が話しはじめた。


「でも私、断ったの。そしたら……ほかの人が好きなら、教えてくれたら諦めるって言われて。私……音無(おとなし)くんって答えたの……」


 目をきゅっと閉じ、何度も何度も息を吸い、手を握りしめている。

 こんな話を、ほぼ知り合ったばかりのような学年一の荒くれ者に話すのは、まず怖いだろう。

 真事は黙って聞いていた。


「それで今日、実原くんが音無くんのこと、わざわざ冷やかしに来たでしょう……? 今まで、もう気にしてないんだって思ってたから、少し怖かったの……」


 淑野が真事を見上げる。


「綴季くんは、どうして音無くんがいなくなっちゃったんだと思う? まさかって思ったけど……全然帰ってこないなんて、まるで、まるで……綴季くんがいなくなったの、見計らったみたいじゃない……」

「……あいつは確かに眠っていた。あいつ以外の仕業ということだな」


 淑野が頷く代わりに、そのふんわりとした髪が震えた。


「……それでね、そういえば実原くん、さっきずっと体育館に残ってたの。でも、変には思わなかった。だって……だって、実原くん、体育委員だから……」

「だから……なんだ」


 真事は訝しげな顔だ。

 淑野が何度か小さく息をつき、そして意を決したように真事の目をまっすぐ見た。


「体育委員会の人は、今日の球技大会の後片付あとかたづけをするの。ボールも、笛も、スコアボードも、しまうの…………体育館倉庫に」

「……そこか」


 真事は、保健室前の廊下を、体育館へと続くほうに向いた。





「綴季くんは──っ」


 走り出した真事を、淑野が少し遅れて追いかける。

 真事は振り返らない。


「どうして実原くんのこと、疑ってるの──」


 急いでいたが、真事は淑野に合わせて、少しだけ速度を緩めた。


「あいつはグルだ。音無のチームメイト、対戦相手、実原。三人で仕組んで音無を疲れさせ、油断したところで狙ったんだ。だが、そのあとの水道にお前がいた。り足りないと、思ったんだろうな」

「──っ!」


 淑野が息を呑んだ。

 真事は淑野のほうを見た。


「お前のせいじゃないぞ。間違えるな」

「……うん──」





 体育館が近づいてきた。

 出入り口は開放されている。

 中に人の気配はなく、電気は消されて暗い。


 入ろうとした真事の体操服の袖を、淑野がはっしと掴んだ。


「あの……っ」

「なんだ」

「倉庫にいたら、助けに入るんでしょう?」

「そうだ」


 淑野が胸に手を当て、深呼吸をし、言った。


「私にも、手伝わせて」

「……危険だろ。今ここで戻れ」


 びっくりするような申し出に、真事は当然首を横に振った。

 しかし淑野は食い下がる。


「最初に……実原くんをおびき出せばいい……と、思うの。そのとき、私にさせて……。私たちの考えが本当なら、音無くんにしたこと……ダメだよ。だから……私も、怒りたいの」


 こっちをまっすぐ見ていた。

 本当に意外な根性を秘めた女子である。


「……俺が、行けと言ったらすぐに逃げろ。そして職員室に行け。なんでもいいから、理由をつけて居座れ。あとから迎えにいく」


 淑野が頷いた。





 二人は静かに体育館の中へ入っていく。

 倉庫は、体育館の隅のほうにある。

 近づくと、くぐもった人の声が聞こえた。


「──綴季くん……」


 真事は手で制した。



 ダァン……! という鈍い衝突音が体育館にぼうっと反響する。


「──任せるぞ。扉は開けさせるな」


 真事は、倉庫の扉のすぐ横で聞き耳を立てた。

 扉の目の前で、淑野が大きく息を吸った。



「実原くん、中にいるの!? いったいなんの音、誰かに何かされてるの、大丈夫!?」


 真事は、目を丸くした。

 澄ましていた耳のそばで大きな音を出されたからではない。淑野が大声を上げたからである。


「実原くん、いるの!? 大丈夫!? 実原くん、返事して!」


 扉を両手でドンドン叩きながら、淑野が叫んでいる。


「よ、淑野……か……?」


 すると中から声が答えた。


「実原くん……? 実原くんなの、大丈夫、平気? 先生、呼んできたほうがいい……?」


 淑野は叩くのをやめた。そして数歩、後ろに下がる。

 真事は、扉の前で構えた。


「いやっ、……大丈夫。大丈夫だから……」

「本当に大丈夫……? 実原くん、そこにいるの……?」

「いるよ……淑野、オレは大丈夫だから──」


 真事が行け、と首を短く振った。

 足音を立てないように気をつけながら、淑野は走り去っていった。









「う、うわああぁ……っ!」

「──待て」


 逃げ出そうとした二人の男子生徒を、真事が捕まえる。

 万が一だが、淑野に追いつかせるわけにはいかないし、それよりも、こいつらには返してもらうものがある。


「そう急ぐなよ……ゆっくりしていけ」


 格別に低い声で言うが早いか、顔面に一発ずつ喰らわせ、二人を床に捨てた。



「よう」


 倉庫の床では、背理がぺたりと座り込んでいた。

 あざのできた顔に、頬にも唇にも血がにじんでいる。

 近くには裂かれたジャージが放られていて、着ている体操服はしわくちゃで、汚れていた。


「真事……。真事、今──」





「くっそ……」


 ゴトリ、と倒れていた扉が動いた。

 実原がなんとか這い出てきたのだ。


「なんなんだよ、マジで……。……は? お前は──」

「おい。ダチが世話になったな」

「友達……?」

「俺は人の貸し借りが嫌いでな。ほかを当たれ」


 自分に気づいた実原に、真事は近寄っていった。

 実原は真事を恐れてはいないようだが、嫌いらしい。

 あかさらまに不快なものでも見るような目になった。


「なんでお前がここにいんだよ?」

「こいつの礼参り……ってとこだな。ずいぶんと可愛がってくれたみてぇじゃねぇか」


 ……だが、さすがに瞳を炯々(けいけい)とさせた真事のことは怖いようだ。

 逃げ場のない壁際で、這いつくばった状態のまま後ずさろうとしている。


「よ、淑野が──」

「他人に頼まれたってか? 貴様の計画だろ」



 ──貴様、何を企んでる。


 真事はあのとき実原の胸ぐらを掴み、みんなには聞こえないような小声でそう言ったのだった。



「は、放せ……っ! な、何をする気だ──」

「化けの皮が剥がれれば、そんなつらってか。ざまぁねぇな」


 実原はおびえ、震えていた。

 真事は実原のジャージを掴み、乱暴に立たせる。


「警告したはずだ」


 そして、


 ガン……ッ!


 真事が実原を殴り飛ばした。さきほどの二人を気絶させたものとは比べ物にならないくらいの力だった。

 実原が壁にぶつかって崩れ落ちる。こちらも気を失ったようだ。

 真事は無抵抗であることなどおかまいなしに、倒れた相手に馬乗りになって何度も何度も拳を振るう。

 背理が痛みを忘れて見入るくらい、激しく、そして長く、暴行を加え続けた。





「──こんなもんだろうな」


 しばらくしてから、真事は、興味が失せたとでもいうように急に、壁際から戻ってきた。


 最後に真事は、実原の胸を盛大に踏みつけていた。

 ミシミシ、バキ、と嫌な音を立てて、実原のあばらがたわんでいた。

 背理はあまりのむごさに耳を押さえつつも、それが自分の役目のような気がしたので、しっかり真事の所業を見ていた。


 真事が背理の前へやって来た。

 背理は、真事に手を伸ばす。


「ありがとう、探してくれて」


 真事に再会して、とても嬉しかった。

 真事は自分へと伸ばされた手を、そっと持った。


「──あ! ネックレス!」

「……が、どうかしたか」


 真事が背理の首元を覗く。

 背理は実原のほうに向かってもがいた。


「あいつに取られたんだった。くっそ、返せ──」

「待て、持ってきてやるから。はやるな」


 役目を果たさないような足で立ち上がろうとする背理を止め、真事はもう一度壁際へ行き、もはやゴミと化した実原の体をあちこちひっくり返した。


「ほらよ」

「ああ、よかった、ありがとう」


 渡されたネックレスを、背理は手で包むように受け取った。



 真事は、埃と汗と血にまみれた背理を眺めていた。

 背理のほうは、ネックレスをつけ直し、実原を見やる。


「失恋で傷心中とかいう相手に、なかなか手厳しいね」

「気にするな。本当は、水道で無駄口叩いたときに殴ろうかと思ったくらいだ。さすがに見境なさすぎたからやめておいてやったのに、こいつが余計な浅知恵を働かすからだ」


 だが、真事はそんなことはどうでもよかった。


「ちょっといいか」

「なに?」

「お前は、弱いくせになんでそう威勢がいいんだ」


 どうせ何度も歯向かったのだろう。

 でなければ、こんなに怨念のこもったような傷まではつかなかったはずだ。

 真事が、やれやれというため息をつきたいのを我慢していると、背理も別の話を始めた。


「ねぇ真事、そんなことより──」

「おい。聞き流すな」

「──さっき、背理って言った……? もう一回言って……」

「……お前が今、自力で立ち上がってここから出ていったら、考えてやる」


 奴らに、背理は自分の庇護下だと強調するために言ったのだ。

 何かしらの効果はあるだろうと思っていたが、思いもよらない方向まで飛んでいっていたようである。


 背理は、真事の言葉を聞くやいなや、立ち上がろうとしてさっそくバランスを崩した。


「おい、無理するな──」


 支えようとした真事の手を、背理はバシッと払いのける。


「やめろ、僕に触るな! ……手を貸そうとしないで、ううん、阻止しようとしないで。僕は、自分の力でここから出るんだ。それで、君という友達を、得るんだ……!」


 床にしりもちをついて、すぐまた立とうと足掻いている。


「──背理」


 真事が静かに呼んだ。

 背理はハッとし、顔を上げ、見つめた。


「呼んでやるから、無理するな。後に響いたらどうする気だ」

「……そうだね」


 たった一言で大人しくなった背理を、真事はひょいと担ぎ上げた。





 真事は背理に自分の体操服を被せ、目立つあざや血の跡を隠したが、学校はもうほとんど空っぽで、誰にも会わなかった。

 職員室の近くまで行き、廊下の曲がり角から様子を窺うと、淑野(よしの)がドアのところで二人を待っていた。


綴季(つづき)くん、音無(おとなし)くん……!」


 真事と、真事に担がれた背理の姿を見つけると、淑野は駆け寄ってきた。


「大丈夫なの……? よかった、ほんとによかった……」


 背理は顔を上げる元気もないようで、静かだ。


「綴季くん、ありがとう……。その、いろいろとありがとう……」

「なんともないか」


 淑野が泣きそうな笑顔で何度も頷いた。


「なら、帰れ。あとで誰に何を聞かれても、シラを切り通せ。お前の姿を奴らは見ていない」

「淑野さん……」


 真事と淑野が口裏を合わせていると、背理が急にしゃべった。


「……僕のために頑張ってくれて、ありがとうね……それから、真事のことも信じてくれてありがとう……」


 真事の肩の上の背理から礼を言われ、淑野は笑顔のまま、口許を手で覆い、静かに泣き出した。





「真事はさ、行動で物を語るよね……。あの倉庫の電気、急に点けたでしょ、ちょっと目にしみたよ……」


 背理が揺られながら言った。

 真事は廃棟の音楽室へ向かっていた。

 背理に連れてって、とねだられたからである。

 真事は帰ろうと言ったのだが、「ピアノに触ってるときは、痛くないんだもの」と言われては、気の毒で、そうしてやるよりなかった。


 どうせ明日のコンクールも棄権だ。

 この怪我では、たとえピアノを弾くことはできても、ピアノまでたどり着くことができない。

 こういうときの自分には、あの音楽室のオンボロピアノが似合っていると、背理は思っていた。



「突き指どころの話じゃなくなったな……」


 音楽室で、背理の背中に湿布を貼ってやりながら真事が呟いた。

 途中で保健室に寄ってきたのは正解だった。背理の怪我は、思っていた通りにひどい。

 背理は、ふふっと笑っている。


「コンクールはほかにもあるし、いいさ」

「自分はすごいと豪語するわりには、諦めがいいんだな」


 真事が背理の首筋を確認する。

 みみず腫れができていた。


「みんなは束の間の勝利を楽しめばいいんだ。僕がいなければ、順位が一つずつ繰り上がるだろうからね」


 ズタボロの体とは裏腹、口は相変わらずだった。

 真事が氷嚢を近づけようとすると、背理が身を引いた。


「僕それ苦手だ……」

「あいつらにやられてるときは強気だったんだろ。これくらい、我慢しろ」


 しばらくごねていたが、やがて観念したように目を閉じると、背理は真事に首元を差し出した。


「……優しくしてよ? 真事はどっちかっていうと乱暴するより優しくするほうが得意でしょ?」

「……調子に乗るなって、言ってやろうか」

「背理って一緒にだったら言ってほしいな」


 甘えだした背理は、いつものピアノ狂より手に負えないということを、真事は初めて思い知った。





 背理の首には、ネックレスがぶら下がっている。

 そして、Tシャツで見えないが、実は真事のほうもそうだった。


 真事を銀座で振り回した日、最後に背理はデパートに入った。

 うんざりしている真事を引っ張り、きらきらしているジュエリーフロアに向かう。


「ピアニストに指輪や腕時計は向かないんだ、鍵盤を傷つけちゃうかもしれないから。だからずっと、ネックレスが欲しかった。ちょうどいいからお揃いで買おう」

「はぁ……?」


 宝石ひしめくショーケースのあいだを回りながら、背理と真事は言い争った。


「お前だけ買えばいいだろ。なんで俺が必要なんだ」

「友達とペアで欲しいんだ、一緒につけよう」

「こんなちゃらちゃらしたもん、つけられるか」


 自分がこんな物を首にかけているところなど、想像するのも御免だった。


「細くて長いんだから、だいたいがちゃらちゃらしてるでしょ。何言ってんの」

「こんなもんなくたっていいだろ」


 真事が嫌そうに言うと、急に背理が元気をなくした。


「……お洒落がしたいんだ。こういうの、欲しいんだ。きらきらした物が、好きなんだ。……君は笑わないだろ」


 その横顔はあまりに寂しそうで、真事には背理が濡れそぼってうなだれた子猫にしか見えなくなってきた。


「……一人でつけろ。ペアじゃなくて」


 だが、子猫と相合傘をする気はなかった。

 そんな頑なな真事の向かいで、背理はぽつりぽつりと話しだした。


「……ペアが欲しいんだ……。ペアって、その先には、たとえば僕が恋しく思っても許してくれる誰かがいるだろ、そしてその逆でもある、そういう証だ。ピアノとかじゃなくて、僕と等しく許し合った存在が欲しいんだ。……君は、理由や価値じゃなく、そのもので見るだろ、僕を。そんな君が僕の友達って、嬉しいよ。でももしこういうのがあったら、もっと幸せなんだ。それが宝石だったら、ときめくんだ。……友達ごっこの相手だと思っていれば、こんなこと、僕は誘わない……!」


 背理が、握りこぶしを両脇で突っ張っていた。

 いじめているつもりはなかったが、ここまで追い詰められたような表情を見れば、諦めもつく。真事に加虐趣味はないのだ。

 不本意ながら、助け船を出すことにした。


「……はっきり言ったらどうだ。高みの見物もここまでだ、と──」

「──高みの見物はそこまでだぞ真事!」


 背理がキッと睨みつけ、被せ気味に言ってきた。

 真事は目をつぶって白目を剥きたいのを隠した。

 そして、


「……あまり女々しいものは、選ぶな」


 精一杯の譲歩だった。

 背理の顔が、スイッチを入れた蛍光灯のように、ぱあっと明るくなる。


「……! ありがとう……!」


 真事は、ショーケースに飛んでいく背理をため息で見送った。



 そのときに買ったネックレスが、これだ。

 あのあと背理は、あろうことか「男女のペアのしかなかった!」などと、悪びれもなく言いながら戻ってきた。

 そして当然のように男物のほうを真事に渡し、自分は迷わず女物を首にかけたのだ。

 その行為が正気の沙汰とはとても思えなかった真事は、言葉を失ったのだった。





「まったく、まいっちゃうよね」


 背理がふふん、と笑った。


「あそこまで僕のこと知ってるんだもんな……きっと、僕が出そうなコンクールでも調べて、わざわざその直前で襲ったんだろ。まめなことだよ。……もしかして、僕の熱烈なファンなのかな?」

「放っておけ。いじめる側の人間は、将来自分に子供ができて、そいつが同じ目に遭わされなければ改心しねぇよ」


 実原(さねはら)たちは、今も倉庫で伸びているだろう。

 干からびた頃に発見されればいいのに、と背理も真事も思っている。


「ねぇ……僕たち、大丈夫かな」

「懲りたはずだ、もう狙ってこねぇだろ。そこまで馬鹿でもなさそうだからな」


 鬱陶しいことに変わりはないが、真事がいれば不安はなかった。

 ふと背理が尋ねた。


「真事。どうして僕を探してくれたの? 友達だから?」

「……それもある」


 真事が包帯を巻きながら答えた。

 背理は続きを待っている。


「……お前のピアノを、誰にも邪魔させたくないと思ったんだ」


 壊れたピアノで、良し悪しのわからない自分にしか聴かせる相手がいない、ここにいるピアニストとやらの、あるべき姿を見たかった。


「そっか、ありがとう」


 背理は嬉しそうに笑った。

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