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第五話「球技大会」

「ふぁーらーそーどー、ふぁーそーらーふぁー、らーふぁーそーどー、どーそーらーふぁー」


 キーンコーンカーンコーン、と鳴る予鈴に合わせて、背理はいりがその音階を歌った。

 隣の真事まことは、タバコをひねりつぶした。





 六月最初の金曜日。

 空は曇り。

 明日は背理の出場するコンクールがあるという、大事な日であった。


「本当に大丈夫か」

「ここまで無傷だからね、大丈夫だよ。僕も気をつけてるしさ。心配してくれてありがとう」


 屋上からの帰り、真事が尋ねた。

 背理は両手を広げ、ひらひらと動かして見せる。



 昼休みも終わりそうだという今、二人は体育館へ戻るところだった。

 この日の体育館は、朝から、体操服やジャージ姿の二年生たちが鳴らす活発な靴音と、色めき立ったたくさんの声で溢れている。

 校庭には三年生、テニス用のコートには一年生が集まっていて、それぞれサッカーとドッジボールに熱中していた。


 今日は、背理たちが通う高校の球技大会だ。





 昼休みを思い思いの場所で過ごした二年生たちが、次々と体育館に帰ってきた。

 午後の試合の開始である。


 二年生の種目はバスケットボール。

 これから始まるのは、B組対E組。

 センターサークルで、笛の音とともにボールが上げられた。


実原さねはらくーん、がんばれぇーっ!」


 B組のジャンパーは実原。

 その長身を活かし、相手チームのジャンパーをやすやすと越えてみせた。

 応援の女子たちから、キャーキャーという歓声が飛ぶ。


 今日の実原の応援は、いつにも増して人数が多い。学年中の女子がいるからだ。

 女子生徒たちは、コート際、ステージの上、体育館二階の通路につめかけ、実原の活躍を見逃すまいと身を乗り出している。

 邪魔物扱いの男子生徒たちは、ほとんどが壁際に追いやられている。


「実原ーっ、負けたら承知しねぇぞー!」

「プライド懸けろーっ!」


 まれに、ガッツがあるのかなんとも思わないのか、女子たちにまざって男子たちが数名、実原に叫んでいる。





「──音無おとなしくん。隣、いい……?」


 背理と真事が壁際からぼーっと観戦していたら、誰かが話しかけてきた。

 女子である。


「…………淑野よしの、さん」

「うん」


 背理が名前を絞り出すと、淑野は嬉しそうに頷いた。

 白い体操服と紺色のハーフパンツ姿で、今日も長袖を手のひらで包み込むようにして持っている。そしてふんわりした髪を、これまたふんわりと可愛らしく編み込みに結んでいた。


「いいよ。でも応援は?」

「私H組だから、今はいいの……」


 珍しい女子もいたものであるが、控えめな性格の淑野のことだ、あの女子たちの群がりに割って入るような根性はないのだろう。


 背理の横で壁に寄りかかっていた真事が、ふらりとどこかへ行こうとした。


「真事?」


 追いかけようと一歩踏み出した背理に、


「手洗い」


 真事は短い一言を残し、振り返りもせずに体育館から出ていってしまった。





「私……感じ悪いことしちゃったかな……」


 淑野が不安そうに、胸元で手をきゅっと握っている。


「いや、真事は滅多に怒らないよ」


 もともと、球技大会に出席するつもりはさらさらなさそうだった。

 背理は、どうせこのまま帰ってこないつもりであろう真事を、あとで迎えにいこうと思いながら、淑野のほうを振り向いた。


「……優しいんだね、綴季つづきくんて」

「うん、かなりね」


 ほっとしたように小さく微笑んだ淑野に、つられて背理も笑った。

 誰かと真事について話したのは初めてだった。


「音無くん。明日……コンクール、頑張ってね。応援してる」


 頬を少し染めながら、淑野はふわっとしたガッツポーズを作る。


「ありがとう。頑張るよ」


 背理がにこーっとした。

 これはファンサービスのときの顔である。



「──あ、僕そろそろ出番だから、行くね。わざわざありがとう」


 次は、D組対G組の試合だった。

 D組からは背理のチームが出る予定だったが、G組のほうは真事の振り分けられているチームではない。


 真事を呼びに行こうと、背理は壁から離れた。

 せっかくなのでというよりは、自分がプレーするのだから真事に見させておこうという自己中心的な心持ちである。


「ううん、私のほうこそありがとう。あの……今も試合、応援するね。怪我しないように、気をつけてね」

「え? ああ、ありがとう」


 淑野は小さく手を振ると、クラスメイトであろう女の子たちのところへ帰っていった。





 背理は真事を探そうと、体育館から外廊下に出た。

 その途端、


「──終わったのか」

「うわぁっ」


 すぐ横に、大きな何かが降ってきた。


「──おどろかさないでよ。ほんとにびっくりした……」

「お前……ほうけすぎなんじゃね……?」


 真事であった。


 真事は、体育館から教室棟へ伸びる外廊下の、屋根の上にいたようだ。

 どうやって昇ったのかは知らないが、音も立てずに飛び降りてきたあたり、まったく運動神経の素晴らしいことである。

 驚かすつもりはなかったようだが、背理の心臓はばくばくと苦情をまくしたてていた。


「……次、僕の試合なんだ。見ててよ」

「ほどほどにやれよ」


 ふぅーっと息をつき、腕まくりで紺色のジャージから生白い腕や細っこい指を出そうとしている背理に、真事はコンクールの存在を強調した。





高場たかば、いけ! 抜け! 決めろ……!」


 実原さねはらが、背理のいるD組のチームのメンバーに熱く叫んでいる。


音無おとなし……っ!」


 高場と呼ばれた男子生徒が、チームメイトである背理にパスを回してきた。

 背理は「ぺちん」というなんとも間の抜けた音を立ててボールを受け取り、ゴールへ向かってドリブルしていく。

 真事は、コートに近いところの壁に寄りかかりながら、目を細めてその動きを追っていた。


 背理はバスケがあまり得意ではないらしい。

 ボールを落とすとまではいかないが、パス、ドリブル、パスの流れが、かくんかくんといちいち怪しい。

 見ている真事がときどき眉をしかめるくらいには、危なっかしかった。





「──こういうときに言わなきゃ。あたしさっきすごい叫んじゃったよ、実原さねはらくーんって」

「……うん、でも、恥ずかしいし……」

「えー? どうせまわりは誰も聞いてないのに?」

「で、でも……呼んで迷惑だったら、嫌だし……」

「何言ってんの、もう。早くしないと試合終わっちゃうよ! よっし、あたしは高場たかばくん応援しよーっと。実原くんと一緒、えへへ──」


 声援とプレーの音にかき消され気味だが聞き覚えのある声に、真事は近くのコート際を見た。

 淑野よしのが、友人らしき女子と話していた。


 隣の女子はさっそく、高場くーん、と声を上げている。

 彼女の迷いのない応援を見せられて、淑野がそーっとまわりを見回した。


 二人のほかの女子も、お目当ての男子の名を、好ききに呼んでいた。

 といっても、だいたいが淑野の友人のように、実原の応援する高場という男子生徒を応援している。

 残りは応援というよりは、近くに来た男子や仲のよいであろう男子の名前を、見つけたからついでに呼んでみた、とでもいうふうな言い方であった。


 そんな女の子たちの様子を見て、淑野は少し勇気づけられたようだ。

 淑野が口許に両手を持っていき、息を吸った。

 ──が、すぐに口を閉じた。

 手を握り、ちょうど目の前を過ぎていった試合メンバーたちを、心配そうな面持ちで見つめている。


 いったい誰をそんなに見ているのだろうかと、真事は淑野の視線とコート上の男どもを見比べた。

 高場でもなければ、ほかのバスケが上手そうな男子生徒でもない。

 だが確かにコートの中の誰かの動きに合わせて視線が動いている。

 もう一度、さっきと似たようなメンツが、彼女の前を通っていった。


 その中に、背理がいた。


 真事には聞こえなかったが、淑野は今度こそ「がんばれ」と口を動かしていた。


 ボールがどこかへ渡り、一瞬手の空いた背理が、あごまで伝ってきた汗を立ち止まってぬぐっている。

 淑野の視線も、止まっていた。


 ボールを見ているのではないし、ほかの男子でもない、どうやら淑野は、背理のことを見つめていたようだった。


 背理がまた走りだした。

 そんな彼を、淑野は手を握りしめ、目で追いかけている。

 心配そうな表情で、背理がほかの男子の影に隠れれば、少し背伸びまでして見ていた。



 真事は意外な思いだった。

 背理のことを好きになる女子がいるとは、世の中捨てたものでもないということか。

 あるいは、淑野もまた、音無おとなし背理はいりという一人のピアノ弾きのファンとやらなのか。


 どちらであっても、真事には知るよしもないし、関心もなかった。

 真事は、ぺちんとボールを受けてはパスを回し、またぺちんと受けては回している背理を眺める作業に戻った。


 それにしても、よくパスが回ってくる背理だった。





「あっつー……ん、何?」


 試合の前半が終わり、背理がジャージの胸元をぱたぱた扇がせながらやって来た。

 そして、珍しいものでも見るような目つきで自分を見下ろす真事を見上げた。


「……お前、明日コンクールなんだろ。大丈夫なのか」

「平気だよ。まだプロじゃないのに、ピアノを理由に体育を休むなんて、そんなこと僕はしたくない」


 バスケを余裕でこなす奴が言うならわかるが、不格好なドリブルを披露している人間が、よく言ったものである。


「水飲んでくるね。そしたらまた試合だから、じゃあね」

「ああ」


 背理は、体育館の外にある水飲み場へと歩いていった。


 真事は体育館を見回した。

 淑野も、女子の次の試合で出番を迎えるようで、ゼッケンを着ていた。

 H組がたまたまその色になったのだろうが、ピンク色のゼッケンがまた、ふわふわした髪に似合っていて可愛らしかった。


 男子のほうのコートのそばでは、実原もまた高場と話し込んでいた。

 何やらプレーの合図があるようで、敵チームに聞こえないように静かに、しかし熱心に話し込んでいた。

 それにしても、実原はB組、高場はD組なのに、仲のよいことだ。

 おそらく、実原と高場の二人ともバスケ部であるためだろう。

 大して興味のなかった真事は、コートまで帰ってきた背理に視線を戻した。









 後半戦が始まった。

 体育館のもう半分のコートでは、淑野も試合に出ている。

 淑野の友人はチームメイトではないようで、今度は女子のほうのコート際で、淑野のことを応援していた。


 男子のほうでは、D組対G組の試合が白熱していた。

 どうやらG組のチームに、選手交代で新たなバスケ部員が加わったようだった。


 実原が、高場に向かって声を上げている。

 彼の一生懸命な様子に、女子たちの応援もまた高まっていく。

 しかしそんな中、G組チームに入ってきたバスケ部員が、高場からひょいとボールを奪い、そのまま軽々とゴールを決めてしまった。


 女子たちから、新しく歓声が上がる。

 そのバスケ部員は、高場と実原の前を通るときに、ペロッと舌を出していった。

 実原も高場も、悔しそうだが同時に笑っている。

 普段の部活では、彼も強力なチームメイトなのだろう。


 高場の動きが本気じみてきた。

 コートの外の実原も真面目な顔であったし、G組チームのバスケ部員も真剣な表情だ。

 高場がボールを持てば、バスケ部員がマークする。

 バスケ部員がゴールを狙えば、高場がブロックする。

 もはや二人の戦いといっても過言ではない雰囲気になっていた。

 動く障害物の多い、1on1だ。



 一方で、疲れたのか、背理はボールに合わせてあっちへ踏み出したりこっちへ踏み出したりとはしていたものの、ほぼ立ち尽くしているような有り様になってきていた。

 真事はこの不毛な試合が早く終わらないかとタイマーを見やった。


 そのときだった。


 熱を極めた二人が、勢いよくコートを突っ切ろうとした。

 だが、切羽詰まっていたのかフェイントをかけようとしたのか、高場がとっさに、運よくそこにいたチームメイトの背理にパスを回したのだ。


 急にボールが飛んできて、試合の速い流れについていけずぼんやりとしていた背理は、手を胸の前に持ち上げるだけで精一杯だった。


 背理が崩れ落ちた。


 転がったボールはG組のバスケ部員に奪われ、高場が焦ったようにダッと走り出した。


 実原はボールの行方を追っている。

 女子たちは、キャーキャーと盛り上がっている。

 このままバスケ部員がゴールを決めるのか、はたまた高場が奪い返すのか。

 そんな大興奮の場面など、真事にはどうでもよかった。


 背理が、うずくまったままだ。


 何が起きたのか、何がどうなっているのか。

 真事が、大歓声の生徒の群れをかき分け、背理のほうに近づこうとしていると、背理が立ち上がった。

 そのままゆっくりとコートを去っていく。

 よほど余裕がないのか、真事のほうを見ようともしなかった。

 熱いコートの中でもまた、背理一人がいなくなったことになど、誰も気づいていないようだった。

 ただ一人実原だけが、そばを通りすぎていく背理のことをちらっと見たが、すぐ応援に戻っていった。


 真事は道のり選びを失敗したと思いながら、なかなか進めない人垣の中を、背理へ向かっていった。





 痛みで頭が一杯だった。

 痛い、痛い、痛い。

 指が痛い──。


 まるで何かの啓示を受けたかのように、ぴかりと閃光が流れたかのように、ボールが自分めがけて飛んできた瞬間、指に衝撃と強烈な痛みが走ったのだ。

 冷やさなければ、早く──。

 背理は、どくどくと波打つ指を押さえながら、息すら押し殺すようにして、水道へと向かっていた。



「──音無おとなし


 水道にたどり着いた背理が、蛇口を開き、水で指を冷やしていると、真事がやってきた。

 まっすぐとこちらを見つめている。

 背理は、試合の疲れとは別の汗でびっしょりになりながら、真事を呼んだ。


「真事……僕……」

「何があった。痛むか」


 真事は眉が少し寄っている以外は、いたって落ち着いているように見えた。


「突き指した、みたい……すごく痛い……」


 背理は痛みを逃がそうと、目をつぶって「はぁ……っ」と息を吐いている。


「見せてみろ」


 彼の手を、真事は壊れ物に触るようにして、流水の中からすくい上げた。


 真っ赤だった。

 水で冷やしたからというのもあるが、内出血を起こし、変色している。

 それに、ひどく腫れていた。

 細いはずの指は、元の面影が見当たらないほどの具合である。



 真事は小刻みに震える手を、蛇口の下に戻した。

 見ると、背理は肩まで震わせている。

 真事はその薄い肩を、さするべきかどうするべきか悩み、手を伸ばしかけた。





音無おとなしくん……!」


 淑野だった。

 真事が振り向くと、とても心配そうな顔で彼女が走ってくるところであった。

 試合が終わったようだ。


「音無くん、大丈夫……? ……綴季つづきくん、どうしたの、何があったの……?」


 背理がまったく顔を上げないので、淑野は真事のほうを見上げてきた。

 真事は驚いた。

 このあいだまで、つい先ほどまで、彼女は自分に怯えていたはずだった。


 この変わりよう。

 好きな奴が一大事だと人間変わるものだなと、真事は忙しい頭の片隅で思った。


「突き指らしい。バスケ部連中の動きに、巻き込まれた」

「……っ!」


 手短に説明する真事の横で、淑野が息を呑んだ。


「……手当て、手当てしなくちゃ、音無くん、大丈夫──」





「どうしたの、突き指?」


 淑野が必死で背理に呼び掛けていると、体育館のほうから声が聞こえてきた。

 真事と淑野が振り返ると、実原さねはらが近づいてくるとろだった。

 水道に用があるらしい。

 彼のまわりには、女子たちがひっついている。


「う、うん、そうなの。早く手当てしないと──」


 淑野が背理の代わりに答えた。

 背理はまだ顔を上げられない。よほど痛いのだろう。


「音無くん、大丈夫? 歩ける……?」


 心配でたまらないといった口調で、淑野が背理に声をかけている。

 真事は黙ったままだ。

 そんな様子を見ていた実原が、うーん、と首をかしげた。


「……大袈裟じゃない? ただの突き指なんだろ、それ」


 指の大事なピアノ弾きに向かって、とんでもないことを言う。

 だが、突き指などにはすっかり慣れっこな、バスケ部員らしい発言であった。


 淑野がびっくりしたような表情で実原を見た。


「そんなことないよ、痛いものは痛いよ──」

「えー、大したことないって、大袈裟だなぁ。それに……曲がりなりにも男だろ、もっと堪えないと。女子もいるんだ、心配かけるようなことはダメだろ?」


 女子たちが、「実原くんカッコイイ……!」と目をきらきらさせている。

 正義は人気者のほうにあることが、よくわかる。

 ここでは、背理一人が怪我をしようが泣こうが、誰も注目しないのだ。



「あれは……同じ男としてはちょっと情けないかな。突き指が痛いっていうのは、僕でも同じだからね」


 ……などと、自分に群がる女子たちに向かって言っている。


 そんな実原のほうへ、真事が一歩進み出た。

 女子たちがさっと避ける。

 実原は今初めて真事に気づいたようだ。


「君は……?」


 真事は答えない。

 真事が一歩、また一歩と近づくごとに、女子たちがじりじりと後退していく。

 実原は彼女らを見やり、真事に向き直った。


「何かな……? あまりみんなを怖がらせないでほしい。女子なんだ、男とは違って繊細な──」


 そうしゃべる実原の胸ぐらを、真事がぐいと掴んだ。


「……!」


 実原の後ろの女子たちも、背理の隣の淑野も、目を見開いた。



「警告だ」


 真事が短く、低い声で言った。


「は……?」


 実原の顔色が、サッと変わった。

 女子たちも淑野も、はらはらしながら二人を見ている。


「────」


 真事が、実原にしか聞こえないような小声を発した。

 そのまなざしは、射殺すほどに強い。


「──放してくれ。それから、こんな、胸ぐらを掴むなんて野蛮な真似はよすんだ」


 かたや、みんなに聞こえるような声で実原が言う。

 真事の視線は微動だにしない。

 実原はキッと見返すと、ひるんだ様子なく言い返した。


「オレを、脅迫してる? 悪いけど、君のような奴には屈しない。喧嘩を売られようと、オレは決して買わないから」



 人気者の、何事も絵になることである。

 後ろのほうで、女子たちがほう……っと、うっとりしたようなため息をついた。

 同時に、真事への非難の目がだんだんと強くなっていく。

 真事は、背後で未だ背理の隣にいる淑野が、はらはらしているのがわかった。



「──もう一度だけ言う。警告だ」


 真事は最後に言うと、実原を放した。

 とたんに女子たちが「大丈夫? 実原くん──なんなのあれ、信じらんない、ほんと怖い──」など口々にひそひそ話をしながら実原に群がり直した。


「大丈夫、少し意見が食い違っただけだよ。男同士、よくある話さ。それに、同級生なんだから、あんまり悪者みたいには言っちゃいけない」


 臆さないばかりか対立した相手を尊重してみせる。

 堂々たる公正ぶりで、人気者はまわりをさらに沸かせたのだった。





 実原と女子たちが体育館に消え、張り詰めていた水道は、元の空気を取り戻した。


 真事は、実原の後ろ姿をじっと見ていた。

 よくこの双眸に耐え切ったものである。


「真事……」


 存在を殺すように静まり返っていた声に呼ばれて、真事は振り返った。


「音無。動けるか」

「なんとかね……」


 やっと、それでも無理をして、背理が笑ってみせた。

 痛みは少しはまぎれたようである。


「音無くん、大丈夫……?」

「──ああ、淑野さん。うん、大丈夫、ありがとう」


 背理はゆっくりと体を起こすと、蛇口を閉めた。

 真事は肩を貸そうとしたが、背理の背が特別低いわけでもないのに、身長が合わなさすぎて断念せざるを得なかった。

 仕方ないので、背理の脇に手を入れて支えた。


「歩けるか?」

「うん……どこ行くの……?」

「保健室だろ」


「あの……」


 後ろで、取り残されそうになっている淑野が声を出した。

 二人が振り返ると、淑野は慌てたように手と首を振った。


「ううん、なんでもない……。綴季つづきくん、音無くんのこと、どうかよろしくね」

「ああ」


 真事は返事をすると、背理を保健室へと連れていった。





「──ありがとう真事、時間稼ぎしてくれて。……僕のせいで、印象悪くなったら、ごめん……」

「気にする余裕があるなら自分の心配でもしてろ」

「……真事ってさ、ほんとに背ぇ高いんだね。さっきの奴とかより全然大きいじゃん、すごいなぁって思った……」

「何に感心してるんだよお前は……」


 保健室では、この切迫したときに、養護教諭は不在だった。

 真事は棚を漁り、氷嚢やテーピングなど、適当に引っ張り出した。


 背理は真事に体をほとんど預けていた。

 姿勢を起こしているのも辛いらしい。


 手は、震えを止めている。

 だがやはりボールは相当ひどく当たったようで、あれほど冷やしたというのに、熱を持ち、脈打っていた。


「痛むか」


 答えのわかりきっていることを聞いた。

 背理は目を瞑ったまま黙っている。


 真事は、テーピングで背理の指を十字に固定し、手近にあった金属べらを、こともなげにぐにゃりと曲げ、指にかぶせるように添えて、もう一巻きテーピングをした。

 それから、冷凍庫から氷を探してきて氷嚢に入れ、背理の指に静かに当てた。


「……っ」


 背理が小さく身じろいだ。冷たいのだろう。

 だが必要な処置なので我慢してもらうほかない。

 真事は、氷嚢を当てる場所を少しずつ変え、背理の手を冷やしていった。


音無おとなし。反対の手、動かせ」

「……うん?」


 背理がぐったりしたまま聞き直した。


「反対の手を動かせ。体の左右の神経は、背骨を通して繋がってる」


 ううん……? とうめく背理は、理解していない。

 だが言われた通りに突き指していないほうの手をぱらぱらと動かした。


 見えないピアノを弾くような指使いに、この突き指が治れと、願わずにはいられない。

 しばらくして、真事は背理に突き指を動かしてみろと言った。


 鬼畜な命令に、絶望的な顔をした背理。


「……神経が繋がってるんだっつうの。このままだとこっちが凍っちまうぞ。やれ」


 背理が、突き指をちょっとだけ動かした。


「……はぁ」


 背理の体から、少し力が抜けた。

 痛みがいくぶん和らいだようである。


 真事は、聞こえないようにほっと息をつくと、背理をベッドに押し込んだ。


「少し眠れ。あとで起こしてやる。疲れてるだろ」

「真事も……」


 背理がぽつりと言った。

 なんだ、と真事は聞いた。

 聞いているのに、背理はなかなか先を言おうとしない。


 少しして、背理が枕の上でそっぽを向いたまま言った。


「……真事も笑う? たかが突き指くらいで大袈裟だって。慣れればなんともないって。僕をバカにする……?」

「お前なぁ……」


 真事はため息をついた。

 背理ががばっとこちらを向いた。


「わかってるよ、真事がそんなこと思わないことくらい。でも、聞きたいんだ。否定してよ……!」


 今は本当に目に涙を溜めている。

 こぼす必要のない涙は、今日で二度目であろう。

 ずっとこちらを見ている背理を、真事は押し戻した。


「寝ろ。これ以上何かあったらどうするつもりだ」

「……そうだね」


 背理は真事の瞳を見つめていたが、望む言葉は言ってくれそうになかったので、諦めてベッドに潜り込んだ。

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