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第四話「元ピアノ教室」(♪)

 五月二十六日、火曜日。

 放課後、真事(まこと)背理(はいり)に引っ張られるようにして、学校の最寄り駅から五つほど離れた駅で電車を降りた。

 今日は、背理のピアノのレッスンを見学させられる日であった。





 駅から出ればそこは、閑静な住宅街だった。歩道には白い敷石が整然と並び、ハクモクレンの街路樹が続いている。

 その中のとりわけ物静かな一角に、汐見(しおみ)ピアノ教室はあった。

 背理がピアノを習いに通っているところだが、正しくは()ピアノ教室である。


 (ひいらぎ)の生け垣にぐるりと囲まれた、一軒の白い家。門から玄関へは、前庭に白い砂利道が通っている。

 敷地内へ一歩踏み入れれば、甘い匂いがすることに真事は気がついた。甘いといっても、菓子のものではない。花の匂いだ。

 香りどころとして有名な薔薇や、匂いだけで遠くからでもその存在を知れる金木犀とは違う。初めてかぐ香りに、背理の学ランの肩ばかり見下ろしていた真事は目線を上げた。


 香りの正体は、すぐ近くにあった。

 薄い紫色の小さな花がたくさん集まって、房のようになり咲いている。ちょうど今日見頃を迎えたような、ライラックの低木だった。


 ライラックは、真事にとって、名前を聞いたことはあっても実物を見たことはないものの一つだった。庭は、その甘く優しい香りに包まれている。

 なぜ見たことのないライラックを、ライラックだとわかったのかというと、木の幹に「Lilac」と書かれた樹木札が掛けられていたからに他ならない。


 砂利道から外れ、庭に生えるライラックの木は、午後の日を浴び、風に枝を揺らして、鼻だけでなく視線も誘う。まるでこちらへ寄ってきてくれと言うように。

 生憎、彼らに対して、先約があるんだ済まないな、と思うような心を真事は持ち合わせていない。綺麗な植物のことは無視して、背理の後について歩いた。



 扉の前まで来ると、背理がドアチャイムのボタンを押した。

 ピーンポー……ン──。

 連なり落ちていくような三つの音が、庭に響く。

 呼び鈴までが優雅だった。



「いらっしゃい──あら」

「こんにちは、音無(おとなし)です。それと、友達の真事です」


 隣に立つ背理に紹介され、真事は軽く頭を下げた。

 赤みがかった濃い茶色の扉が開き、玄関に現れたのは、人生の半分は過ぎているであろう、白髪まじりの女性。

 落ち着いた雰囲気が、これまた上品だった。



 家の中に入ると、床と柱も、マホガニーで統一されていた。

 オレンジ色の優しい照明に照らされ、廊下が奥へ伸びている。

 途中、壁際には半月型のコンソールテーブルがあり、白いレースのクロスに、何も生けられていない空の一輪挿しが置かれていた。

 何かを物語るかのような、落ち着きと静けさ──焼けた肌に、今日も変わらず短ランという格好の真事には、あまり縁のない空間である。

 背理は手前にある部屋の扉をノックし、顔を突っ込んだ。


「先生おはようございます、背理です。練習してきますね」

「はい、いらっしゃい。後で呼びなさい」


 真事には見えなかったが、中からは年老いた男性の声がした。


「はぁい──先生、今日友達連れてきてるんですけど、レッスン、一緒に入ってもいいですか?」

「いいですよ。練習中はリビングへお通ししますか?」

「ううん、聞かせときます」





 長い廊下を進むと、花瓶の向こうに、大きなノブのついたドアがあった。

 そのノブをがこんと回し、体重をかけるように肩で押すと、分厚く重々しいドアがゆっくりと開いた。


「防音になってる扉だよ、それ。入ったら、ドアノブが動かなくなるまで閉めといてくれる?」


 真事が、銃弾も通さなそうなドアの厚みを目測していると、先に部屋に入り、グランドピアノの蓋を開けようとしている背理に言われた。



「さっきのが、僕のピアノの先生の汐見明(しおみ あきら)先生と、その奥さんの慧子(けいこ)さん」


 防音室に入った真事に、隅の椅子に座るよう、背理は手で示した。

 そして鞄から、薄い黄緑色や、赤や、青の表紙の楽譜を出し、グランドピアノの譜面台に置く。


「僕今から六十曲分、準備運動するんだけど、真事寝たかったら寝てていいよ。終わったら声かけるね」


 六十曲。

 えげつない曲数の宣言に、真事は耳を疑った。



 それから。

 背理はまるで自分を虐めて楽しむかのように、同じような曲を六十、ひたすら弾いた。

 ピアノの端から端、重低音から高音までを何度も行ったり来たりする背理の指に、真事は異様なものを見ている気がして目がくぎづけだった。



「僕は指も手首も細いから、先生がこれを必ずやりなさいって」


 準備運動とやらが終わって、背理が言った。

 相変わらずけろっとしていた。


「じゃあ、先生呼んでこようか。これからレッスンになるんだけど、僕と先生が何してても、ただ見ててね。ちょっと窮屈かもしれないけど……」

「口は出さねぇよ」


 今までに聴いたことのある、背理の「ラ・カンパネラ」や「水の戯れ」を思い出し、背理が先生と何をしようが、この切れ間のなかった時間よりましだろうと、真事は思ったのだった。









「先生、激しすぎて途中で死なないでね」

「まったく一言多いクソガキですねぇ」


 これは、汐見(しおみ)先生が「では、私はオーケストラのパートを弾きますからね」と言ったあとの、背理と先生の会話である。


「そんな演奏では、ショパンが墓から出てきますよ」

「わぁ、直々に褒めてもらえるなんて感激だなぁ」

「清々しいほどの大馬鹿者ですね。しばきに来るに決まっているでしょう」


 これは、背理が特別神懸かった指さばきで一曲弾き終えたときの二人。


「先生、僕今めっちゃ上手くなかったですか?」

「背理くん。一度、上の階から飛び降りてみなさい。もしくは首を吊ってみるのもいいですよ」


 先生のこんな過激な言葉にも、背理の返事は「あはは、うけるー」であった。



 部屋の隅では、レッスンが始まってからずっと、真事が絶句している。

 背理が師事する汐見(しおみ)先生は、真事が引くほど辛辣だった。



「──背理くん。なんです、その偉そうな弾き方は。もっと謙虚になりなさいといつも言っているでしょう。今自分がどんなふうに弾いたか覚えていますか?」


 弾き終わった背理に先生が問う。

 背理は、鍵盤を見つめながら首をひねった。


「うーん……覚えてるつもり、なんですけど」

「つもりでは足りませんよ。弾けるからといって、意識なく弾いてはいけないと、何度も言っているでしょう」


 はぁい、と返事をする背理は、子供のようだ。



「──ストップストップ。背理くん、その癖は直しなさい」


 今度は演奏の途中で先生が曲を止めた。


「えっ、またしてました? 僕」

「ええ。夢中になると出て来ますねぇ」


 背理が鍵盤からパッと両手を浮かせ、上目遣いで先生を見上げた。悪戯を見られた子供のようである。汐見先生は苦笑している。背理は視線を落とし、自分の指、その甲を見つめた。


「──理由は分かりますが、いけません。弾きにくい部分があったとき、弾きやすいやり方で弾けてしまえるから良い、ということではありませんよ。決められた弾き方が自分にとって弾きにくいものであっても、そちらで弾かなくてはなりません。音を間違えないことばかりに重きを置かないで、弾き方も正しく。音楽に向かう姿勢も正しく。君はもう、きちんとした指使いが出来るでしょう。美しい音楽は、美しい弾き方から生まれます。分かっていますね?」

「はい」

「テクニックは財産でもありますが、その目的は弾くことではなく、音を音楽にするためのもの、一つのステップです。自分が弾くことばかりに気を取られてはいけません。もっと音楽に乗って」


 先生の話に何度か頷きながら、背理は両手を握りしめ、親指の腹でほかの四本の指の爪の上をこしこしと擦っていた。そして、もう一度鍵盤に手を乗せる。


「目の前の一つの音符だけを見ていてはいけません。前後の音、またその前後の音。君に弾かれるのを待っている、ほかの音も見なくては。この曲の豊かな旋律は、そんな小さな音符の積み重ねですよ。──さあ、三小節前から」

「はい」


 じっとしているよりほかにすることがないので、真事も汐見先生の話を聞いていた。



「君はそういうところは本当に上手に弾きますねぇ」


 背理が、とりわけ細かい連続音を歯切れよく弾ききったとき、汐見先生が褒めた。


「えへへー」


 背理も得意気に笑っている。


 背理は、笑うと涙袋が盛り上がって、目がなくなる。

 それから鼻筋と頬骨のあたりにきゅっとシワを寄せて、キツネのような顔になるのだ。





 レッスンに一段落ついたようで、背理はピアノから手を下ろしている。

 汐見も、背理が弾いていたグランドピアノの、左隣に並ぶグランドピアノの椅子に腰を下ろした。

 そして、背理くん、と話しはじめた。


「君は、ほかの人より指がよく動きますね? みんなができないことが簡単に出来てしまうでしょう。でも、君が得意とする超絶技巧(ちょうぜつぎこう)は、言わば諸刃の剣です。難しいものを当たり前までにするための手段の一つであって、超絶技巧は、それがゴールではありません。君は自信がありすぎて、欠点を知ろうとする意欲に欠けます。それが先生は心配です」


 背理は、自分のピアノの能力の中でも、超人的で極めて弾きにくい旋律や難曲を、目の覚めるような華麗な指さばきで演奏してのける技術である「超絶技巧(ちょうぜつぎこう)」を特に好むらしい。

 しかも、それに傾倒する癖がある。

 自分が好きなところだけでなく、まんべんなく情熱を注げと、汐見は言っていた。


「自分の中で、すべてのエレメンツの歩調を合わせなさい。音楽理論に則って曲を理解し、弾くときにも理性的に判断を下すための知識。心を伝えるための抒情性。それらを表現するための技巧。すべておろそかにしてはいけません」


 背理は神妙に聞いている。


「テクニックに走るばかりでは、向こう(・・・)では表現の浅さを指摘されるでしょう。今誰にも気づかれないからといって、さぼってはいけません。自分が一番、と思ったときが一番危険なのですよ、背理くん」



 真事は、背理をこんなにビシバシ鍛える指導者がいたことに、静かに感動していた。

 目の前で繰り広げられる、汐見による背理の教育は、ときたま双方の口の悪さにびっくりさせられるものの、見物するにはとても面白かった。


「音楽とは娯楽であり、美しいハーモニーを楽しむものです。超絶技巧に飲まれてはいけません。君にはそれが課題ですね」


 そして、レッスンが終わった。



「では背理くん、復習なさい。論より稽古です──君は、向こうでお茶でも飲みなさい」


 汐見が急に振り向き、真事に声をかけてきた。

 思ってもみなかった先制に、意表を突かれた真事が横目でピアノのほうを見ると、背理が「休んでて」と口の形だけで伝えてきた。


 真事は、汐見について練習室を出た。









「お羊羹召し上がるかしら? 抹茶はお好き?」

「あの……俺はもてなされるような者では……」

「あらあら、遠慮なさらないで。背理くんが、ここにどなたかと来るのは初めてなんですよ。あなたは大切なお友達なのね」


 リビングでは、汐見(しおみ)の妻の慧子(けいこ)が、おほほ、うふふ、と品よく笑いながら、皿と茶碗を配した雅な盆を、すでに運んできていた。

 その言葉に、真事はまた面食らった。



 朱塗りの皿には、羊羹が二切れ乗っていた。切り口から見える(あん)部分が均一な、本煉(ほんねり)の羊羹だ。

 つやつやと黒光りする表面は、凪いだ湖や水鏡を思わせる。そこに、添えられてきた細い竹の黒文字(くろもじ)を差し入れた。


 重量感のある身はみっちり詰まっていて、細く平たい楊枝(ようじ)は、ゆっくりと底まで届いていった。

 切り離しても、しっとりとした羊羹は、漆の皿に寡黙に吸い付いている──黒文字を突き立て、一口含んだ。


 冷たく、すべすべしてなめらかで、緻密。

 噛むたびに、濃い餡の味がとても甘く、旨い。



 隣の碗には抹茶が静かに待っていた。

 目に鮮やかな緑色だ。肌理(きめ)細かな泡が、薄い層となり一面を覆っている。中央は少しだけ盛り上がっていて、綺麗だ。

 これは薄茶(うすちゃ)といって、少ない量の粉で()てた抹茶である。


 急な来客にこのような一式がさっと出てくるあたり、風雅な品はここの生活の一部なのだろう。

 背理はよく飲むのだろうか。

 真事は、抹茶を飲む際には作法があることは知っていたが、作法そのものには詳しくない。何かすべきことがあるような気がするが、生憎、何も思い浮かばない。


 ──泡というものはなんであれ消えやすい。

 真事は器の中の新緑をしばらく見つめていたが、黙考をあっさりと切った。

 ここは洋間である。素人はそれで十分だろう。


 抹茶が入っているのは、無地の、黒い楽焼(らくやき)の茶碗だった。持つと、碗肌のでこぼこが手にしっくりくる。

 茶碗に口をつけた。ふわっ、と唇に泡が押し寄せ、温かい茶が流れ込む。

 さらりとしてやわらかい。まろやかな味と、ふくよかな茶の香りが、一息のうちに広がった。


 心配していた泡は、最後の一口までしっかりと残っていた。



「ビワもいかが?」

「……頂きます」


 慧子が聞いてきた。

 年寄りの言うことである。真事は素直に従うことにした。


「……あの。あいつの分もありますか」

「ええ、もちろんよ。本当に優しいお友達ねぇ」


 手厚いもてなしを受ける自分に対し、練習室にこもりきりの背理が少し心配になった真事が、柄にもないことを聞いたと後悔を感じる隙もないくらい、慧子は優しく微笑んだ。



真事(まこと)くん。背理(はいり)くんは、学校ではどんな子ですか」


 湯呑みで緑茶を静かにすすっていた汐見が聞いてきた。


「……他人の名前を覚えるのが苦手なようで、友人と呼べる奴は少ないようです」


 正直まだあまり背理のことを知らなかったが、ここ十日ほど彼を見ていて思ったことを、真事は述べた。


「君は……背理くんが怪我をした、先々週のことは聞いていますか」

「少しは。ですが、知ってはいます」


 真事がそう答えると、汐見は淡々と話しはじめた。


「コンクールの前の日でした。レッスンにも来ず、連絡もつかずでしたので、心配していました。次の日、コンクール当日の夕方になってやっと、背理くんがここへ来ました。ひどく怪我をしていて、わけを尋ねたところ、下校中、見知らぬ人たちの喧嘩に巻き込まれた、と」


 真事は何も言わず、質問せず、ただ聞いていた。





 柱時計がポーン、と鳴った。

 何から何まで趣のある空間である。


「君は、背理くんの演奏をどう思いますか?」


 さすが師匠というべきか、背理と同じような唐突さだった。


「……どうでしょう。俺はピアノには詳しくないので──」

「誰かに教わる論理より、あなたの感覚が真実ですよ」


 汐見がにこりと笑った。


 羊羹もビワも、もう食べていた。

 好意を無下にしてまで拒否しようとも思わなかったので、真事は考えた。


 美しい粒ぞろいの音、芯の通った力強い音……。

 だが、今日の演奏も聴いてみて、それ以上に思ったことがあった。

 それは、おそらくこの者たちであれば否定せずに聞くだろうと思われた。


「無表情で……泣いているように聞こえます」



 背理は、どこかちぐはぐなのだ。

 ただのピアノ狂かと思ったら、優男に見える時もあり、いつでも自信過剰なのかと思えば、妙な気の遣い方をする。

 それだけなら、意外な面がある、で済ませられるのだが、例えば普段も、言うことやることが思いがけないわりに、パワフルさはない。

 何かを大事そうに話すときでも、真剣な顔をしては、軽薄そうに笑ってみせ、切なそうな眼差しを向けてきたかと思えば、すいと目を逸らす──そんな風に喋る。

 被った土を払えばきらきらして見えるが、期待したほどには踏み応えのない霜柱のような存在。

 背理はそういう奴だった。


 汐見がゆっくりと頷いている。


「背理くんは、いわばヴィルトゥオーソなのです。意味を、知っていますか」

「いえ」


 困難をやすやすと克服できるほど卓越した演奏技巧を持つ者への称賛を込めた呼び名、「ヴィルトゥオーソ」。

 背理の高い自尊心と美意識、そして何より比類なき才能がもたらす、確固たる超絶。

 だが彼の演奏には、クラシック音楽に定められたルールや、理性を超えたがるような情熱が欠けているのだという。

 だからアンバランスなのだ、と。


 真事が感じている通りだ。


「きっとできるでしょうに。ポテンシャルはあるだけに、見ていて歯がゆいです。ですがこればかりは、自分で手に入れるしかありません。目に見えない形で、他人に感化を及ぼしていくのが人間です。君は背理くんに、きっとよい影響を与えるでしょう。そして君もまた……」


 背理に振り回されるのがそうだというのなら、かなりなものだが、真事は今のところほだされてはいない。


 汐見が、遠くを見るような目で話す。


「──私も、背理くんに当てられた一人です。私はもうずいぶん前にピアノ教師をやめていました。しかし八年前、たまたま私が窓を開けてピアノを弾いていた日がありましてね。それを外から聞きつけた背理くんが、怒濤の勢いでドアチャイムを鳴らし、飛び込んできたのです。今の曲は何か、と──。彼の才能は、とうに引退した私を、この世界への未練に震わせるものでした。私は弟子などとれるほど立派ではありませんが、背理くんは私の大切な教え子です」


 キッチンのほうでは、小さな音がしている。


「いろいろなものを見て感じたい年頃……なので、おそらく君を振り回すでしょう。私にはしてやれないことですが、その分、君には重荷を背負わせてしまう。けれど、それを重荷と感じるかどうかは、君次第ですね」


 汐見がこちらを向いた。

 初めてまともに顔を見たが、鷲鼻と灰色の眉が、枯れかけの神通力をまとったからす天狗のようだった。

 からす天狗もまた、タートルネックの服を着ていた。


「君をここに連れてきたということは、背理くんも覚悟を決めたのでしょう。いずれ本人の口から聞くでしょうけれど、もしそのとき君がよければ、付き合ってあげてください」



 自分は、音無おとなしから何かを聞かされるらしい。

 だが、真事は予告されて構えるような質ではない。聞かされるらしいということを聞かされたところで、今の段階では特に感慨もなかった。









 真事が黙っていると、きぃ……と、リビングのドアが開いた。


「あがりですぅ」

「お疲れさま、背理くん。おにぎり、ありますよ」

「ありがとうございますぅ、いただきまーす……」


 ほぼ同時に、おにぎりのたくさん乗った皿を持った慧子が、キッチンから現れた。

 背理が、真事の隣のソファにぼふっと座った。

 くしゃくしゃとした黒髪が、心なしかしおれているように見える。


「背理くんは本当に、花より団子ですねぇ。そして君は、団子より花でしょうか」


 汐見が背理と真事を見ながら笑った。

 ここの者たちは全員、こっぱずかしいことを恥ずかしげもなく言う。


「背理くん。食べるものすべてが血肉となるように、見るものすべてが君の音になるんですよ」

「いえっさ」


 おにぎりを頬張りながら、とても適当に背理が返事をしている。


「真事くんも召し上がって」


 慧子が真事にもおにぎりを勧めた。

 一つ取ってかじると、具は高菜であった。



 おにぎりを立て続けに四つ食べて、背理はお茶も飲み干した。


「ふぅ……。真事は、先生に何を吹き込まれてたの?」

「はっはっは、相変わらず失礼なことです。聞きましたか? 師匠に対する態度とは思えません。私は、こンのくそ生意気な小わっぱが、と言いたいのをいつも堪えていますよ」

「本当ですか? 僕もよく先生の言ってることすっからかんに忘れてるから、お互い様ですね」


 汐見の罵倒にも驚きだが、背理も背理だった。

 よく破門されないものである。


「ほかのどこにもこんな師弟はいませんね」


 汐見が首を横にふりふり言った。


「そうですか? 僕、先生はどれも先生みたいな感じかと思ってました」


 背理は、満腹感に合わせて元気も取り戻していた。


「少なくとも、生徒のほうにはもっと敬虔さがあるものです」


 汐見がそう言うと、背理が胸を張った。


「当然ですよ。日本中の同世代のピアニストは、みんな僕の影に怯えてるんですから」

「おごってはいけません、背理くん」

「事実を曲げるのは嫌でありまーす」


 やれやれと、汐見がため息をついた。


「背理くん。たった一人を立ち止まらせたければ──」

「──ピアニストは百万回血を吐いて練習するんだ、ですね」

「そうです。謙虚になりなさい」


 背理が立ち上がった。黒髪は、もう好き勝手に跳ねている。


「先生、もうちょっとやっていっていいですか?」

「いいですよ」

「真事も来て」


 真事は、汐見に会釈をすると、背理についてリビングを出ていった。









「真事、ありがとうね、先生の話し相手してくれて。先生、けっこうおしゃべりでしょ?」


 練習室の防音扉を閉め、背理が真事に礼を言った。

 数々の暴言を含めおしゃべりでまとめるあたりがさすがである。


「ところで、さっきレッスンのとき僕が弾いてた曲で、何か真事が好きな曲はあった?」


 口調より孝行だなと思っていたら、すぐに話は変わっていた。


「……特にねぇな」

「あれま、そう。じゃあ、なんかいいなと思った音とかは? ドレミファソラシドの中で、何が好き?」


 背理が鍵盤の上で両手を広げてみせる。

 だが真事には、まず「ドレミファソラシド」の時点で、それがカタカナの言葉以外の意味を持っていなかった。


「俺には音がわからない」


 真事はありのままを言った。


「……鍵盤を一つ鳴らしたとき、その音がドなのかレなのかミなのかわからない、ってこと?」

「ああ」


 背理が一瞬口をつぐんだ。

 それは、ピアノとともに生きている背理には、考えてもみないようなことだった。


「そうだったの……。じゃあ、真事に、鍵盤の読み方と音の聴き方を教えてあげる。ちょっとだから、大変じゃないよ」


 背理が、おいでおいでと手招きをした。









 ピアノという楽器には、八十八本の鍵盤が並んでいる。

 そのうちの五十二本が白い鍵盤で、三十六本が黒い鍵盤。


 なぜ白と黒の二種類があるのか。

 これは、よく使う音を白い鍵盤に、あまり使わない音を黒い鍵盤に、と分けているからである。

 よく使う白い鍵盤は前のほうに、あまり使わない黒い鍵盤は奥のほうに。

 そしていざ使いたいときに楽に指が届くよう、黒鍵は白鍵より一段高く盛り上がっている。

 そんなふうに、ただ弾きやすいように、ピアノの鍵盤は作られている。


 ではなぜ白と黒なのか。

 こちらには、たとえば黒い部分に白い手がかざされれば弾く人がきれいに見えるのだ、とか謂れはいろいろあるが、一般的に知られている歴史はこうだ。


 はじめ、すべてが同じ色では見分けがつかず弾きにくいだろうと、黒い木を黒鍵に、普通の木を白鍵に使った。

 黒い木は黒檀。銘木のため、数の少ない黒鍵のほうに使われた。


 しかし、使っていくうちに白い鍵盤は黒ずみ、まさに黒い鍵盤と見分けがつかなく、弾きにくくなってきた。

 そのため、白鍵に、木より丈夫な象牙が使われることになった。

 だが、象牙は高い。

 そこで、鍵盤の白と黒が交換された。


 やがてヨーロッパ各地で革命が起こり、富を持つようになった市民は、自らの裕福さを誇示するために、贅を凝らしたピアノを好むようになった。

 このとき、象牙をより多く施そうと、黒鍵と白鍵の位置が戻る。


 現在、白鍵は合成樹脂で作られるが、配色はそのままに落ち着いている。





 そんな、紆余曲折を経た由緒ある鍵盤たちの、ちょうど真ん中──から左へ五本。

 一つの白い鍵盤を、背理が押した。


 ポーン──。


 高いとも低いともつかない音が響いた。


「これが、ド」


 背理が言う。


「僕らピアノ弾きは、この鍵盤を真ん中と考えて、ピアノを弾くんだ」


 そして背理は、「ド」から、白い鍵盤だけを右に右にと八つ、ゆっくり弾いていく。


 ド─レ─ミ─ファ─ソ─ラ─シ─ド──。


 これが、ヨーロッパで生まれた音楽の芸術、クラシック音楽の基本となる音階。

 その時代の人々が美しいと思った響きである。



「でも、本当に美しいのは、ドレミファソラシドじゃないんだよ」


 背理は話しはじめた。





 ドとレの距離、ミとファの距離。

 そんな、音たちの間隔。


 これがクラシック音楽の美しさの秘密だと背理は語る。


「真事は、月をイメージしたらわかりやすいかもしれないね」



 背理が「ドとレの距離」を「満月」だと言った。

 レとミの距離も満月、ファとソの距離も満月、ソとラの距離も満月、ラとシの距離も満月──と続ける。


 では、あいだから抜けているミとファ、最後にくるはずのシとドは?


「この二つの距離は、半月みたいなもの」


 背理が言った。



 ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。

 ここには、音という八つの雲に覆われて見えない、距離という七つの月が隠れている。

 その距離を例えて、満月、満月、半月、満月、満月、満月、半月。


「僕らは、この満月の距離のことを全音関係の『全』、半月の距離のことを半音関係の『半』って呼んでる」


 つまり、八つの音「ドレミファソラシド」のあいだにある、七つの距離「満月満月半月満月満月満月半月」を、音楽用語で表せば「全全半全全全半」。


「これを一往復させて──」


 ドレミファソラシド、ドシラソファミレド。


 白い鍵盤にして八つ、聴こえた音は十六個。

 距離で例えれば、満月満月半月満月満月満月半月、半月満月満月満月半月満月満月。

 音楽的に表せば、全全半全全全半、半全全全半全全。



「この一往復を、オクターブって呼ぶんだ。これをいろいろこねくりまわして、ピアノ曲は作られる」


 真事がピアノを見つめて、へぇ……と頷いた。

 真事が理解したようであることを確認して、背理は先を続ける。


「──ただこれを使うのは、明るい雰囲気の曲を弾きたいときだけ。ピアノを、暗い雰囲気で奏でたいときには──」


 背理が、同じく「ドレミファソラシド、ドシラソファミレド」と、鍵盤を一往復分繰り返した。


 ただし今回は、ときどき黒い鍵盤も使っていた。



 行きのときに、ミの音の部分を黒鍵で弾いた。

 そして帰ってくるときには、なんと、シの音の部分、ラの音の部分、ミの音の部分を黒鍵で。


 距離で例えれば、満月半月満月満月満月満月半月、満月満月半月満月満月半月満月。

 音楽的にいうと、全半全全全全半、全全半全全半全。


 さきほどの明るいときのドレミファソラシドドシラソファミレドと、カタカナは同じなのに、満月と半月の、顔を出す場所が違った。



 なぜ変わる……?


 確かに、十六個の音の醸し出す雰囲気は暗かったが、明るいときには往復の道は終始平坦であったくせをして、なぜ、今は行きに黒鍵が一つ、帰りには黒鍵が三つにもなるのか。


 背理が隣を見上げると、真事は、敵と認定してしまいたそうな、少し冷ややかな目で、鍵盤を見下ろしていた。



 これは感覚的な話である。

 こういった運びでピアノを弾いたほうが、クラシック音楽は気持ちよく感じる。

 当時のヨーロッパの人々が、そう感じてルールを決めていったのだ。

 このルールのことを音楽理論と呼ぶ。



 ……ただ、これを気持ちよく感じなくても大丈夫だ、と背理は言った。

 クラシックの世界にも、これを美しいと感じる人も、これでは美しくないと感じる人もいる。

 そのため、ひとえにクラシックといっても、いろいろな曲があるのだそうだ。



 ちなみに、美しいと定義されている距離以外の音のペアを、不協和音と呼ぶ。

 ピアノの調律が狂うとは、距離そのものである満月や半月の形が崩れ、不協和音に近づいていくことをいう。

 調律を正すには、専門の職人に頼み、居待月や三日月などに満ち欠けをした月の形を、満月や半月にまで整えてもらうのである。



 また、なぜいつも「ド」からはじめるのか。

 響きが一番単純であるから、と言おうするともっと勉強しなければ意味はよくわからないが、明るい雰囲気でピアノを弾くときに限り、「ド」から弾きはじめると、黒い鍵盤を一本も使わなくてすむ。

 このため、基本として考えやすいのだ、といえばまだわかりやすい。

 だから、ピアノ弾きたちは、ドの音を真ん中と考えて、ピアノを弾くのだった。



 大変じゃないよ、とはじめに背理は言ったが、真事からすれば十分に複雑な、音と鍵盤の関係の話であった。









「──っていうのをふまえて、何か好きな音、ある?」


 さきほどと同じ質問を、背理がしてきた。

 ここまで話した背理の労力に免じて、真事は少し、考えた──すると、まだ新しい一つの記憶に行き着いた。


「……そういう音じゃねぇけど」

「うん」


 背理が嬉しそうな顔になる。


「この家に入る前、ドアホン鳴らしただろ。あれだったら、まあ……悪くない」


 あのとき、不均等なリズムで流れた、音程の違う三つの音を、呼び鈴にしては気が利いていると、真事は思ったのだった。


「──あ、あれ? へー、真事はああいうのが好きなんだ。あれも曲なんだよ。弾いてあげる」


 あのドアホンも一つの曲。

 さらっと小さな衝撃をかましてから、背理がピアノの鍵盤にふわりと手を乗せる。

 ドアチャイムと同じ三つの音で、曲が始まった。


 ファーレラー──……。


 一番初めの音から順に、音程が下降していく。白鍵も黒鍵もよく使って、背理はその曲を弾いていった。


 背理が「ピアノの真ん中」だと言った、白鍵「ドの鍵盤」。そこから白鍵と黒鍵を合わせて、左へ四本移動した場所。黒鍵「ラのフラット」の音が、終始、等間隔に鳴り続ける曲だった。真事にはそういう風に聞こえた。



 雨だれと呼ばれている曲だよ、と弾き終わってから背理は言った。


 フレデリック・ショパンが作ったピアノ曲の一つ。

 雨が降り続く季節、地中海に浮かぶ島で、結核と闘いながら生まれた、ショパン入魂の作品。


 島に立つ修道院の小さな東屋へピアノを運び込み、ショパンは恋人とささやかなバカンスを楽しんでいた。しかし、恋人の献身的な看病にも関わらず、ショパンの結核は悪化するばかりであった。

 その日、買い物に出かけた恋人だが、帰り道で突然の嵐に見舞われる。

 重度の不安と悪天候のなかで恋人を待つあいだ、ショパンは、死の淵をさ迷うような心地で、命を削るようにして、曲を作る。

 ようやく恋人が帰ってきたとき、ショパンは完成させたばかりの曲を弾いていた。恋人の耳には、美しい旋律と、外に降る雨の音が響いた。


 雨の音は、彼の中で、天から心に落ちてくる涙になっていた──。


 のちに彼女がそのような言葉を残したため、この曲は「雨だれ」と呼ばれるようになる。

 この一曲には、ショパンの深い心情が刻み込まれているのだった。



「うん、いい曲──悪魔は天使の顔をして近づいてくる……って言ってる感じだよね」


 背理が、うっとりとした表情で恐ろしいことを言った。

 おそらく、「ラの鍵盤」を中心に、右手と左手のどちらもが、ラより右側の高音部と、ラより左側の低音部との、両方で音楽を展開させることからだろう。耳に心地のよい高音と、重厚感のある低音。その交互に奏でられる様を、背理は天使と悪魔の到来に例えている。

 曲にも顔にもタイトルにも合っていないような言葉に、真事はまた耳を疑うのだったが、曲の感じ方は人それぞれなので仕方ない。



 ちょうど、防音室の窓の外で、暗くなった空から雨が降りだした。

 もうすぐ、六月になる。

~曲紹介~


「準備運動」

 正式名称「60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト」

 1819年~1900年の間、シャルル=ルイ・アノン作曲のフィンガートレーニング用のピアノ曲集。

 通称「ハノン」

 参照URL: https://youtu.be/m1qMvTxoIfo (※1番のみ)


「雨だれ」

 正式名称「24の前奏曲 作品28 第15番 変ニ長調 Op.28-15」

 1839年、フレデリック・ショパン作曲のピアノ曲。

 通称「雨だれ」

 参照URL: https://youtu.be/qIqmd1g8GMQ

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