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第三話「銀座」

音無(おとなし)……まだか」

「んー、もうちょっと」

「一時間前も聞いたぞそれ……」


 楽譜、楽譜、楽譜。

 床から天井まで、全部楽譜。


 この世にこんな空間が存在していたのか。

 そして、なぜ自分はここにいるのか。


「パガニーニノコンチェルト、オッケー。リスト、オッケー。ハイドンノソナタ、オッケー。ショパン、オッケー。グリーグノソナタ、メトネルノコンチェルト、モウイッカイサガス──」


 ふかふかした椅子に、束の間、ため息とともに身を沈める真事(まこと)の目の前では、背理(はいり)がぶつぶつ呪文を唱えていた。





 青空、駅前、腕時計。

 それに、そこいらを見回す首が揃えば、デートの待ち合わせに最適な週末。

 そんなよい日和の今日、真事は背理の買い物に付き合わされることになっていた。


 二人は、銀座にあるYAMADA(ヤマダ)という店に来ている。

 YAMADAとは有名なピアノメーカーで、この店の五階にも、ピアノの展示販売場がある。

 背理と真事は、その一つ下の階である楽譜売り場に、もう二時間も居座っていた。



「コンクールに出るとき、書類と一緒に、楽譜のコピーを提出するんだ。僕、自分用にはどれも持ってるんだけど、いろいろ書き込んでるから、まっさらなのがもう一冊ずつ欲しくって」


 さきほど駅前での待ち合わせで、薄いジャケットに身を包んだ背理が、現れて開口一番、挨拶代わりに言ってのけた。


 背理の黒髪は、今日も相変わらず好き勝手に跳ねていて、真事の頭は、今日も変わらずに掻き上げたような金髪だ。

 二人とも、互いの私服を見るのは初めてである。


 上下ともに黒い服のせいで、背理はより細身に見えた。

 インナーのカットソーがかろうじて淡い水色を主張しているが、首もとまで被うタートルネックの襟では、外界との接触を可能な限り避けたいです、などといらぬ主義を訴えているようで、人混みに存在感なく溶け込むどころか、却って背理の存在を際立たせているようなものだった。


 対して真事は、ダメージジーンズに、スタッズの打たれたレザージャケットを着ている。

 背理に言わせれば、ダメージの過ぎたジーンズはスイスチーズなパンツだったが、ジャケットについては、


「アウター、重そうだし痛そうだよ。なに、着てる分には平気なの、アンキロサウルス的な? へー、カッコイイじゃん、真事」


 けなしているのか褒めているのかまるでわからないが、この日、背理が二番目に言ったことであった。



 真事へ一通り説明したように、背理はここにコンクール用の楽譜を買いにきたらしい。

 あちこちの棚から、コインのように薄かったり、札束のように分厚かったり、鞄ほど大きかったり、手に収まるくらい小さかったりする楽譜を引っ張り出しては、開いて中を確認していた。


 背理の頬のあざや腕の傷は、もう目立たないくらいに治ってきている。

 そんな彼がまだ心配で──という理由ではなく、自分が届かない棚からお目当ての楽譜を取り出すために、といちいち呼びつけられるので、真事はこの二時間、背理のそばにいることがほとんどだったし、立ったり座ったりと忙しく、本棚の間々に客のために用意されているせっかくのおしゃれな椅子で休める暇は少なかった。



 真事は、楽譜の背表紙を指差して「あれ」だの「その隣」だのしか言わないここ二時間の背理を、観察するように見ていた。

 音楽室で会ったときはただのピアノ狂だと思ったが、この空間にいる背理はもう少し興味深かった。


 背理の楽譜を扱う手つきがとても丁寧だった。慈しむように、優しく触れている。

 それに楽譜を読むまなざしも、まるで恋人に対するときのように、やわらかであたたかい。

 真事は背理を少し見直した。





「やー、ごめんごめん!」


 ほくほくした笑顔で、軽めのダンベル並みに重たい袋を抱えた背理が、やっと真事のもとへ戻ってきた。


「ああ、足が床にめり込みそう。背ぇ縮むぅー」


 文句を言いながら、とても嬉しそうだ。


「終わりか」

「うん、欲しかったもの全部買えた。真事、ありがとう。すごく助かった」



「あら、背理くんじゃない」


 真事が幸せそうな背理を見下ろしていると、後ろから声が聞こえてきた。


美優子(みゅうこ)ちゃん。やあ」


 背理がひょっこりと、真事の横から顔を出して挨拶している。

 真事も振り返った。


 そこには、綺麗な女の子がいた。

 長い髪はさらさらで、目のぱっちりした、大人っぽい子だ。

 ハイウエストのクラシックワンピースと黒いタイツがよく似合っている。

 その子がこちらへ歩いてくると、膝より少し長めのプリーツスカートがぱさりと揺れ、ショートブーツがコツコツと音を立てた。

 真事の隣まで来ると、女の子は背理に笑いかけた。


「もう、びっくりしたじゃない。どうしたのよ、先週。棄権でもしたの?」

「ああ、そうそう、行けなかったんだよね」

「連絡くらいしてよね。背理くんがいなきゃ、張り合いがないじゃない」

「そうかな」


 背理と女の子は知り合いのようだった。

 二人のやり取りを黙って見下ろしている真事に、背理がその子を紹介する。


「美優子ちゃんっていうの。ピアノやってる子だよ。現役で」

「なあに、だあれ?」


 真事が背理に何か相づちを打つ暇もなく、美優子とやらがくるりとこちらを向いた。長い髪がサラッと回り、遅れて追いつく。

 その胸元には、大きなロケットペンダントが下がっていて、近くの明かりを集めるように光っていた。


「僕の友達」


 背理は美優子に、真事のことをとても手短に紹介した。


「あら、そう」


 負けず劣らず短い返事をして、美優子が、金髪でゴツいジャケットを着た背の高い真事を、ひるむ様子もなく見上げてきた。

 黒目の奥底に、はっきりとした意志を感じる──燃えるような瞳だ。

 上から下までというわけではなかったが、真事は美優子の自分を見る目つきに、どこか値踏みされているような感覚を覚えた。


「じゃあね、美優子ちゃん」

「ええ。また今度ね(・・・・・)、背理くん」


 今度、という部分を強調するように言い、彼女がにっこりと、手袋をはめた手を振った。

 それにしても、知り合いに会ったというのに、なんとも淡泊な背理だった。

 店の奥の棚へ消えていく美優子とすれ違ったとき、真事はちくりと刺すような、確かな視線を感じた。





真事(まこと)、大丈夫?」

「……何がだ」


 銀色の扉が(いき)なエレベーターで一階に降り、電子バイオリンの展示ケースの横を通りすぎて店の外に出ると、背理(はいり)が聞いてきた。


 YAMADA(ヤマダ)店内の優しい照明に慣らされた目が、太陽の光を跳ね返す白くて綺麗な歩道から、今やさんさんと洗礼を受けている。

 しかし、背理の顔は複雑に雲っていて、事情がわからないながらにも、真事は努めていつも通りに答えた。


「……いや。美優子(みゅうこ)ちゃん……の演奏には、過激なところがあってね。真事は感じやすいだろうから、ちょっと、不安になった」

「……はぁ?」


 背理の突飛な言葉に、真事はつい心の声のまま返してしまった。


「あ、いや、敏感だとか、からかってるんじゃなくて。なんていうか……真事って、僕が持っていなきゃいけないものを持ってる人だと思うんだ。つまり、僕にはそれ(・・)が欠けてる。だから……僕は平気でも、真事には遭遇してほしくないことが、僕のまわりにはいくつかある。美優子ちゃんは、その一つ、かなって……」


 背理が気まずそうに髪をくしゃくしゃと掻いている。

 背理よりはるかに強い真事に、何を心配することがあるのだろう。


音無(おとなし)。余計な世話だ」


 真事は安心させようと、格別に愛想なく答えた。


「……うん、ならよかった」


 背理の表情に、明るさが少し戻った。



 それにしても、二人とも腹ぺこだった。

 昼前に集合していたはずなのに、もう午後の二時過ぎである。


「お昼にしよっか。お店、すぐそこだからさ」


 背理は二つ三つ先の建物を指した。


「今ならなんでも食えるな……」

「ごめんて」


 背理について歩きながら、真事がぼやいた。


 二人は建物の手前に立つ看板の影から、地階へと続く螺旋階段を降りていった。





「いらっしゃいませ──何名様ですか?」


 入ってすぐ、スープや揚げ物のおいしそうな香りと、小綺麗な女性の店員が背理たちを迎えた。


「あ、二人ですぅ」

「あらぁ……では、あちらのお席へどうぞ」


 背理は店員ににこーっと会釈をしているし、店員の女性も親しげな笑顔だった。


「真事、そっちに座って」


 案内された木目調のテーブルで、背理が奥のほうの椅子を真事に勧めた。

 言われた通りに座り、真事が無言で眺めていると、


「あとでわかるよ」


 大切そうに楽譜を置いた背理が、こくこくと頷いた。



 店員がお茶を二つ持ってやってきた。


「お決まりですか?」

「はい、えっとー……真事、麺と米どっち食べたい?」

「米」


 背理が真事に向けて差し出したメニューを、確認もせずの即答だった。


「じゃあ……夫婦めおと蒸し一つ、ちゃんぽん一つ、皿うどん一つ、ハトシ一つ──で、お願いします」

「かしこまりました」


 店員は去っていった。



「やっぱYAMADAだよねぇ、品揃えよすぎて毎回天国かと思う……」

「で、どういう奴なんだ」


 注文を済ませ、ほうっと満足そうなため息をついている背理に、真事は尋ねた。


「美優子ちゃんのこと? うーん……コンクールの常連、かなぁ。先週のコンクールでは、確か優勝してたね」


 背理は湯呑みの(ふち)を爪で引っ掻いている。


「すげぇな──」

「僕のほうがすごいよ?」


 優勝という響きに感心した真事が呟くと、背理が食い気味に遮ってきた。

 不満げに言われたところで、そもそもピアノの演奏がどんなものかも詳しく知らない真事には、たとえその瞬間の音色を美しいと感じても、まだ二度しか聴いたことのない背理の実力は図れないし、優勝よりすごい「すごい」というのも謎である。


「ちょうどいいや、次のコンクール、聴きに来てよ。真事を選んだこの僕が、どれほどの存在か教えてあげる」


 背理の強気な言い草と、どこまでも偉そうなその態度が、また真事に、断っても無駄なのだろうと思わせるのだった。



「お待たせしました。夫婦めおと蒸し、ちゃんぽん、皿うどん、ハトシです」

「あ、ありがとうございまーす」


 店員が食事を運んできた。

 木のテーブルの上に、皿が五枚並ぶ。

 真事には馴染みのない料理だった。


「真事の前のお盆にあるのが『夫婦めおと蒸し』っていって、どんぶりご飯と茶碗蒸しの定食ね」


 大きな丼が二つ、でん、と置かれている。

 あなご、えび、玉子のそぼろだよ、と背理がしゃべっていた。


「で、これがちゃんぽんっていうラーメンみたいな麺で、こっちが皿うどん、あんかけ焼きそばみたいなやつ。どれも長崎の郷土料理。僕好きなんだ」


 ──言われたところで食べてみなければ味などわからないし、この空腹では説明を聞くのも、説明をするのも億劫だった。

 真事も背理も、さっさと食べはじめた。





 大きくすくった茶碗蒸しが、ふるふると、レンゲの上で揺れた。

 口に入れれば、なめらかに溶けていく……。

 温かくて染み入るような出汁の香りもたまらない。

 背理が山積みの楽譜で幸せになるのなら、自分にはこの茶碗蒸しも悪くないと真事は思った。

 ときどき、背理がきめ細かい玉子の中から、好き勝手に具のタケノコやしいたけを取っていった。


 もう一つの丼も、あつあつだった。

 穴子おぼろの茶、海老おぼろの薄紅、金糸卵の黄──少し甘めの味付けの三色の具の下には、ふんわり丁寧に蒸し上げられた酢飯がある。


 二つの丼とも、待ちくたびれて疲れた体にありがたかった。



 背理は、ちゃんぽんの麺をつるりとすすり、鶏ガラと魚介の合わさった白いスープを、すくっては飲み、すくっては飲んでいた。

 箸で摘み上げれば、もっちりとした麺が、スープに浮かぶ細かい脂をまとって、きらきら光るのが綺麗である。

 隣にある皿うどんは、香ばしく揚げられたぱりぱりの麺に、野菜やかまぼこを炒めてとろみをつけたあんが、たっぷりかかっている。

 猫舌の背理には、これがまたいつまでも熱いのだ。



 しばらくあと。

 皿が綺麗に空になった。

 もしかして、と早々に箸を置いた背理は、途中から、買ったばかりの楽譜越しに真事を眺めることに専念していた。

 真事は、体格のよさから予想がついてはいたが、それでも見ていて気持ちがいいほどの食べっぷりだった。


 丼をあっという間に平らげた真事。

 背理は、ちゃんぽんと皿うどんの器と、夫婦めおと蒸しのお盆を、何も言わずに交換した。

 背理の食べかけを気にすることも、あんかけの熱さに手間取ることもなく、真事は平然と食べている。


 向かいで楽譜をめくりながら、背理は真事が食べ終わるのを大人しく待った。



「……足りた?」

「ああ」


 ハトシとは、海老のすり身をはさんだ、揚げトーストである。

 背理は前に、おやつみたいな家庭料理です、と店員から聞いていた。

 食事を終えた真事と、一つずつハトシをつまんだ。


「……ねぇ真事。なんでいつもはウイダーとカロリーメイトなの?」


 これだけの量をぺろりと食べて、まだ涼しい顔をしているのに、昼休みのコンビニの袋を思うと、またもや不釣り合いだった。


「興味がない」

「ご飯に?」

「ああ」

「……世の中にはいろんな人がいるもんだねぇ……」

「お前がそれを言うのかよ」


 真事の、無欲を通り越して味気ない食い気に、背理がしみじみと驚きを噛みしめていると、店員が二人のテーブルに遠慮がちな足取りで寄ってきた。


「恐れ入ります、あの……」

「あ、はい、いいですよ」


 真事が振り向くより早く、背理が返事をした。


「いつもありがとうございます!」

「いいえ、僕こそ。いつもおいしいです、ありがとうございます」


 店員と背理のやり取りを、真事は黙って見守った。





 背理が、差し出された色紙にすらすらとサインを書いている。

 隣では店員がそわそわしていた。待ち切れないのだろう。

 ふと、真事の後ろのほうから小さく話し声が聞こえた。


「今日はお一人じゃないのね、珍しいわぁ──」

「お連れの方とお話しするときの笑顔を見た? 素敵──」

「今日もYAMADA帰りね、次は何を弾かれるのかしら──」

「うちの娘もピアノを習っていて、大ファンなのよ──」


 すべて背理のことだろう。

 背理が真事を奥の椅子に座らせたのは、このためだった。


 背理はどうやらこの界隈で有名らしい。

 思い返せば、さっきのYAMADAでも、店員たちから不必要なほどお辞儀をされていた。

 ずいぶん過剰な接客だと思っていたが、背理が特別なだけだったのだ。

 この店で、奥の厨房の方向から顔が見えるように座っては、背理の後ろ姿を見るために、真事も一緒にじろじろ見られていたことだろう。

 真事をぶんぶん振り回しているくせに、慣れない空間で気兼ねさせたくないという、背理の不均衡な気遣いだった。



 熱視線の的になっている当の背理は、けろっとしたままサインを書き終えると、店員に色紙を渡した。


「では、僕らはこれで」

「ありがとうございました、またいらしてくださいね」

「はい、近いうちに」


 背理がにこにこと、戻る店員を見送った。

 そして、


「真事、出ようか」


 自分が立ち上がるのを待っている、楽譜を抱え、ただ幸せそうな背理がそこにいた。





 会計を済ませて地上に戻ると、空はまだ気持ちのよい青だった。

 真事はそびえ立つモダンなデザインのビルとビルの合間から、青空を見上げた。

 横では背理が胸いっぱいに銀座の風を吸い込み、伸びをしている。


「──帰ろっか。真事、ありがとう。一緒にいてくれて」


 さっぱりした顔でにーっと笑い、駅のほうへと歩きだした背理だが、すぐまた振り返って興奮気味に真事のジャケットを引っ張った。


「そうだ真事、買い物しよう!」

「はぁ……? またかよ……」



 信号一つ向こうのデパートへと、背理が真事を急かす。

 解散のおあずけを喰らった真事は、気乗り薄な顔で天を仰いだ。

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