第二話「屋上」(♪)
各学年に一人は、「みんなの人気者」という奴がいるのであって、背理の通う高校にももちろんそんな奴がいた。
「実原くぅん、がんばってぇ」
「実原くん、ファイトーッ!」
そういう奴の周りには、人も集まっているものである。
体育館で、二年B組がバスケットボールの授業をしていた。
一人、クラス中の女子から声援を一身に受ける生徒がいる。
背がすらりと高く、茶髪で、額に汗の光る姿が似合う、とても爽やかそうな男子である。
コートの中では、ボールの流れを追いながら、その男子生徒の近くに一人の男子が寄っていった。
「皆人ぉ。 女子たちみーんな、お前しか見てねぇなー」
「え? 気のせいだろ、そんなことないって」
茶髪の男子生徒は驚いたような顔をし、ははっと笑ってみせた。
「だなー。名指しで応援されてんじゃん、お前。よっ、色男っ」
別の男子生徒も、すれ違い様に肩を叩いていく。
「何言ってんだよ、そんなことより集中しろって!」
茶髪の男子は、ボールから目を離さない。
「お前こそ集中できんの? 名前呼ばれまくってさ」
「集中してたらそんなもの聞こえないだろ」
また別の、今度は相手チームの男子が、近くを通ったついでに茶々を入れてきた。
茶髪の男子は、真剣な表情で言い返す。
「そんなものってなぁ、お前──」
「いいから、変なこと言ってないで真面目にやれって」
茶髪の男子はびしっと言うと、ボールを追って飛び出していった。
その俊敏なプレーに、女子たちから黄色い悲鳴がこぼれる。
「おい実原、気ぃ抜くんじゃねーぞ!」
「実原ーっ、いけぇーっ!」
……と、同時に、休憩中のチームの男子たちからも激励が飛んできた。
どうやら彼は女子だけでなく、男子たちにとっても注目の人物であるようだ。
茶髪の男子がボールを持ち、軽々と飛び上がる。
そして、
「ゴール!」
「きゃーっ!」
「うおー!」
ボールがリングを通過して、ピッと笛が鳴り、女子からも男子からも歓声が上がった。
茶髪の男子生徒はチームメイトとハイタッチを交わし、応援席と化しているコート際に向かって、きらきらした爽やかな笑顔でガッツポーズをしてみせた。
そのおかげでより一層騒がしくなったクラスメイトたち。
コート上でも、敵味方問わずに動きが熱くなる。
「ああもう……。へぃへぃ、ちゃんとやりますよ──」
さきほど、茶髪の男子に最初に話しかけたチームメイトも、肩をすくめると、また走りだすのだった。
数分後、茶髪の男子生徒のいるチームが勝ち、試合が終わった。
そして、次のチームたちの試合が始まった。
「実原くん、あのね、私、ドリブルでボールがどうしてもどっかに行っちゃうの、どうしたらいいと思う?」
「実原くん、私も。私もシュートが上手く入らないの。どうしてかなぁ?」
「私も、上手くボールを受け取れないの、教えてくれる? 実原くん──」
休憩に入った茶髪の男子だが、あっという間に女子に囲まれた。
彼の他にも手の空いている男子生徒はいるのだが、休憩スペースに取り残されたまま、見向きもされていない。
女子の真ん中では、押され気味な茶髪の男子が、少し困ったような笑顔で一人一人の話にうんうんと耳を傾けている。
「お前ら、実原ばっかたかって、甘えてんじゃねーよ!」
そんなとき、取り残されている男子のうちの一人が、輪の外から野次を飛ばした。
女子たちは聞こえてきた言葉に、「なに急に、声おっきいし。ありえないんだけど──」など、ひそひそ言いながら身を寄せあった。
すると、
「村尾、そんな言い方よせ。みんな上手くなりたいって思ってるんだ。一生懸命なんだから、そんなふうに言ったら失礼だろ」
茶髪の男子生徒が、女子の輪の中から諭すように返した。
「みんな、ごめんね。オレのチームメイトが……悪気はないんだ」
「ううん、大丈夫」
「実原くんのせいじゃないよ、気にしないで」
申し訳なさそうに謝る茶髪の男子に、女子の集まりが更に大きくなる。
「それでね、実原くん、ドリブルのことなんだけど──」
「実原くん、私のシュートも──」
「私にも、ボールの取り方、教えて──」
あちこちからいくつもの声が呼ぶ。
茶髪の男子は、女子たちを見回すと、にっこりと笑った。
女子たちに、きゃあっと小さな悲鳴の波が広がった。
茶髪の男子は言う。
「うん、わかった。でも、今はみんなも応援の時間でしょ? 見て学ぶことも多いはずだから、向こうに戻ろう」
優しい笑顔に、諦めきれない様子の一人の女子が、おずおずと聞いた。
「じゃ、じゃあ、今日のお昼とかは……?」
その提案に、ほかの女子たちも期待に満ちた目で一斉に彼のことを見上げる。
茶髪の男子は、再び少し困ったような顔で、笑った。
「オレでいいなら、教えるね。ただ、今日の昼休みは清掃ボランティアに参加する予定なんだ。悪いんだけど、また今度でもいいかな……?」
女子たちがみんな、もちろん、と頷いた。
「よかった、ありがとう。じゃあね」
茶髪の男子は手を振ると、チームメイトのところへ戻っていってしまったのだった。
残された女子たちから、うっとりしたようなため息が次々と漏れだした。
「ありがとうだってー!」
「ね、聞いた? ボランティアだって、えらいよねっ」
「それに、また今度、だって! 優しいー」
「私のこと見て、頷いてくれた……!」
「今、私の隣歩いていった!」
「さっき怒ったけど、怒った顔もかっこいいねー!」
「友達相手でも、ちゃんと言うことは言うんだね!」
「カッコイイー!」
女子たちのキャーキャーが止まらない。
「やっぱり、次の生徒会長は実原くんで決まりだよね」
「スポーツできるし、頭いいし、カッコイイし、背も高いし、性格もすごいイイ! ……しかも、彼女いないんだって!」
「もったいなーい! ……けど、そこに夢があるよねーっ!」
「実原くんの彼女……言葉だけでも素敵……でもなんで誰とも付き合わないんだろ? 彼女になりたいって子、いっぱいいるのにね」
「告白した子、全員断られてるみたいだよね」
「じゃああの噂、本当なのかなぁ?」
「好きな子がいるらしい、って噂?」
「そうそう。誰だろうね」
「その子、羨ましい……! 実原くん、どんな子がタイプなんだろ?」
「私、他校の子って聞いたよ──」
噂話も終わらない。
このようにして、人気者はいつでも人気者で、いつまでも人気者なのである。
反対に。
各学年に一人は、「みんなから怖がられる奴」というのもまた存在するものであって、それは、背理の通うこの高校でいうと、真事に該当した。
なぜ怖がられているのか、それは真事の外見によるところが第一だった。
背は高く、体格もよく、鋭い目つきに、頭は強烈な金色。短ランだって、今時そうそう見るものではない。
加えて、本来真事のいるG組であろうが、ほかのクラスのドア先であろうが、廊下であろうが、どこであっても滅多にお目にかかることはない。
真事はそんな存在であった。
また、二年生の間では、真事に関する物騒な噂が絶えなかった。
やれとなり町のヤンキーと喧嘩をしただの、やれコンビニの看板を壊しただの、はたまたすれ違った下級生が大怪我をしただの、先生ですら恐れて近寄れないだの──。
そんなことが合わさって、真事は悪名高い存在として名を馳せていた。
「ひぃぃ……!」
背理と真事の色気のない逢瀬の、翌日の昼休みだった。
ここは、二年D組。
衣替えの以降期間に入ったばかりで、ちらほらと、夏服の白さが爽やかである。
そんな教室の後ろのドアから、悲鳴が上がった。
クラス中の生徒が何事かと振り返ってみると、ぎらぎらした金髪が、廊下からちらりと覗いていた。
「音無って奴、いるか」
低い声が聞こえたと思ったら、
「い、いないっす!」
すぐさま答えも聞こえた。
いないわけがない。ここは背理が属する二年D組だ。
現に背理は今、教室内にいたし、自分の席に座っていた。
しかし、普段ほとんど出くわすことのない真事が相手である。
関わりを持ちたくないあまり、反射的に無責任な嘘っぱちを口走ってしまっても無理はないだろう。
「真事」
ぺたぺたというにもふさわしい、なんとも緊張感のない足取りで、背理がやってきた。
さきほど真事に返事をし、恐怖でドアに張りついていた生徒は、これ幸いとばかりに逃げていった。
「どうしたの?」
真事は今日も短ランを着ている。
直々のお迎えが、背理は嬉しかった。
しかし、まだ出会い頭だというのに、真事のほうはすでに不機嫌そうである。
「なんの用だ」
しかものっけから唐突な質問のおまけつきだった。
「うん? 何が?」
背理は首をかしげる。
「お前、俺のこと探してたろ」
「……わぁ、なんでわかるの? ちょっと引く」
「お前なぁ……」
心当たりのあった背理の顔がほころんだ。その頬にはまだ青あざがある。
だが昨日に増して無礼な台詞だったので、逆に真事は眉間のシワを深めた。
「……見えたんだよ。屋上から」
「屋上ぉ?」
悲鳴の元凶が何かわかって、一斉に顔を背けたクラスメイトたち。
誰も、背理が真事としゃべっているのを見ようともしない。
地雷が服を着て歩いているかのような人物、綴季真事。
彼と出くわしたら、決して目を合わせてはいけない──なぜなら目をつけられた者は無事では済まないのだから。
これが二年生にとって暗黙の了解であり、平穏な高校生活と自己防衛の基本だった。
ゆえに、背理が真事と仲良くしようがどうしようが、誰一人気にする者も、そもそも気がつこうと努力する者すらいないのだった。
教室で会う真事は、昨日、廃棟の音楽室で背理が感じていたより、ずっとずっと背が高かった。
明るいと思った金髪は、日に透けるような金色で、意外に綺麗だと背理は思った。
一見すくみあがってしまいそうなまなざしも、よく見ると、まるで切ったように深い二重の湛える瞳が、こちらを見つめるときに少しも揺らめかないので、射すくめられたように感じるのだった。
──なんだ。こうしてると、おでこの傷跡もただの怪我の跡じゃん。それにしても、色黒いなぁ。
そんなのんきなことを、背理は思っていた。
みんなが二人を遠巻きにしている。
ここだけ別世界のようだった。
真事はこういう立ち位置なのかと、背理は納得するとともに、新鮮な思いがした。
そんな彼の、みんなが知らない一面を自分は知っている。
背理が大いなる優越感に浸るのは簡単だった。
「顔貸せ」
バカっぽい笑顔で背理がにやにやしているのを、真事は無視することに決めたようだった。
「──うん。あ、待って、お弁当持ってく」
声をかけられて正気に戻った背理は、机から弁当の包みを取ってくると、真事について教室から出ていった。
「はい真事どーぞ」
「いらね」
「え、なんで?」
「なんで俺がもらうと思ってんだよ」
「えー。友達だから?」
よく晴れた空。
二人は屋上で、昨日のように並んで座っていた。
本当なら屋上の鍵は閉まっているはずなのだが、しょっちゅうここに来るという真事が、自分が壊したと、こともなげに白状した。
屋上の片側からは、教室のある一般棟、講義室や実験室の集まる特別棟、廃棟になった旧校舎──と、三つある校舎のうち、一般棟が見渡せた。
確かに、ここからなら背理のD組も、真事のG組も、よく見える。
真事はここから背理がD組を覗いていたのを見たのだった。
真事が見向きもしないので、仕方なく背理は箸でつまんでいた唐揚げを自分の口に放り込んだ。
「うまーっ」
唐揚げは、背理が一番好きな弁当のおかずだ。
風下では、真事がタバコを吸っている。
コンクリートの床の上には、コンビニのビニール袋に入ったウイダーインゼリーとカロリーメイト。
捨てるように置かれている、食事ともいえないような昼食を見ながら、背理は唐揚げをもぐもぐと噛んだ。
「──ねぇあのさ。まさか、一夜限りの関係だーなんて、言わないよね?」
「一夜限りの関係なぁ……」
「ちょっと、ほんとにやめてよ?」
背理と真事が出会ってから、日が浅いどころではない。
数えてみれば、まだ二十四時間ほどしか経っていないのだ。
真事の呟きに、逸るように唐揚げを飲み込んだ背理だが、変わらない態度でタバコをふかす真事を見て、冗談だろうと安堵し、くすっと笑った。
「それにしてもよくわかったね、僕が『真事を探してた』って」
「お前が昨日の今日でG組覗く目的なんかそのくらいだろ。なんの用だよ」
背理は嬉しそうに言う。
「音楽室、一緒に掃除しようと思って」
真事がこちらを向いた。
「……掃除?」
「昨日、窓割っちゃったじゃない、どうにかしないとって」
「……もう終わった」
予想外な、真事の一言だった。
廃校舎四階、旧音楽室の窓に、昨日、──真事が、とも背理が、ともいうだろう──二人が作ってしまった大きな穴を、真事はもう、段ボールを貼って塞いでしまっていた。更には、地面に落下し散らばったガラスの破片も、ご丁寧に掃き集めて捨ててしまっていた。
「えー? 一人でやっちゃったの? そんなぁ……でもありがとう……」
うわぁ、と驚いたような感心したような声を洩らして背理が言う。その心は、真事といる口実が一つ減ってしまった、とただそれだけである。
どうやら出だしから不調なようだったが、そんなことでめげる背理ではない。
「……なら、ちょっと買い物付き合ってよ」
懲りずに真事を誘うと、真事は眉を寄せた。
「買い物? ……なんの」
「僕のピアノの買い物」
「俺いらねぇだろ」
とても一方的に自分を巻き込もうとしている背理に、真事はタバコを潰して、ごろんと寝転がってしまった。
背理は真事を上から覗きこんだ。
「真事、僕ね」
少しトーンの落ちた真剣そうな声に、真事が目を開けた。
真上にある背理の顔は、太陽を背にしているので少し翳っている。
そんな逆光の角度でも、この近さであれば、よく見えた。
背理の目は、流れるような一重である。
涙袋がぷくりと膨らんでいるせいで、今にも泣き出しそうにも、寝不足でクマがあるようにも見えた。
「本当に友達いないんだ、真事以外。理由になってないだろうけど、今僕す……少し、嬉しいんだ」
相変わらず好き勝手に跳ねる黒髪が、今ばかりは風になびいている。
「たぶん、これからこの気持ちは少しずつ……ううん、もっと膨らんでいく。きっと、僕にも止められない、……そんな気がする。真事じゃなきゃ、嫌なんだ。だから受け入れてほしい。それに、真事も僕から目……が離せなくなるよ、きっとね」
「勝手に決めつけるなよ。説得力もねぇし」
「悔しいけど、今は説明できないんだ……でも、僕は君がいいと思ってしまう。ほかの人と同じようには、とても思えないんだもの」
「だからって俺と馴れ合おうとするな」
真事の冷たい返事に、背理は薄い唇を噛んで考えた。
「じゃあ……もしこれが一つの後悔だったら、腐食と完全燃焼、真事はどっちがいいかな」
背理の、目ではすがるようにし、けれど口調では強がっている様子に、真事はため息をついた。
「……わかったよ」
そしてきらきらとした金髪を無造作に掻き上げ、のっそりと起き上がった。
「……ほんと? もう断んない?」
「お前の態度と内容次第だろ」
「オッケー、じゃあ僕はこれから真事を特別大切にするから、真事も僕のことを特別大事にして?」
「……」
結婚の誓いも桃園の誓いも、ここまで図々しくはない。
みんなが怖がって遠ざかる自分に、愛想笑いをするでもなく、媚を売るでもない、しつこい背理に、真事はついに観念した。
真事が青空と浮かぶ雲を眺めていると、背理が学ランのポケットから音楽プレーヤーを取り出した。
「ねぇ、聴く?」
「あ?」
「ピアノ曲だけど、どう?」
「いらね」
「はい聴くぅー。決定ぇー、真事も聴くー」
ぐいぐいと、真事の片方の耳の穴にイヤホンが押し込まれた。
「どれがいいかなぁ。あ、全部僕が弾いたやつだけど、いい?」
すぐ横には、イヤホンを分け合った、嬉しそうにしゃべる背理がいる。
「俺の意見聞く気ねぇだろ」
「そんなわけないじゃない」
ほかの人が怖がる真事の隣にいながら、自分の強引さにすら気づいていないようなところが、恐ろしい。
「今はこれかな。はい、水の戯れ」
真事が、これからこのわがままと諦めに自分は慣れていくのだろうかとぼんやり考えているあいだに、背理の選曲は終わったようだった。
「……何?」
「水の戯れ、モーリス・ラヴェルって人が作った、一九○一年の曲。綺麗だよ」
「……お前が弾いたのにか」
「僕が弾いたから尚更、だよ」
うきうきと、背理がプレーヤーの再生ボタンを押した。
ピアノの音が流れていく。
「ねぇ真事、今日帰り、アイス食べよう」
「……は? なんで」
「真事好きなアイス何?」
「……おい、聞けよ」
「僕はね、ストロベリーが好き」
「……」
たくさんの音たちと、止まらない背理の話。
「真事って、チョコミント嫌い?」
「……別に」
「ふふっ、だと思った。じゃあ真事はチョコミントで、僕はストロベリーね」
放課後の予定が、勝手にどんどん決まっていく。
「アイスも好きだけど、僕、生の苺が一番好きなんだ。特に生クリーム添えたやつ」
「……」
「あれは世界を征服できる味だよね。幸せの味」
アイスクリームに、苺の食べ方の話題まで加わった。
夢見心地な背理だが、世界征服と幸せは同じ天秤にかけられるものでもない。
特に、音楽を聴いているときには。
「……真事? 寝ちゃった……?」
ずっと黙っている真事を、背理が急にそーっと窺った。
「……お前がうるさくて音が聞こえねぇよ」
ぎろりと睨まれた。
「あ……ごめん、聴こうとしてくれててありがとう」
やっと、背理も黙った。
イヤホンから、背理の奏でる「水の戯れ」が、もう一度はじめから流れてきた。
いくつもの細かな音が、生まれては消えていく。次から次へと現れ、すぐにいなくなる──急いで転がり落ちていくようであったり、隠す気のない内緒話をするようであったり──と、絶え間なく鳴っている。一つとして同じではない音で構成されたような曲だった。
それらはどれも、さざれ水晶が器からこぼれ落ちていく時のような、綺麗な綺麗な音だった。少し綺麗すぎるくらいであった。
……こんなに音の止まない曲を、どう弾いているのだろう?
これだけの数の音だ、指は何本あっても足りない気がする──などというのは、所詮素人考えであろうか。真事はふと、背理がこの曲を弾く姿を、特にその手元を見てみたいと思った。
「今度これ生で聴いてね」
曲が終わると、背理がそう言った。
背理の自己アピールが強いだけで、心を見透かされたわけではないのだが、真事は思わず、背理を睥睨してしまった。
「……ん、なに?」
背理が不思議そうな顔をする。
「──なんでもねぇ」
無愛想に答えて、また空を見上げる。
容赦なく心に踏み入ってくる目の前のピアノ狂には、持て余すより慣れたほうが己の身のためだろうなと、真事は思うのだった。
「音無くん……!」
昼休みがあと少しで終わる。
二人は屋上から一般棟に戻る途中だった。
廊下の、自分に近いほうから呼び止められ、背理は振り返った。
「──ああ、えっと………………淑野、さん」
可愛らしい女子生徒だった。
彼女は、肩の上で切り揃えられ、ふんわりとウェーブがかった髪を揺らしながら、こちらへ駆け寄ってきた。
セーラー服の胸元に、紺色のスカーフがきゅ、と結ばれている──もう夏服だ。
白いセーターの袖を、手のひらでやんわりと握るようにしていて、それが大人しそうな印象を与えていた。
背理はしばらく考え、女子生徒の名前を絞り出したようだった。
「うん、覚えてくれてありがとう……」
淑野と呼ばれた女子生徒は、これまたふんわりと、控えめに笑った。背理に名前を覚えてもらえたのが、嬉しいらしかった。
一方背理のほうは、じぃ……っと、淑野のことではなく、宙を眺めている。
そして、思い出したようだった。
「──あ、そうだ。ごめんね、せっかく聴きにきてくれたのに」
「ううん。音無くんは、大丈夫……? 何かあったの……?」
「いや、何も。また次でもいいかな」
「うん、また、呼んでくれると嬉しいな……あの、頬っぺた、どうしたの──」
そのとき、淑野が、背理に合わせて立ち止まっていた、隣の真事に気づいた。
目を見張り、一瞬言葉につまって、そのままの顔で固まる。
清く正しい一般の生徒にしてみれば、短ランはやはり威圧感があるだろう。
「お友達……?」
「うん、G組のね、真事」
「あ……うん、知って、る」
「え? なんで?」
「同じ学年、だよね……?」
真事がふっと笑った。
背理には、ほれみろと言われたように聞こえた。
「てやっ」
「……なんだ」
背理は、真事の膝の裏に蹴りを入れたのだ。
しかし、背理のほうにほんの二センチ傾いただけの真事には、内緒話のためにちょんちょんと袖口を引いて呼ばれた程度にしか感じられなかったようだ。
「膝カックンだよ!」
懲らしめ甲斐のない相手にむかっ腹を立てて、背理はあっかんべーをすると、ぷんすかと歩いていってしまった。
「──じゃあな」
「あっ、うん……」
真事は、明らかに自分に怯えているが、後退りしたそうなのを堪えている、礼儀正しい淑野のために、さっさとその場から撤退し、背理を追った。
「……今のは」
背理に追いつき、真事が尋ねた。
今の、淑野とのやり取りを指している。
「えーと……たぶんH組の、女の子。一昨日の、僕が行きそびれたピアノのコンクールを、聴きにきてくれるはずだったんだ。彼女も昔ピアノを習ってたみたい。……その前の日に怪我した僕は、彼女のことなんてすっかり忘れてた」
背理が真事を見上げて肩をすくめた。
背理は感情の切り替えが早いようだったし、記憶の持ちも短いようであった。
「真事、五限目からはどうするの?」
「寝る」
「音楽室?」
「ああ」
裏切らない答えに、背理は安心した。
「じゃあ、放課後迎えに行くね。いてね」
「わかってる」
真事が頷いた。
それから、背理は授業に出るため、真事は廃棟に向かうため、二人は廊下の端で別れた。
旧校舎へ行くには、一度、一般棟の一階まで降りる必要がある。
二階から上の校舎同士を繋いでいた渡り廊下は、再来年に予定されている旧校舎の解体に先駆けて、真事たちが入学するより前に取り壊されているからだ。
真事は、校舎のなかでは比較的人通りの少ない方面にある階段を選んで、下へ向かった。
壊すならさっさと壊せばいいものを、未だそのままにしておく利点がわからない。
この春まで、出入りをしているのは真事だけだった。
いまどき非行が流行るわけでもなく、立ち入り禁止のチェーンを犯して、わざわざ無断侵入する者はほかにいなかった。
その真事が入り浸る理由といえば、邪魔の入らない寝床としてちょうどよかったから、それだけであって、別に、昼寝の場所などはいくらでも見つけられるのだ。
何を勿体つけているのだろう、というのが所感だった。
──そこに、音無背理が現れた。
特別棟には新しい音楽室が、新しい音楽室には新しいピアノがあるので、役割だけを見れば、特別棟で間に合っているはすである。
だが、欲したものがそうではないから、彼は旧校舎へ来たのだろう。
涌いてすぐに消えるのが特徴かと問いたくはなるが、昨日から、少なからずその笑顔を見ている。
真事と違って、廃棟の薄暗がりがもたらす恩恵は、音無には大きいようだった。
自分以外の誰かにとって意味のある場所となったのならば、そう粗末に思うわけにもいかなくなった──。
……などと考えながら二階への階段を降りていると、呼び止められた。
「あああ、綴季くん、いいところに……! ちょっと今いいかな……?」
教師が一人、見つけたぞ、と言わんばかりに寄ってくる──教頭だ。真事に話があるらしい。
忘れていたが、三階のこちらの側には、人の行き来が少ない代わりに校長室があるのだった。教頭はそこから出てきたのだろう。失敗した。
まるで気が進まないが、それでも真事は一応立ち止まった。
自分よりずいぶん背の低い教師に対して、首をほんの少し下に向けただけで、そちらを見たことにする。
教頭が、貼りつけたような引きつったような、ぎこちない笑顔を作った。
「えーと……、お父さんはお元気? お祖父様はいかが? あ、いや、先生とお呼びしていいのだったかな……? 先生方は、ご息災かい?」
真事は無言である。
教頭がおずおずと、しかし機嫌を伺うように明るく喋る。
「例の件、どうだろう……? 前々からお願いしているよね」
教師はそわそわと落ち着かず、笑ったり困ったように、もじもじしている。
話が続かないようならばと、真事はその場を去ろうとした。
「ああ待って待って。──ま、まぁ、ご家族にもご都合がおありだろうし……? そうだねぇ、やはりここは君に取り持ってもらえると、こちらとしても助かるんだ。もし急にご連絡を差し上げては……なんだね、その……そう、不自然だろう? それに、君だってわが校のれっきとした生徒の一人であるのだから、君にとっても悪い話ではないだろう? 何度も話しているがね、これは、学校をよりよくしようとする一環なんだ。決して、金額の問題ではないんだよ。後援者の存在そのものが、意義を持つんだ。もちろん根底には、言うなればわれわれの親心だったり向上心といったものがあるわけで……ただそれを少しばかりご援助いただきたいのだよ。君にも愛校心があるなら、わかってくれるね……? 綴季くんに口添えしてもらえれば、先生方はご快諾くださるだろう。ここは一つ、改めて頼まれてくれないかな……」
ここで、楽をしようとするな、と一蹴すればよいのだろうが、面倒事を避けるための面倒も、避けるに限る。
真事は、す、と頭を下げただけで、その場から離れた。
手揉みをして、もどかしそうに、教頭は真事の後ろ姿を見送る。
話は空振りに終わったようだ。
入学してから一年余り、真事は校内で教頭と鉢合わせるたび、こんな風に一方的に話しかけられている。
彼の、いや、彼らの願いが叶っていないからだ。
彼らは、真事がその願いを叶えるための駒になり得ると信じている上に、真事の機嫌を取ることもビジネスだと思っている。
しかし、学校、それに教師などという生き物とは、特に関わりを持ちたくない真事である。さきほど、背理の誘いをかわしていたときよりも無表情だった。
そんな真事の崩れない態度に、強く出られない教頭。
これが、その真実を知る由もない一般の生徒からすれば、不良生徒と、彼に怯えてまともに話しかけられない教師の図、にでも見えるのだろう。
こうして今日もまた、噂は膨らんでいく。
その日の夜。
背理が家に帰ったのは、二十三時を回ろうとする頃だった。
遅くまでピアノの練習をしすぎてしまって、駅からの道はすっかり暗かった。マンションのエントランスの照明だけが耿々としている。
上っていくエレベーターの中で、背理は耳からイヤホンを外した。
もっと早い時間であれば、エレベーターを降りた共用廊下には、味噌汁であったりシャンプーであったり、よい香りが漂っている。
通路に面した窓からは、余所の家々の明かりがカーテン越しに漏れ出ていて、それを横目に見ながら音無家の住戸へと歩いていくのが、背理は好きであった。
今夜はさすがにもう遅い。静かで落ち着いた、寂しげな薄闇である。
鍵を開け、なるべく音を立てないように家に入り、玄関の扉を閉めた。
リビングからの明かりがかろうじて届いているので、電気は点けなくてもなんとかなるだろう。
マットの上、並んで待っていたスリッパに足を入れる。
2LDKの家の中を、左右に分ける廊下。その向こうのリビングに、人影が見えた。
境にある、すりガラスのはめ込まれたドアをそっと開け──背理が挨拶するより先に、母親が背理に気づいた。
「──あら、お帰りなさい。今日も遅かったのね?」
月刊数学アルキメデス、月刊物理ニュートン、月刊絵画ボッティチェリ、月刊音楽ピタゴラス──。片付けようとしていたのだろう、夫婦の愛読書である学術誌を数冊抱えた状態で、母親が振り向く。
「……うん。ただいま」
背理は鞄から弁当の包みを出し、キッチンのカウンターに置いた。
「お弁当箱、ここに置いとく」
「ねぇ、ご飯とお風呂、どっちが先がいいかしら。お父さん、もうすぐあがると思うのよ」
風呂場からは水音が聞こえていた。
普段なら、こんなに時間がかち合うことはない。今日は父親の帰りが、いつもと比べて少し遅かったらしい。
夕食は、二人ともすでに終えたようで、シンクの水切りラックには洗われた皿たちが立て掛けられている。
音無家の食事は、専業主婦である母親が取り仕切っているが、朝であれ夜であれ、家族で揃って食べるといった習慣は、随分前になくなっている。父親の朝が早く、背理の夜が遅いためだ。
「……いいよ。僕もう寝るから」
母親が、雑誌を抱えたまま首を傾げる。
「あら……ずいぶん疲れてるのねぇ。お腹空いたら呼びなさいね?」
「うん」
廊下を戻って自分の部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。
はあ、と深く、しかし静かに息を吐いてから、電気を点けた。
照らし出されたのは、フローリング、平たいベッドに無地のカーテン、木の学習机とスチールの本棚、備え付けのクローゼット、そして、ポスターカレンダー。──「あるべきもの」のない部屋だと、背理は長年思っている。
鞄を床に置こうとして考え直し、机の上に横倒しにして乗せる。
中にはメロンパンとミルクティーが入っていた。帰り道にコンビニで買ってきたものだ。夜中、目が覚めれば食べることになるだろう。
学ランのポケットから音楽プレーヤーを取り出し、ベッドのヘッドボードへ、そっと置く。
靴下はぽいと床に捨て、制服はハンガーに掛けた。ハイネックのTシャツと細いラウンジパンツに着替え、そのままベッドに潜ってしまう。
ドアの向こうから聞こえてくる音を遮断するように、毛布を耳のところまでかぶった。
手探りで埋もれていたリモコンを捕まえ、照明の明るさを最小まで落とす。
仄かな薄明かりを頼りに、音楽プレーヤーも充電器に差し込んだ。
ついでにボタンを押し、「水の戯れ」を小さな音で再生させる。
この演奏を、真事はどう思っただろう。
今日は音源で我慢した。今度、直に聴いてもらわなくては。
明日も真事に会えるだろうか。
「……不良って、毎日学校来るのかな……?」
教室で見た様子から、どうやら真事がその類いであるらしいとは理解した。だが、そんなことはどうでもいいのだ。
仲良くならなくては。何しろ、初めての友達なのだから。
~曲紹介~
「水の戯れ」
正式名称「噴水」
1901年、モーリス・ラヴェル作曲のピアノ曲。
通称「水の戯れ」
参照URL: https://youtu.be/UJK6yZJ8b5Y (※楽譜付)