第八話「事故」1/10
──それは、六月も終わりのことだった。
梅雨はいよいよ盛りで、天気予報を気にする習慣のない背理も、さすがに傘を持ち歩くようになっていた。
この三週間、背理は何かと理由をつけて、時間を作って、真事と会った。
一人暮らしのアパートを訪ねれば、真事はいつも昼寝中だったが、毎度、鬱陶しがりもせずに、背理を迎え入れてくれた。
火曜日。
雨は、ぱたぱた降っている。
学校帰り、汐見の家とは逆方向にある真事の家まで、背理が「今日はレッスンに行ってくる」とだけ言いに来た。
この日背理が置いていった品は、瑠璃玉薊の花束と、コーヒーゼリー三つである。
真事は、ローテーブルの上にこんもりと鎮座しているあじさいの隙間へ、濃い紫色のまん丸な花たちを適当に差し込んだ。
ゼリーは夜に一つ空け、残り二つを翌日に備えて冷蔵庫に突っ込む。
「今日は」の一言と、一人暮らしの人間への差し入れには余分で中途半端な数──明日来たら自分も一緒に食べたいし、今日は今日で真事に食べておいてほしい、そんなところだろう。
背理のこのくらいの考えであればお見通しだったし、いまさら期待を無視するほど、真事は薄情でもなかった。
水曜日。
かたかたと跳ね返る切れ間のない雨で、街はぼやけている。
前日のレッスンで新しい曲を録音したらしい背理が、真事の耳にまた勝手にイヤホンを突っ込んだ。
真事が終始従順だったのは、冷蔵庫で一晩冷えたコーヒーゼリーにミルククリームをかけて嬉しそうに食べる背理に水を差したくなかったから──ではなく、自分の耳の権利に関して何か言うことをとっくに諦めていたから、である。
木曜日。
ぴたんぴたんと、水たまりに王冠を作るくらい大粒の雨。
暗くなってからやって来た背理と、きつねうどん、たぬきそば、焼きそばのカップ麺で夕飯を済ませた。
帰りがてら、駅前のアイスクリームショップへ、背理が真事を連れ出す。店のショーガラス越しに黒い空を見上げながら、閉店間際の店でストロベリーとチョコミントの二つの味をつついた。
二人で一緒にアイスを食べるのは二度目だった。
金曜日。
しゃあしゃあと雨は降り続けて、空も薄暗い。
二人は夕方、学校から一つ隣の駅で待ち合わせ、小さな映画館へリバイバル上映の洋画を観に行った。
映画は一昔前の作品で、真事には初めて観るものであった。
背理にはとても面白いらしかった。買ったポップコーンを膝の上に置き去りにしたまま一心に観ていたのだ。バター醤油とキャラメルのハーフアンドハーフが泣いているだろう。
だが真事のほうももっぱら、目の前にそびえるスクリーンより、すぐ隣にあった横顔を眺めていた。
別れ際には、電車の時間に迫られて急ぐ背理と、ほとんど飲み込むようにして、ポップコーンの箱を無理やり空にした。
週末。
雨が、ざあざあ降っている。
一週間分の授業をまとめたノートを抱え、背理が泊まりに来た。
このあいだ「僕バカなんだ」と申告してきた背理だったが、自らそれを裏付けるがごとく、嫌そうに目を通しただけでノートを放り出し、すぐにピアノの楽譜のほうに夢中になってしまった。
付き合いで一冊借りて開いてみていた自宅謹慎中の真事のほうが、よほど読む時間が長かったくらいである。
真事にしてみれば、「音符」という言語ですらないものが並んだ楽譜こそ難解に思えるのに、背理はずっと、楽しそうに、幸せそうに、ページをめくったり、メロディーを口ずさんだりしていた。
そして、月曜日。
滾々とした雨の中、背理は真事の家からそのまま学校へ行った。
最近、特にピアノピアノと言っていて忙しそうなのに、わざわざ会おうとしなくても──と思いながら、それでも一緒に過ごしたがる背理を尊重して、真事は何も言わずに付き合った。
自分にはわからない背理のこだわりとやらを理解するよりも、その誘いをいちいち断るほうが、アホくさいと思うようになっていた。
──六月二十八日。
しっとりと、街全体が小雨に包まれた、六月最後の日曜日の朝。
どしゃ降りよりはましだが、それでも、楽譜と衣装を持ち運ぶにはあまり向かない天気である。
休みの日だというのに制服を着て、大きな鞄を抱えた背理が、雨粒を避けるように足早に駅へと向かっていた。
入り口に着き、傘を畳む。
雨水は傘の先からポタポタ落ちて、背理の足元に小さく水溜まりを作った。
「ずっと降るねぇ──大丈夫、濡れなかった?」
話しかけた相手は、鞄の中身である。
荷物の無事を確認して、ズボンについた水滴たちを払いながら、駅構内を進む。
もう何年もずっと、この時期のこの時間に、背理はこうしてここを歩いていた。
通勤客が少なくて、いつもより風通しがよい気がする、休日の駅。
濡れた傘と、縦長の鞄と、普段より寝癖を気にしなくていい頭。
そして……。
何年ぶりだろう。胸一杯に幸せな気持ちが膨らむような、楽しみでたまらなくて、弾む心。
──もうすぐだよ。もうすぐだから。
自分に言い聞かせ、歩いていく。
「真事!」
改札前の柱に寄りかかっている真事を見つけ、背理は駆け寄った。
「──おはよう。ごめん、待たせた?」
「……いや」
電光掲示板の時計を睨むように見ていた真事が、のっそりと体を起こす。
「行こうか」
背理がにこりと笑った。
今日、背理はコンクールに出場する。
そこに、聴き手と付き人を兼ねて、真事がついて来てくれることになっていた。
背理がどれほどすごいのか、そのピアノの実力を、やっとまともに、真事に知らしめる時がやって来た。
嬉しいことに、実原たちにやられた背理の怪我も、もうすっかり治っている。
ポケットから定期入れを取り出し、真事の目の前を過ぎて、改札へ入っていこうとした背理だったが、
「──わっ。え、なに?」
三歩も歩かないうちに、ぐいと引き戻された。
「真事?」
首を反らせて斜め後ろを見上げると、笑っても、不機嫌そうにもしていない、ほとんど無表情な真事が、背理の腕を掴んでいた。
「……用ができた。行けねぇ」
「……へ?」
手短に告げられた断りの文句に、背理は目をぱちくりさせる。
「……あ、そう、なの」
不意を突かれて、まずはそれしか出てこなかった。
「悪い」
こちらを見つめ、突っ立って固まる背理に、真事が真顔のまま言った。
「……悪い」
背理が動かなくなってしまって、真事は、その腕を掴んでいた手をそっと離した。
さっきと同じ言葉に、今度はもう少し感情を込める。
数回まばたきをしてから、ようやく背理も喋りだした。
「えっ、そんな、全然……。もともと、僕の用事だし──」
「そういう意味じゃねぇ」
「……真事が残念って思ってくれてるって、僕は思ってもいいんだよね……?」
「ああ」
背理は息をつき、自分を納得させるように、下を向いて何度か頷いた。
「……なら、うん、大丈夫。えっと、僕も、その──」
「終わり次第、向かう」
背理が顔を上げた。
「──え、終わるものなの?」
「たぶんな」
ぽかんと見上げられて、真事が頷く。
「……わかった。じゃあ、僕なるべく遅い番号を引くから。今日はくじ引きなんだ、演奏順決めるの」
「……できるのか」
「うん、僕その運だけはいいんだ」
笑ってみせた背理に対し、真事の顔は翳っている気がした。
背理は少し近づいて、下から真事を覗く。
「……平気? 間に合う? どこから行くの?」
「──、お前の隣のホームから行く」
一拍遅れて真事が答えた。考え事をしていたようだった。
かなり気にしてくれているのだろうか。
二人が同じように思っているなら、予定が狂おうと、約束が反故になろうと、背理は構わなかった。
いつもの無愛想なだけの真事になってほしくて、背理は定期入れをひらひらと振ってみせる。
「そっか。なら、中まで一緒に行こう」
小雨越しの向かいのホームに真事が立っている。
高い上背と、先週末に買ったばかりのスーツを着ているせいで、かなり大人びて見えた。
どことなく深刻そうな表情が気になったが、ついて行けない自分が聞けることではなさそうだ。
それに残念ながら、背理自身も、今日は真事のことに首を突っ込む時間はなかった。
二つのホームに、ほとんど同時に電車が入ってきた。
そのまま背理の目の前を過ぎ、真事の姿がかき消される。
湿った風が、前髪をぶわっとめくった。
扉が開いて、乗客が入れ替わる。
背理は、空いている座席には見向きもせず、乗り込んだほうとは反対側の扉の前まで急ぎ、陣取った。
隣の車内では、真事も背理に近いところに寄りかかっている。
人の多い中、別々の電車の乗客同士で見つめ合うのも、悪目立ちするかもしれない。
車内では、出来る限りぼーっとしているのがマナーというものだ。
背理は携帯電話を取り出し、真事にメッセージを送った。
──じゃあ、後でね。
──なるべく急ぐ。
背理が携帯を取り出すのを見ていたであろう真事から、すぐに返事が返ってきた。
ガタン──と電車が動いて、背理のほうから先に、真事から遠ざかっていく。
背理は、鞄の陰から、真事に小さく手を降った。
真事が携帯電話を持った手をすいと上げる。
真事らしい、簡素な挨拶だった。
そのすぐあと、真事の乗った電車も発車し、二人はすれ違うように離れていった。
ピアノのコンクールが行われるのは、だいたいが、各地域に建つ文化会館や、大型楽器店、大学などに併設されたコンサートホールである。
コンクールの開催地、出場者の住む場所、参加申し込み順によって、近場で済むときもあれば、少し遠出になることもある。
今日の会場は、都内西寄りの市にある文化ホール。
ありがたいことに、電車をたった二本、乗り継いだ先の街だ。
八時半。
文化ホールの開場とともに、コンクールの受け付けは始まる。
出場者が続々と到着し、受け付けで参加票を提出。
本人確認を済ませたあと、隣のテーブルにずらりと並べられた裏返しの札から、一枚を選ぶ。
伏せられた札の表には数字が印刷されていて、その番号が、出場者のこの日の演奏順となる。
演奏番号の決定は、一種の事件である。
方法はコンクールごとに異なるが、自分で引く抽選と、乱数を使用したコンピューター決定の二種類があった。
今日の決め方は、抽選のほうに分類される。
抽選といえば、普通は、中の見えない箱から札などを引いて決めるのだが、このコンクールでは、はじめから全ての札が並べられていた。
出場者はどれにするか、目で見ながら選ぶことができるのだが、その分、緊張感が増す。
というのも、碁盤の目のように整然と並べられているため、もしかしたらここは何番かもしれない、という余計な勘が働き、何番であればいいな、と心のどこかで願いながら引いてしまうことになる。
そして当然、予想した番号とは違っていることのほうが多いため、精神的な打撃が大きいのだ。
現に、この抽選のあと、安堵のため息をつく出場者と、ショックで表情の消える出場者を、今までに背理はよく見かけてきた。
当の背理は、まるで悪魔のおみくじを引かされるようなこの演奏番号の決め方を、あたかも祭りのくじ引きをするかのような軽い気持ちで、心配するどころかむしろ楽しんでいた。
そしてまた不可思議なことに、望んだ通りの番号を引けることが多いのであった。
九時半。
受け付けが締め切られる。
このときまでに来なければ、コンクールは失格だ。
背理は怪我による寝過ごしと棄権で、今年はもう二度も失格を喰らっていた。
今日は無事受け付けできたので、一安心である。
十時。
演奏審査の開始、すなわちコンクールの始まりだ。
演奏の形式も、大きく二種類に分けられる。
コンサートホールの舞台裏で待機する出場者が、舞台袖からステージへ登場して演奏をし、また舞台袖へ帰っていくものと、ホール客席の前列側に演奏番号順に着席した出場者が、登壇して演奏し、また客席へ戻るというもの。
今日は後者のほうだ。
出場者はホールへ集まり、演奏番号順に椅子に座る。
番号のアナウンスがかかると、一人ずつステージへ上がる。
客席へ向かってお辞儀をし、椅子の高さを調整し、座って、ピアノを弾く。
弾き終えたら立ち上がり、もう一度お辞儀。
ステージから降り、椅子へ戻る。
場内には、出場者のほかに審査員、事務員、出場者の家族など付き人、見学者、それから一般客が入ることができた。
前のほうには出場者、中央には審査員と決まっているだけで、あとの座席は自由である。
そしてコンクール中は、その全員が聴衆となるのだ。
本日の出場者は二十名。
演奏番号の一番から八番が午前中の演奏、昼休憩をはさみ、九番から二十番が午後の演奏。
そして、審査員たちによる一時間ほどの審議のあと、結果が貼り出される。
最後は、表彰式で締めくくり。
たいていのコンクールがこのような流れだった。
──時刻は、九時十分。
早々に受け付けを済ませた背理は、文化センターの館内でも特に薄暗い廊下にあるベンチに座って、アイスを食べていた。
コンクール会場でアイスを食べることは、背理の習慣だった。
初めてコンクールに出た、小学四年生の春の日。
昼食を持ってくるのを忘れた背理が、時間を潰そうと探検していた館内の隅で、自動販売機を見つけて買ったのが、一番最初。
当たり前だが、アイスで腹は膨れない。
でも、まだ子供だった背理は、お昼ご飯にアイスなんてすごく贅沢──と、喜んで食べたのである。
いつもなら、迷わずストロベリーを買う背理だが、今日はチョコミントを選んでいた。
表面に薄く霜の降りた包装紙をぺりりと破り、バータイプのアイスを取り出す。
氷の周りとミントの葉の上を吹き渡った風が、そのまま色を移したような淡いグリーンのアイスだ。
上から下まで、小粒のチョコレートがたっぷり入っている。
その涼しげで愛嬌あるビジュアルを、眺めるとなしに眺めてから、一口かじった。
「真事、大丈夫なのかなぁ……」
この三週間、背理は真事がどこにいるか、いつもわかっていた。
その安心感に慣れていたものだから、肝心の今日に居場所を知らないことが、とても奇妙に感じた。
真事は今、どこにいるのだろう。そして、何をしているのだろう。
考えたところで、真事が教えてくれない限りわからないのだが、少なくともアイスを食べてはいないだろうし、ということは、背理のほうが今アイスを食べていることも、真事は当てられないだろうと思って、つい笑ってしまった。
「……ふふっ。……はぁ」
ついでに、ため息も洩れる。
できたら今、真事にもここにいてほしかった。
──終わり次第向かう。
そう言っていたくらいだから、演奏には間に合うのだろう。
でも、そうではなくて……。
コンクール前の会場のこの緊張感を、真事にも感じてほしかった。
どんな風にコンクールが進んでいくのか、真事にも知ってほしかった。
背理はずっとこうして生きてきたと、真事に見てほしかった。
そして何より、ほかの出場者の中で、背理がどんなに輝いているのか、どれほど素晴らしいのか、わかってほしかった。
この状況にあっても、考えることはやはり尊大である。
「真事ぉ、今どこ……? 早く戻って来ーい……」
少しの不在だとわかっているのに、さっきかすめる程度に会ってしまったものだから、余計に隣が空いている気がして恋しかった。
たまたまそばにいないだけの友達に、待っていれば隣に来てくれる友達に、今、無性に会いたいと思うなんて……。
目を閉じ、壁にもたれ──また一口、アイスをかじる。
ひんやりしたアイスの中で、チョコレートが舌に当たると、小さな甘みが広がった。
細かな粒をパキパキ噛み砕く感覚も、心地よい。
飲み込めば、ミントがスーッと香る。
チョコミントの、スッキリとして甘く、甘くてスッキリした味わいは、こんなふうに、浮くでも沈むでもない宙ぶらりんな気分のときでも、関係なしに美味しかった。
「……雨だれでも聴こ」
今だけは、本当にすることがない。
ひたすら緊張したり、楽譜を確認して過ごす出場者が多い中で、早くピアノを弾きたいなぁと楽しみに思う背理には、審査開始までのこの時間は、いつも暇なのだ。
ポケットから音楽プレーヤーを取り出して、カチカチ、とボタンを押す。
ファーレラーシードー、レーミーファソーファー、ファーミレー──……。
変ニ長調──ドとレの間の音から始まる一往復を使い奏でられる、明るめながらも落ち着いた雰囲気をもつ曲調──の旋律が流れていく。ショパン作曲の雨だれである。
もちろん、背理自身の演奏の録音だ。
伴奏には、ラの左隣の黒鍵が途切れなく鳴っている。
背理は曲にイメージを重ねるといったことを今まであまりしてこなかったが、今はこれが、軒から続けざまにしたたる、雨の音そのもののように聴こえた。
外はずっと雨なのだろうか。
そういえば、真事は傘を持っていたっけ?
いや、今日よりももっと降っている日に、背理に傘を傾けてくれる真事のことだから、こんな雨なんか気にしないのかもしれない。
──そうだ。
今日は雨だから、ピアノの鍵盤は湿気を吸っているだろう。
それも、どしゃ降りではなく小雨だから、ほどよくしっとりしているはず……。
背理が弾くには、最高の状態ではないか。
「今日の子もね、やっぱり、僕のためのピアノだよ、真事──」
小声で呟く。
真事が戻ってきたら、言おうと思った。
それにしても、雨の日に雨だれを聴きながらチョコミントアイスを食べるのは、なかなか素敵だった。
雨だれを好きだと言った真事の気持ちに、今、少し近づいている気がした。