第七話「見舞い」2/2
ソファーにぼふっと身を沈め、背理は恨みがましく真事を睨んだ。
「今、左耳だったでしょ? 僕の耳フーは、永遠に真事の体に残るんだからね。いつかどこかで思い出して、悶え苦しむがいいさ」
「お前……頭大丈夫か?」
幼稚な呪いへの真事の返事である。
その素っ気ない言い草に、背理は少し身を起こした。
「……左耳は感覚を司るって、知ってる? 左耳と右耳で音の聞こえ方が違うって」
左耳は旋律の美しさを、右耳は一音一音の正確さを拾う、という話はピアノ弾きにとっては定説で、背理と汐見先生のレッスンでも、右側のグランドピアノに背理、左側のグランドピアノに汐見という並びで、いつもピアノを使っている。
これは、先生が生徒の間違いを右耳で聴き取り指導する──のはおまけで、生徒が先生の綺麗な音を左耳から聴いて学ぶ、というほうが主な目的だ。
「ああ……。知らねぇけどあれだろ、よく聞く右脳と左脳みたいなもんだろ?」
「……なに急に、難しいんだけど……。わかったよ、どう降参すれば満足?」
「おい、勝手に買うな。ガキか」
自分の話に更なる情報を盛り込んできた真事。結局、背理は不服だった。
唇はへの字で頬も膨らませている背理に、真事はつれない。
背理はソファーの上で、真事のほうを向いて座り直した。
「真事。もうわかってるかもだけど、僕ね、結構バカなんだ。でも頑張るから、なんていうか……ほんとに甘やかして? 真事が言うこと、間違えないでわかりたい。あと──」
真事は黙って聞いている。
「──すぐじゃなくていいから、真事にも、もっと僕を求めるようになってほしい。まだ割りに合ってないけど、僕は待てるよ。……そういうつもりで僕といてもらいたいんだけど……つけこんでるかな……僕……」
しゃべり通した最後、急に弱気になったりして、背理のそんなしおらしさに、真事は拍子抜けした気分であった。
「別になんとも思っちゃいねぇよ」
珍しく片口を上げて笑う真事に、背理も安心してにへらっと笑う。
「よかった、今はそれでいいや。──というわけで、今日泊まってってもいい? 親睦を深めよう、親睦を」
「…………別に構わねぇけどよ……ピアノはいいのか」
「うん。明日レッスン前に弾ければいいし、僕ん家に帰ってもピアノはないしね」
「……は?」
「あ、まだ言ってなかったっけ」
真事が驚いていた。
背理は説明する。
「親が反対してるんだ、僕のピアノ。ほら、ピアノって学業と比べたら芸事になるじゃん? 僕の父さん大学の先生でそういうのに厳しくって、母さんは僕より父さんの味方で。僕ん家ではずっと……不文律っていうか、ピアノはスルーされてるの。だから僕、ピアノ買ってもらえてないんだ。笑えるでしょ」
ピアニストの家にピアノがないというのも信じ難かったが、それより真事は背理の父親のほうが気になった。
「数学者か。お前の親父」
「……わぁ、なんでわかるの」
「わかりやすいだろ。お前の名前、背理法からだろ」
「わぁ……うん、そうだよ。父さんが好きなんだって。真事ってやっぱすごいね」
背理法とは、命題Aに対して、Aが成り立たないと仮定したときに生じる矛盾を導くことで逆にAの成立を示す、数学的な証明方法のことである。
単刀直入に言い当ててくるのがなんとも真事らしく、背理は胸がすくようで気持ちよかった。
ぐー。
背理の腹が鳴った。
ちょうど昼飯時である。
「真事、お昼にしよう。僕お弁当持ってきてるんだけど、二人で分けたら足りないだろうから、もっと何か食べるもの、買いに行こう」
背理はソファーから立ち上がると、首にかけたタオルを犬が尻尾を振るようにぱたぱたと動かし、真事を誘った。
外は変わらずの雨で、傘は一本しかなかった。
背理は真事が持ってくれているビニール傘の中から、がっしりとした太い腕の延長線上に、灰色分厚い空を見上げた。
大粒の雨が落ちてきては、傘にぶつかり、弾け、流れていく。
さきほどこの中を走ってきたのだと思うと、どこにそんな思い切りがあったのか、自分でも不思議だった。
「ラファ、ドードラーラ、ソド、ソーソミ、ミファーファファーファファーシファ、ミ、ミ、ソー」
「……今度はなんだ」
真事が聞いた。
「知らない?」
「知らねぇよ」
「これも童謡なんだけど、あめふりりんちゃんっていう。『ドラドラ、ソミソミ』より今の気分かなと思って。これね、どっちの曲も、ドの鍵盤から始まる音階で作られてるんだよ」
解説したが、真事にはあまり響かないようだった。
背理はすぐ隣を見上げた。
金髪に、よく焼けた肌。とても背が高い。
その精悍な横顔は、雨で煙る不鮮明な街の中で、一番近くにある。
「真事はさ、真事が思ったことを大切にしてればいいよ」
背理は傘から手を出して、雨の具合を診た。
「いい音、いい音楽なんて、本当はみんな自分の中に持ってるんだ。ただ、それをうまく出す術がないから、誰かの奏でる、自分が思い描くものと似ている音楽を好きになるんだよ。……まぁ僕は自分でそれが可能だけどね」
自分の演奏が大好きな背理らしい言葉である。
雨の中へはみ出るのも気にせず、少し遠くにできた水溜まりをローファーのつま先で器用に突っついている背理のほうに、真事は傘を傾けた。
「おい。そう濡れて面白れぇのは今だけだぞ」
「……真事もね」
振り返って真事の肩に降る雨粒を見た背理は、もとの位置に戻った。
「何食べようかねぇ……そういえば、家では普段何食べてんの?」
「カップラーメン」
「……ああうん、だと思った」
二人は駅前のショップ街を歩いていた。
「真事は一人暮らしなの?」
「ああ」
「家族は?」
「さあな。どっかにいんだろ」
冷たい言い方に、背理がぱちくりとまばたきをした。
「どういう意味……?」
「母親は知らねぇ男の所、父親は別の妻の所だ」
「えっ、どういうこと──」
そのときハンバーガーショップの自動ドアが開いたので、背理は急速に声のボリュームを下げた。
「自分の女が妊娠したってときに、政略結婚に飛びついて子供ごと女を捨てた男が、俺の父親。昔の男をいつまでも引きずって、寂しさをほかの男で埋めている女が、俺の母親だ」
目の前では、店員の、ポテトはLサイズでよろしいですか? という元気な声が響いている。
「……ドラマチック……で、済めばいいけど」
「お前こそ、公私も分けられねぇような人種が揃って親で大変だな」
「……あ、ありがと」
真事の容赦ない言葉に一瞬ドキンとしたが、その衝撃は心の奥のほうで小さな清涼感に変わり、空っぽの腹へ静かに落ちていった。
ハンバーガーとフライドポテトの入った紙袋を抱えて、背理と真事は店を出た。
腕の中は、いい匂いがしていて温かい。
「僕のほうはもうあんまり言うことないんだけど、聞いてもいい? 政略結婚て、なに?」
「……意味を聞いてるんじゃねぇだろうな」
「うん、大丈夫──ほんとにドラマみたいなんだもん。真事のお父さん、何者?」
雨に包まれながら、二人はまた歩いた。
「ただの政治家だ」
「政治家? じゃあ表舞台に立つ人だ。誰? あ、僕聞いてわかるかな……」
「常磐紘太郎」
「……知らないや」
「お前らしいな」
真事はフッと笑った。
だが、交差点を越えて、いざスーパーマーケットに入ろうというところで、突然背理が立ち止まった。
「──え、ちょっと待って。常磐……? 政治家……? ──……常磐こーたろー……常磐んーんんー……常磐、うーん……常磐んーんんん、ああっ!」
傘を畳み、入り口横に積まれた買い物かごから一つを取り、真事はぶつぶつ呟いている背理を振り返った。
「なんだよ」
「と、常磐、尚一郎……」
背理が恐る恐る口にすると、真事は平然と答えた。
「じーさん」
陽気な音楽が流れる店内を、二人は弁当売り場までやって来た。
「……ひゃー、そうなんだ? 僕が初めてコンクールに出たときの文部科学大臣だよ……七年くらい前かな?」
「よく覚えてんな」
「賞状に書いてあったし、盾にも彫られてたんだ。発行元みたいなさ。嬉しかったからよく覚えてるよ。……そっかぁ、真事のお祖父ちゃんなんだ……」
驚きと感動の波に一通り揉まれて落ち着いた背理は、牛カルビの焼き肉弁当を真事に渡した。
真事がそのままかごに入れる。
「じゃあ、『綴季』はお母さんの姓なの?」
「ああ」
「そうなんだ……」
続いてカツカレー弁当を手に取る。
「僕ん家、別に家族仲が険悪ってわけじゃないんだ……たぶん。ただピアノの話は許されないっていうか、僕がピアノをやってるのもまるっと無視されてて。僕も昔一回だけ頑張ってみたんだけどねぇ、今じゃ誰も歩み寄ろうとしないっていうか、うん。真事の……ほうは?」
「……父親が俺の親権を手に入れたがってる。唯一の男だからっつう下らねぇ理由で」
向こうにある大きな海老の天ぷらの乗った弁当も、とても旨そうだ。
「……なんで?」
「家系を途絶えさせたくないだけだろ」
「ああ、政治家の? ──ねぇ、カレーと天丼、どっちがいいかなぁ?」
背理が二つの弁当を目の前に出してきた。
「お前が食いたいもんは?」
「……どっちも……」
「なら両方買えよ。迷うだけアホくせぇ」
真事は二つとも取り上げてかごに入れた。
「お前が手に負えねぇ分は食ってやっから」
「ほんと? ありがとう。……あ、でも真事は何食べたい?」
「飯に興味ねぇっつったろ。──あとは何がいいんだ」
二人は惣菜コーナーに移動した。
「真事は何人家族なの? 唯一ってことは、男の兄弟はいないんだね? ちなみに僕は一人っ子だよ」
「妹と呼ぶのが三人いる」
「異母妹……てやつ? 仲いい?」
真事は、背理が渡してくる唐揚げのボックスと緑の野菜とコーンのサラダを、ひょいひょいとかごに入れた。
「良くも悪くもねぇな。あいつらが色々知るのはこれからだろうし」
「そうなんだ。……お母さんは?」
インスタント食品の棚に来た。背理は味噌汁を物色する。
「義理のほうは許容してる。生みのほうは見て見ぬふりだな」
「……僕のピアノみたい。僕はピアノをやんないとこの先食べていけないし、真事は人としての存在とか命の話じゃん。僕らの境遇、似てないけど似てるね」
そしてかごに、揚げ茄子と長ネギ、豚汁の即席味噌汁が放り込まれた。粉末や個包装のブロックタイプではなく、紙カップのものである。真事の家に味噌汁碗が二人分あるとも思えなかったし(事実、無い)、インスタントの味噌汁はカップに口を付けて啜るから美味いのだ。そして料理をする気のない二人には、湯を注ぐだけで食べられるものこそありがたい。
「どう思おうが勝手だが、見合わねぇぞ。お前のピアノは価値があっても、俺の血筋はろくでもねぇ」
「じゃあ、お互い嫌な環境が普通なわけだ?」
背理がからからと笑った。
二人は棚のあいだをぶらぶら歩き、かごの中には商品が増えていった。
背理が今夜寝袋代わりにくるまろうと思った大きな毛布、ブルーの歯ブラシ、入浴剤一箱、明日の朝食用のメロンパン、スティックタイプのココアとマグカップ二つ。
背理はココアが好きである。
味も香りも好きだが、ココアにまつわる話も好きであった。
背理のようなピアノ弾きやクラシック音楽の愛好家にとって、十九世紀前半に活躍した作曲家、フレデリック・ショパンがココア好きだったというのは有名な話である。
もっとも、当時ショパンが飲んでいた「ココア」とは、チョコレートと牛乳を合わせた濃厚な飲み物、ホットチョコレートであった。
病弱なショパンが、料理の得意な恋人に毎朝作ってもらい飲んでいたというホットチョコレート。
この話をショパンの伝記で知ったとき、それまでただの甘い飲み物だったココアは、背理にとって少し特別な意味を持つものになった。
突然、背理が言った。
「真事、かご重くない? 僕、持つよ」
「はぁ……? やめておけ」
冗談かと思ったが、背理は手を伸ばしかけてきていた。
「まだ怪我痛むだろ。その紙袋で満足しとけよ」
「……それもそうだね。ありがとう」
それから二人はレジへ向かった。
「……あの文部科学大臣が真事のお祖父ちゃんだったなんて、ちょっとびっくりした。でも、変に心の準備する前に聞いてよかったかも」
「俺はお前の家にピアノがないほうがでかいと思うぞ」
ぽとんぽとんと降る雨の中、二人は元来た道を戻っていく。
「この時期は毎年僕もそう思う……。梅雨の時期のピアノってね、弾きやすくなるんだ。湿気で鍵盤の木が少し重くなるから、しっとりしてて気持ちいいんだ。だからできればずっと触っていたい」
真冬など乾燥している時期の鍵盤を好むピアニストもいるので、これは背理に限った話だ。
真事はそんなこともあるのかと聞いていた。
夜。
結局、昼と合わせて、背理と真事は一対四の割合で買ってきたものを食べた。
背理は割り箸でマグカップの中のココアを丁寧にかき混ぜながら、かたやろくすっぽ溶かしもせずにとっとと飲み干した隣の真事に尋ねた。
「お祖父ちゃんはどんな人?」
「……俺がお前のピアノの師匠を意外だと思ったと言ったら、わかるか」
「うん、わかる」
背理の返事はこもっている。マグカップに口を突っ込んでいるからだ。
「じーさんはまぁ……そんな感じだ」
「へぇー」
「囲碁を打つと見せかけてはじくし、新聞を熱心に読んでいるかと思えば、好きな女優が出る番組を探している」
「あはは、わかったかも」
きっと真事に似て厳格そうな老人が、年甲斐もなく軽率に相好を崩す様子が目に浮かんだ。
「……っ、はぁ……」
心が和んだら、あくびが出てきた。
「シャワー浴びてこい」
「うん、そうする……」
背理は大人しく従った。
風呂場から帰ってくると、ソファーに寄りかかった姿勢のまま、真事は目を閉じていた。
「ただいま──って、真事……? 寝ちゃった……?」
背理は電気を消し、買い物袋から毛布を取り出した。
起こさないように近づいて、顔をそっと覗き込んでみるが、真事は微動だにしない。
毛布をかぶせたついでに、その胸に耳を寄せてみた。
とくん……とくん……。
鼓動が穏やかに鳴っていた。
真事の世界の時間を語っているようで、そのゆっくりさに背理は安心した。
「真事。聞こえてなくてもいいから、そのまま聞いて……。僕ね、よくうなされるんだ。夢の中で、父さんも母さんも、僕からピアノを引き剥がすんだ。僕はとても怖くて、嫌なんだけど、そればっかりをうんざりするくらい見て、ほかの夢はあんまり見ないんだ。だから……今日だけでもいいから、君の夢を見たい。夢でも君に会いたい……と、思うんだ。……真事、できたら、夢の中でも隣にいて。君がいてくれたら、もう怖いものなんてないよ。──おやすみ」
走って、濡れて、驚いて、たくさん喋って、もう眠気が限界だった。
背理も毛布に潜り込む。新品の布と、それから、真事の匂いがした。
大きいのを買っておいてよかったなぁとぼんやり思いながら、すーっと眠りに落ちていく。
暗がりの中、真事の大きな手が、ソファーの背もたれからずり落ちそうになっている背理の頭を、とても静かに支えた。