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第一話「旧音楽室」(♪)

 ──アスファルトに(くずお)れる直前、光を見た。金色の光だ。まだ夕日にも変わらない、十分に青い空をやっと傾きはじめたような、爽やかな五月の太陽だった。

 本来、目を刺すほどの強さを持つはずのその色は、しかしなぜだろう、覚悟する間もなく見上げたにも関わらず、不思議と眩しくなかった。ただ特有の暖かさだけが降り注いだ。

 それは、泣きたくなるような安堵と、なぜ目に痛くないのだろうという小さな疑問を、張り詰め、引き切れそうな心の片隅へ残した──。









 渡り廊下を、廃棟(はいとう)になった校舎へ向かう生徒がいた。

 鬱々(うつうつ)とした足取りに、ボタンを留めていない学ランが、はらりはらりと落ち葉のように揺れている。


 人気ひとけがなくなってどのくらいだろうか。

 役目を終えた床や壁は、無断侵入者を気にも留めなかった。

 立入禁止のチェーンをまたぎ、ためらいがちに押された扉にも、鍵はかかっていない。

 旧校舎の静かな暗がりは、線の細いその影を優しく受け入れた。


 彼は旧校舎の階段を昇り、一番上の階の、一番奥の教室へと入った。

 中は薄暗い。

 火照った体を包んでくれるひんやりした空気と、雑に寄せられた机と椅子が、ここがしばらく使われていないことを物語っていた。


 教室の隅にはグランドピアノが置かれている──大きすぎて邪魔だからと、まるで誰かにそこに追いやられたみたいに。

 カーテンの隙間から差す幾筋かの日の光に照らされているが、漆黒の蓋は埃をかぶっていて返事をしない。

 ここでは、すべてのものが密やかだ。



 少年の右手には包帯が巻かれている。

 いや、右手だけではない。少年の体のあちこちが、白く被われていた。


 彼は抑揚のないまなざしで自分の右手を見つめ、それから包帯を外しはじめた。

 さらさらと、床に白い小山ができていく。

 続いてテーピング、湿布、ガーゼ、絆創膏が次々と落ちていった。

 露になった彼の腕や頬には、傷やあざが見えて痛々しい。

 肌に張り付いていたものを外し終えると、少年はゆっくりとグランドピアノに近づき、黒い蓋に手をかけた。


 蓋は少年に従い、音もなく開いた。

 持ち上げられるがままに開き、そのわずかな空気の乱れに埃たちは流れていった。


 蓋の下に引かれた真っ赤な布をそっとめくり、中を覗く。

 本当なら白と黒のはずの鍵盤たちは、茶色く変色していた。


 少年は、長く細い指を茶色い鍵盤に這わせる。

 ドの鍵盤、レの鍵盤、ミの鍵盤──。

 鍵盤を一つ押すたびに、ポロン、と小さく音が鳴る。けれど、霜柱を踏んだときのように、指は肩透かしを食らった。

 音たちは、余韻を残さずに消えてしまうのだ。


「狂ってるなぁ……」


 音が指からこぼれ落ちていくような感覚に、彼はふっと笑った。


「君は、夢の中でも夢を見てるの?」


 ピアノに話しかけながら、茶色ばんだ鍵盤をいたわるように撫でている。


「可哀想に……でも今の僕には君がちょうどいいみたい。ごめんね、少し触らせて」


 少年は椅子を引き、腰掛けると、両手をふわりと鍵盤に乗せた。









 まどろみの中をかすかな音たちが流れていく。

 それは、砂時計のガラス管のくびれから落ちる砂のようでもあり、紅茶に溶かす前の角砂糖のようでもあり。

 少しぼやけた音色は、真珠のネックレスでじゃれる、舌足らずな子猫を思わせた。

 子猫はときどき、まだ上手くしまえないその爪で真珠をはじいてしまい、そのたびに、耳の中を漂う音も不揃いな粒に変わっては、ぽわん……とすぐに散っていく。

 それはことさらうるさくも不快でもなく、昼寝のBGMにもってこいだった──。



 ──ガッチャーン!


 しかし、突然の不協和音は、その心地よい眠りを打ち切る目覚ましにしてはけたたましすぎるものだった。









「……おい」

「──えっ」


 ピアノの鍵盤に両手を叩きつけたまま、肩で荒く息をしていた怪我だらけの少年は、急に声をかけられてひどく驚いたように振り返った。


「……誰か、いるの……?」

「悪かったな。邪魔して」


 グランドピアノがあるところより一層暗い壁際、机と椅子を越えた先。

 教室の一番後ろの、ずらりと並んだロッカーの上に、「誰か」はいた。


「ご、ごめん、先客がいたって気づかなかった……」

「あんまりでけぇ音立てんなよ」

「ごめん、うるさくするつもりはなかったんだけど──」

「バレたら面倒くせぇことになんだろ」

「……そうだね」


 少年はピアノの椅子から立ち上がると、声のしたほうへ歩いていった。

 ロッカーの上の「誰か」は、大きなあくびをしている。

 薄明かりのなか近づくと、その人物の顔が見えてきた。


 この暗さでもわかるくらい、明るい髪と焼けた肌。少年とは色合いが真逆だ。

 そして、寝足りないのか不機嫌なのか、かったるそうなしかめっ面。

 すべてがぼんやりしている教室の中で、その瞳だけが強い光を持ち、こちらを見据えていた。



「お前……」

「え、うん?」


 まっすぐな瞳の持ち主の傍らにも、学ランがあった。

 彼は少年の顔を一瞥してから、腕まくりのせいで剥き出しになっている怪我に目を移した。


「……痛くねぇのか」

「え……あ、これ? うーん、ちょっとね。でも、包帯と湿布でもたついてるほうが嫌で」


 少年は、ピアノの足元に落としてきた白い脱け殻を指差してみせた。


「そうかよ」


 彼はさほど興味もなさそうに学ランを羽織った。短ランだった。



「……でも、やっぱり痛いかなぁ、あはは……。だけど別に、どうでもいいのかもね……。ねぇ、君、タバコ持ってる?」


 力なく笑ったかと思いきや、半ば自虐的に言い捨て、続けて突拍子もないことを聞いてきた怪我だらけの少年に、短ランの男子の眉が寄った。


「……は?」

「あれ、ない?」

「……いや」

「よかった。ね、一本くれない?」

「……貸しは作らねぇことにしてっから」

「え、なにそれ。いいじゃない、ちょーだい」


 答えあぐねている相手の様子を見て、少年は閃いたとばかりに畳み掛けた。


「あ、もしかして、お金? なら、ちゃんと払うからさ。タバコって……えーと、いくらするの?」

「おい……慣れないことならするな」

「え、なんで? いいじゃない、別に。それに、君のほうは慣れてるんでしょ、こういうの。だったら、僕と合わせてプラマイゼロじゃん? 色々教えてよ」

「なんだそれは……。いいからやめておけ。お前は単に好奇心で火遊びしてみたいだけだろ。お前みたいな甘えた奴が吸えるようなもんじゃねぇよ」


 今度は少年がムッとする番だった。


「なにそれ。もしかして喧嘩売ってる?」

「……お前、ガキだな……」

「はぁ? ああもう、イライラする……。僕は買うって言ってるんだ、偉そうに説教とかしてないで、売れよ! タバコ持ってる奴が正義ぶって、何が楽しい、わっ──」


 一人でまくしたてていた少年だが、突然短ランの男子に襟首をむんずと掴まれて、荒々しく引きずられた。

 そして、そのまま勢いよく──、


 パリーン……!



 たくさんの光が舞っている。

 透明な欠片が、まわりをキラキラと落ちていく。


「ごちゃごちゃうるせぇよ。一回落ちるか?」


 耳元で響く低い声。やけに大きな自分の鼓動、収縮を忘れた肺。──それから、背筋をざわつかせる浮遊感。


 少年の上半身が、窓を突き破っていた。









 校舎の最上階から見下ろす地面は、やたら遠く感じるくせに、なぜか排水溝の穴まではっきり見える。

 辺りに広がる透明な空気に、掴まれるようなところはなく、窓の中に残る足は床から離れている。

 前のめりになった体をとどめているのは、名も知らぬ奴の手だけ。


 この手が離れたら、どうなるのだろう?


「待っ──」


 言い終わらないうちに、ぐいっと引き戻された。


「──はぁっ、はぁ……はぁ」


 止まっていた呼吸が、自己主張を思い出した。

 窓際にしりもちをついたまま、少年は何度も息を吸い直す。


「気が済んだか?」

「……ごめん」


 痛みのないスリルは、塞き止めていた気持ちを決壊させるには十分で、涙がはらはらとこぼれるのだった。





 ……なぜ痛みがなかったのだろう。


 しばらくして、少し落ち着いたら、ふと疑問が湧いてきた。

 答えを求めて見上げると、短ランの奴が目の前に立ちはだかるようにして、少年を見下ろしていた。

 その射抜くようなまなざしから逃れたくて視線を泳がせていたら、彼の手に目がいった。

 血がポタポタと垂れていた。


「君、手……!」

「あ? ……ああ」


 涙が引っ込んだ。

 サーッと青ざめ、うろたえる少年とは逆に、短ランの男子は自分の流血を気にするふうでもなく、ちらりと見ただけだった。


「ご、ごめん、待って、どうしよう──」

「俺より自分の心配をしたらどうなんだ」

「えっ?」

「マジでガキみてぇ……。まさか、その怪我忘れてんのか?」

「へ? ……ああっ、い、痛い、かも、なんで……」


 緊張の糸が切れた今、青あざや切り傷の痛みが、冷や汗とともにどっと噴き出してきた。


「ったく……」


 男子は、そんな少年に背を向けて歩いていこうとした。


「ど、どこ行くの」

「おとなしくしてろよ」

「ちょっと待ってよ、行かないで!」

「は?」

「ここにいて、お願い。一緒にいて」


 すると彼は振り返り、言い放った。


「お守りなんざごめんだね」


 少年は生唾を飲み込んだ。


 今、彼を引き留めるための言葉を言わなくては。

 ここで、自分の気持ちを伝える言葉を探さなくては。



「……君を、利用したいって、もう、思ってない」

「……」


 彼はため息を鼻で流すと、


「愚図ではねぇみてぇだな」


 戻ってきた。









「……ねぇ。その怪我、気になるんだけど」


 さきほど窓ガラスが割れたときカーテンも一緒に裂けたようで、大きな切れ目から入ってくる光が教室の片隅を照らしていた。

 二人はそこに並んで座っている。


「血は止まった」

「……そう。僕はね、痛いよ」

「お前は自分で剥がしたんだろ」

「まぁ……そうだね」


 少年は頷き、隣を盗み見た。

 明るくなったおかげで、彼のことが見やすくなっていた。


 短ランの上からでもわかる、がっしりとした腕。

 さっき暗がりで見た通りの、金髪と浅黒い肌。

 野太い声も鋭い瞳もおっかないが、一番胸騒ぎがするのは、額にある向こう傷だった。


 気づいたときには見なかったふりをしようとしたのだが、その一瞬のあいだに生まれてしまった怖いもの見たさには勝てなかった。


 少年が、無遠慮に彼の顔を覗きこむ。

 短ランの男子は何事だろうという顔をしたものの、自分をじろじろ眺める少年に、迷惑がるでも怒るでもなく、その失礼さをあっさり許した。

 そんな静かで落ち着いた態度と、威圧的な外見は不釣り合いだった。


「そうだ、ごめんね。君の昼寝場所だったんでしょ、ここ。教室だから僕にも入る権利はあるだろうけど……僕のせいで起こしちゃった」

「別になんとも思ってねぇよ」


 対して少年は、色白で線も細かった。

 頭の上では、くしゃっとした黒髪が好き勝手に跳ねている。


「僕はね、ピアノを弾きに来たんだ。ここなら、誰にも会わなくてすむかなぁと思って」

「そりゃ残念だったな」

「あはは、ほんと」


 ここは廃棟なのだから、特別にどちらが部外者というわけでもなかった。

 少年は、短ランの男子を邪魔者扱いしているのではないし、短ランの男子もまた、少年を厄介者とも思っていない。

 目論見が外れた者同士の水の差し合いだったが、言うなればおあいこである。





「あのね。本当は、昨日弾くはずだったんだ」


 少年がぽつりと呟いた。


「でも一昨日、ちょっと怪我しちゃって。寝てるあいだにすっごい時間経ってて、目が覚めたら、予定の時間、過ぎてた。……はぁ、昨日弾きたかったなぁ」


 短ランの男子は黙って聞いている。


「あ、そうだ……っ」


 突然立ち上がると、少年は慌てた様子でグランドピアノに駆け寄った。


「ごめんね、八つ当たりしちゃって。痛かったでしょ、ごめん」


 そして、ピアノに話しかけていた。



 すまなそうな顔で一生懸命グランドピアノをさすっては、こと切れたようにがっくりとうなだれ、ため息をつき、そしてまたピアノをさすりだす。少年はそんなことを繰り返している。


「……そういえば、昨日のピアノも、僕に弾かれるのを待ってただろうに……。可哀想なことしちゃったなぁ。はぁ……」

「ほかに使われる当てのないピアノなのか」


 壊れたぜんまい人形のような動きを見かねて、短ランの男子が近くの椅子までやってきた。


「え、ううん。コンクール用のピアノだから、いろんな人が弾いてるだろうね」

「……なら、別によくね? お前が弾かなくても」

「そんなことないよ、僕が弾いてあげなきゃ。可哀想だよ、その他大勢に弾かれただけなんて」

「……はぁ?」


 まるで、自分が弾くことがほかの誰の行為よりも価値のあることだと言っているように聞こえる。

 理解に苦しむ言い草に短ランの男子が眉をひそめていると、少年が熱い口調で言った。


「だって、崇高なる弾き手に愛されてこそのピアノでしょ? 僕以外に、あの子に真の喜びを与えられる存在なんて……それこそ存在しないさ」


 理解しがたいことそのままの主張だった。


「次のときまで我慢させちゃうなんて申し訳ないけど、泣かないで待っててくれればって思うんだ。……ああ、そう考えると君は運がいいね、今日僕に弾いてもらえたんだから。よしよし」

「……熱あるんじゃねぇの、お前」

「え、ないけど?」


 満面の笑みでピアノを撫ではじめ、いよいよ狂気じみてきた少年に、短ランの男子は話を合わせるのを諦めたようだった。


「ほかの奴が聞いたらキレるんじゃね」

「そうかなぁ。ぐうの音も出ないんじゃない? ほんとのことだから」

「大した自信家だな……」

「だって僕、ピアノめちゃくちゃ上手いもん」


 威張っているようにも、驕っているようにも見えなかった。

 少年は、純粋な自己肯定の中にいた。


「……お前、ダチいるのか?」

「君。──って言っとく」


 投げ掛けた質問は、少年の陶酔境を壊すだろうかと思ったが、返ってきた答えで短ランの男子にとうとう深いため息をつかせ、少年にはいたずら小僧のような笑顔を咲かせたのだった。





 キーンコーン、カーンコーン──。


 そのとき、チャイムが鳴った。


「あ、忘れてた。僕ら、授業サボってるんだった」


 罪悪感など微塵も感じていなさそうな少年の言い方である。


「君、次もサボる?」

「ああ」


 短ランの男子も平然と座ったままだった。


「じゃあさ、せっかくだから聴いてくれない? ──ようこそ、僕の特別リサイタルへ」


 少年が、仰々しくお辞儀をしてみせる。


「……お前、俺が断ってもどうせ弾く気だろ」

「え、うん」


 しれっと言ってのけた少年に、短ランの男子は降参とばかりに、気力の削がれぎみな拍手を捧げた。



「ラ・カンパネラ──って曲なんだけど、知ってるかな」

「さぁな。言われてもわかんねぇ」

「オッケー。……ちょっと調律が狂ってるけど、責めないでね。この子のせいじゃないから」

「は? 何?」

「ああ……えっと、みんながイメージするようなドレミファソラシドから、このピアノの音はちょっとズレちゃってるんだけど、大目に見てね?」

「なんで音がずれるんだ」

「ピアノ線がゆるんでるって言えばわかりやすいかなぁ。ちょっと待ってね……よいしょっ……と」


 少年はグランドピアノの右側から、ピアノの一番上に広がる漆黒の部分のふちに手をかけ、ゆっくりと持ち上げた。


 ピアノが一枚めくれた。

 そう思えるほどに、現れたのは、全体を覆うような大きくて重い蓋。

 初めに開けた、鍵盤を覆っていた黒い蓋とは別ものである。

 それは、巨大な蝶の羽ばたきを横から見ているような光景だった。


「おい」


 それまで椅子にどかっと座っていた短ランの男子だったが、このとき思わず少年の元へ行き、彼が蓋に支柱を立てるのに手を貸した。


「こんなことするなら言えよ」

「へ?」

「どう見ても重いだろ」

「……ありがとう。でもこれ、小学生も自分でやるやつなんだ。だから、大丈夫」


 胡散臭そうな顔で自分を見下ろす相手に、少年は頷いてみせた。


「ほんとだから」

「怪我、痛むんだろ」

「ピアノに触ってるときは、大丈夫」

「……そうかよ」

「……ふふっ」

「なんだ」

「ううん、なんでもない」


 信用がなく監視が必要なのか、根が優しく面倒見がよいのか。

 理由はどちらであっても、短ランの男子に心配されるのは、少年にとってとても気分がよかった。





「ちょうどいいや、そのまま見てて」


 短ランの男子をその場に残し、少年は鍵盤の前に立つと、


「いくよ」


 グランドピアノの中を指差した。


 ピアノの中には、一本一本長さの違う金属弦が、その長さが順々になるように張られている。

 弦の一端、ピアノを弾くために人間が陣取るほうには、弦の数の分たくさんのピンが打たれていて、ここで弦の張りを調節できる。


 短ランの男子が覗くと、そこにずらりと並ぶ銀色の金属弦が見えた。


「こっちでこうやって鍵盤を弾くと」


 少年が向こうでピアノの鍵盤を一つ押す。

 すると、フェルト製のハンマーがひょいと顔を出し、金属弦ことピアノ線の、ピンに近いところを、下から叩き上げた。


「そっちでピアノ線が打たれて音が出る」


 ポロン、と気の抜けた音がひとつ、生まれた。


「そのピアノ線は、調律っていうメンテナンスから時間が経ってくると、だんだんゆるんでくるわけ。それで、音がずれるように変わっていくの。それを僕らは調律が狂ってるって言うんだ。ギターとかのチューニングと同じかな?」

「……へぇ」

「このピアノ、さっき弾いて思ったんだけど、だいぶ音が変わっちゃってるんだ。僕もなるべく頑張るけど、完璧な音程は保証できなくって。だから、ちょっと変でも大目に見てね」



 話に一段落ついたようなので、短ランの男子は椅子に戻った。


「じゃ、弾くね。楽にして聞いてて。──あ、その前に」


 両の手を甲、平と一度ひっくり返す。汚れていないかどうかの確認だ。そうしながら、少年がつけ足した。


「今から弾く曲、題名の『ラ・カンパネラ』は、イタリア語で鐘って意味なんだ。フランツ・リストって作曲家が、一八三八年に作ったピアノ曲だよ」


 そして──


 ふわり。


 少年は、鍵盤に両手を乗せた。





 まるで、鍵盤のほうから喜んで彼の指に吸いつき、踊っているように見えた。

 彼の手は鍵盤を優しくなぞり、彼の指はその涼しげな表情からは想像できないくらいに、めまぐるしく手のひらの下で動いている。


 少年が「ラ・カンパネラ」と言ったその曲は、なるほど、鐘というタイトルにふさわしく、執拗に打たれる鍵盤が、小さく可憐な鐘から大きく荘厳な鐘まで余すところなく鳴らしてやろうという執念深さ──と、有言実行の精神力──を感じさせるようなものだった。





「どう?」


 ひときわしつこくピアノを鳴らし、流れるような手つきで鍵盤をさらった──と思ったら、少年がこちらを向いた。


「……終わりか」

「うん」


 短ランの男子は、ぺしぺしと拍手を送った。


「どうだった?」

「いいんじゃねぇの」

「……僕の演奏、君は好きじゃない?」

「いや。別に」

「下手だと思った……?」

「いや」


 少年が首をかしげる。


「……ねぇ、そのわりにはリアクション、薄くない?」


 畳み掛けるような催促を受け、男子は小さくため息を吐き、どうでもよさそうに目線を外す。


「泣く程なら無理すんなと思った──これでいいか」

「……どういう意味?」

「演奏に集中してほしけりゃ、怪我が治ってから弾くんだな。そんな痛々しそうに弾かれて、まともな感想言えってか?」


 怪訝そうに聞き返した少年は、一瞬、まばたきと呼吸を忘れたようになった。


「……そうだね。ちなみに君、ピアノを弾いたことは?」

「ねぇよ」

「……そっか。わかった。なるほどね」


 ふぅん……と意味深に頷くと、少年はすぐ笑顔に戻った。


「君の名前、聞いてもいい? 僕はね、音無おとなし背理はいり。名にし負うピアノ弾きだよ」


 唐突で尊大な自己紹介だが、短ランの男子はもう驚かないようだった。


「ツヅキ」


 短い返事だ。


「……それ名字? 下の名前は? フルネームで言ってよ」

綴季(つづき)真事(まこと)

「へぇ……いい名前」


 お目当ての答えを聞き出し、少年は満足げである。


「──あ、何年何組?」

「……二のG。お前、D組だろ」

「ええっ、なんでわかるの? ていうか、同い年? うそぉ」

「同じ学年の奴くらいわかるだろ普通」

「わかんないよ人数多いのに……。君の普通って、変」

「お前に言われたくねぇよ……」

「え、なんで?」


 ため息混じりな彼なりの悪口だったが、その真意は少年のところまで届かなかった。


「ま、いいや。よろしくね、ツヅキくん」

「おい……気持ち悪い呼び方すんな。マジでガキじゃねぇんだから」

「えー? じゃあ、マコト?」

「はぁ? なんでそうなるんだよ、馴れ馴れしいな」

「いいじゃない、友達なんだから。ピアノやってる人って基本、友達のこと下の名前で呼ぶんだよ。だからこれは僕の普通」


 少年が、大きな青あざのできている頬で、にぃっと笑った。



 五月十八日、月曜日。

 吹き送られてきた若葉の香りが、垂れたカーテンを揺らしている。


 ここは、廃校舎の四階にある音楽室。

 出会った二人は、高校二年生──。

~曲紹介~


「ラ・カンパネラ」

 正式名称「パガニーニによる超絶技巧練習曲 第3番 変イ短調 S.140-3」

 1838年、フランツ・リスト作曲のピアノ曲。

 通称「ラ・カンパネラ初版」、「パガ超」

 参照URL: https://youtu.be/xuK_jEWH_E0 (※楽譜付、機械音)

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