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溶ける真珠

 冒頭なのに重い、重すぎる! ということでボツに。気合が入りすぎました。ちなみにすでにある「カラマーゾフの恋」の書き直し版です。あちらは千草視点ですが、こちらは雪也視点です。

 高校の入学式で、藤田雪也は龍野千草を初めて見た。紅白の垂れ幕で囲まれたまだ肌寒い体育館にはたくさんの新入生がひしめき合いつつ整列していて、それを囲むようにして教師や保護者がそれぞれの席に座っている。千草は雪也と同じクラスの生徒たちの列にいた。丁度彼は彼女を斜め後ろから眺められる位置にいた。千草は背が低いわけでも高いわけでもなく、特別に美人というわけではない。けれど雪也は吸い込まれるように見入ってしまった。おかっぱの髪は全く染められておらず、つやつやと弾力のありそうな輝き方をしていた。それに、肌。彼女の肌はゼリーでできた皮膜に包まれているかのように透き通っていた。雪也が一番に連想したのは、真珠だった。真珠の透明感や湿り気のある輝きが、雪也の中で千草の肌と一致した。触りたい。雪也の心臓はおかしな鳴り方をした。心臓は勢いよく大きく膨らみ、次の瞬間にはよろけそうなくらい一気に血液を送り出しているように感じた。彼はそれを不愉快に思ったが、じきに心地よいと思った。これが初恋だと気づくのに、五日を要した。その間、彼は千草に話しかけることなく、彼女の髪の感触や肌のぬくもりを想像し、夢見がちな目つきや小さな赤い唇を繰り返し思い出した。

 千草は積極的な性格ではないらしいが、運動が好きらしく、バドミントン部に入った。雪也は中学時代と同じように美術部に入部した。しばらくして、茶道部にも入った。部長が美術部の先輩だったからだ。それに毎日行かなくてもいいという点も大きい。授業が終わると部活のために急いで教室を出ていく千草に、雪也はいつも声をかけそびれた。話をしてみたかった。けれど何を話していいかわからず、雪也はいつもため息をついて美術室に向かうのだった。

 雪也は身長が高くない。体も華奢だし近視で大きな眼鏡をかけている。女子には「かわいい」と言われるが、褒め言葉にはならない。彼が求めるのは力強い腕と筋張った頬で、今ある丸い大きな目も滑らかな顔の輪郭も必要ではなかった。これら「女の子みたいでかわいい」と女子に評価される部分は、いっそ捨ててしまいたいくらいだ。これでは千草も自分を相手にしないだろうと思うと暗澹とした気分になる。

 おまけに千草は同じクラスの冬人のことを気にしている。冬人は背が高く、男性的な美しさを備えた弓道部員だ。切れ上がった彫りの深い目で見つめられると、雪也ですらどきりとする。背筋の伸びた冬人が汗の匂いをさせながら歩いてきて、「雪也、お疲れ」と肩を叩くことがある。そういうとき、雪也は微かな劣等感を覚える。汗は力強さの象徴であるように思う。汗をかかない自分は弱い人間ではないかと考えたりする。実際、体力測定ではクラスでもかなり低い順位だった。

 雪也は教室で千草を見つめる。千草は冬人を見つめている。冬人は何も見ていない。強いて言えば窓の外を眺めている。教室には単調な数学教師の声が響く。因数分解は雪也にとっては習得が困難だ。冬人は易々とやり方を覚えた。恐らく今学期の定期試験では上位になるだろう。千草の真珠の頬を眺めながら雪也は考える。自分が冬人だったら千草の肌に触れる機会があるのだろうか? そして、すぐに情けない気持ちになる。


     *


「藤田君って、きれいな目だね。羨ましい」

 千草がはにかむ。雪也はどぎまぎしながら彼女のつるつるの頬を見つめた。顔が近い。もう少し近づけばキスだってできそうだ。けれど今は生徒で充満した教室にいるわけで、本当にそうするわけにはいかない。

 友人と一緒に弁当を広げてぱくついていただけだ。けれど近くで食べていた千草が彼女の友人と共にふとこちらを向き、笑いかけ、会話が始まり、いつの間にか一緒に食事していた。雪也の友人の加藤は千草の友人の由希と話をし、自然、雪也と千草は互いに照れながら話題を探した。なかなか目を合わせられない雪也の顔を覗き込み、千草はにっこり笑った。柔らかい笑顔に雪也は思わずまともに彼女の顔を見てしまった。それで、「きれいな目」だと褒められたのだ。雪也は急に自分の目が好きになった。

「龍野さんは、その」

 雪也は言いよどむ。言っていいのだろうか。言ってしまったら、君のことが好きだと告白するも同然であるように感じられる。けれど、千草の微笑みを見ていたらどうしても言いたくなって、雪也は早口で言った。

「肌、きれいだよね」

 言ってしまった。雪也はどきどきと心臓が鳴るのを感じながら千草を見た。千草は微笑みを強くした。

「そうかな」

 千草の反応に、雪也は拍子抜けした。よく言われることなのだろう。千草は慣れきった様子で謙遜したのだ。雪也にとって彼女の肌がどんなに特別であるか、わかっていないかのように。雪也は彼女の肌の美しさを言い立てて、触らせてもらえるよう頼み込みたいくらいだったのに。小春日和の暖かな教室の空気に溶け込みながら、千草の肌は透き通っていた。そんな肌を、千草は特に気にしていないように見えた。雪也はその肌に指先を埋めることもできそうにないと思え、少し悲しくなった。

「藤田君も肌きれいじゃない?」

 不意に、千草が雪也のほうに手を伸ばして手を握った。彼は心臓が跳ね上がりそうになった。加藤と由希が二人に注目していた。千草は手を軽く握ったまま雪也の手の甲を指先で撫で、

「つるつるだね。でもやっぱり男の子だ。柔らかくない」

 と言って手を離した。雪也はひどく動揺し、心の中で千草の手の感触を何度も思い出した。柔らかかった。しっとりと吸いつくような肌で、想像していた以上に特別だった。雪也はしばらく微かな笑みを浮かべるのが精一杯だったが、次第に口が滑らかになった。思えば浮かれていたのかもしれない。千草を笑わせることができて、嬉しかった。

 けれど、平気で雪也に触れた千草が、彼を特別視していないのは明らかだった。彼自身、それをわかっていた。


     *


 千草は本を読むのが好きらしい、と気づいたのは、仲良くなって数週間が過ぎたときだった。彼女は学校で本を読むことがないが、それは学校では友人と話をしたいからで、家ではかなりの量の本が私室に並んでいるし、近くの市立図書館にも頻繁に通っているらしかった。由希が言っていた。千草は本の虫なんだよ、と。

 昼食の時間に訊いてみた。加藤や由希を交え、千草と昼食を共にするのは当たり前のようになっていた。仲がいいのは加藤と由希で、二人は好意を寄せ合っているようだったが、雪也と千草もなかなかうまく行っていた。

「本、好きなんだ」

 雪也が訊くと、千草は照れたように笑った。それから自分の席に戻って何やらごそごそ探り、本を一冊持ってきて雪也に見せた。分厚い文庫本だった。

「『カラマーゾフの兄弟』読んでるんだ。面白いよ」

 あらすじを読んでみたが、何だか難しそうだった。雪也はふと冬人のことを思い出した。確か、いつかこの本を読んではいなかったか。

「またそういうごつい本を読んで。恋愛小説とか読めばいいのに」

 由希が弁当をつつきながら文句を言う。彼女は目のぱっちりしたツインテールの明るい少女だ。加藤が好きになるのもわかる。彼女はいつも輝いている。千草が密やかに微笑む横で、煌々と光を放っているのだ。千草は困ったようにへへへ、と笑い、

「女子力低いよね、わたし」

 と言った。雪也は、そんなことないのになあ、と思いながら二人の会話を聞く。千草は地味な雰囲気ながらきちんと手入れされた感じのする少女らしい少女だ。切り揃えられた髪も、形のいい爪も、奥二重の優しい目も、少女であるという印象を雪也に強く与える。見ていると、とろけそうになる。彼女の読む難しい本も、読んでみようかと思う。

「藤田君、これどう思う?」

 いつの間にか由希と千草の会話は転換したらしい。千草は雪也の前に携帯電話を突き出した。見ると、見覚えのある画像だった。絵画だ。確か、ジョルジュ・デ・キリコの「愛の歌」。四角い建物と彫像の首と赤い手袋が縮尺も無茶苦茶に配置された絵で、色合いが印象的なものだ。彼は美術部なだけあって、画集を見るのは好きだった。それで見たことがあったのだ。

「へえ、キリコ好きなんだ」

 雪也が言うと、千草は嬉しそうにぱっと笑った。光が強く射したような笑い方だった。

「藤田君、キリコ知ってるの?」

「うん」

 雪也は自分まで嬉しくなりながら照れ笑いをした。加藤がにやにやと笑って彼を見ている。彼の気持ちを知っている加藤は、二人の関係が進展するのをいつも面白そうに見ている。雪也と同じく小柄な彼だが、フクロウのようなつぶらな目とちょこんとした鼻が賢そうで、いつも何か見抜いている感じがする。雪也は彼の視線を振り切り、

「おれもキリコ好きだよ。龍野さんは何にでも興味があるんだね。何か、冬人に似てる」

 と言い、すぐにしまったと思った。冬人の名前を出すのではなかった。千草は頬を染めて目を輝かせ、

「本当?」

 と訊いた。雪也はその反応に失望しつつ、うなずく。

「冬人は中学は違ったけど友達なんだ。いっつも難しい本を読んでてさ、確か龍野さんが読んでた本も読んでたはずだよ」

 口がぺちゃくちゃとしゃべるのをとめられない。千草は冬人を気にしている。それなのにこんなことを言ってしまう自分を馬鹿だと思った。千草は楽しそうにそれを聞き、ほう、とため息をついた。

「へえ。藤田君は志村君と仲がいいんだ。わたしも仲良くなりたい」

 ずん、と心が重くなった。雪也は笑顔を保ったまま、

「おれ、そんなに冬人と仲良くないよ」

 と答えた。実際、仲はよくない。二人の間には壁がある。それは高校で同じクラスになってからより一層感じる。

 けれど二人は互いを意識する。意識せざるを得ないのだ。

 雪也は冬人のほうを見た。彼は仲間たちと一緒にパンをかじり、物静かに笑っていた。騒ぐことは少ないが、彼は恐ろしく目立つ。背が高くて不思議な雰囲気があるからだ。陰のある、とも言うべき彼の雰囲気は、ひどく女子を惹きつける。千草もそんな女子の一人のようで、雪也は少し残念に思う。

「志村君っていつもパンだね。お弁当作ってもらえないのかな」

 千草が雪也の視線を追い、そうつぶやいた。途端に雪也は胸が苦しくなる。慌てて話題を変える。

「龍野さんのお弁当は誰が作ってるの?」

 千草はにっこりと笑う。

「びっくりすると思うよ。あのね、おじいちゃん。毎日作ってくれるんだ」

 それから、千草は祖父のことを話し出した。料理が得意な祖父は、定年退職して以来毎日ご飯や弁当を作ってくれるらしい。ただ、彼女は祖父に不満があるようだ。

「おじいちゃん、わたしが本を読むのが嫌なんだって。賢しらな女は結婚できないっていつも言うんだよ」

 彼女は愛されて育ったらしい。不満と言えばそれくらいなのだ。雪也は冬人のことを思った。それから、同情してしまう自分を封じた。冬人は雪也に同情されるのが大嫌いだ。わかっているけれど、ついそういう気持ちが生まれる。

 ふと見ると、雪也はこちらを見ている冬人を発見した。彼の目は細められ、雪也を見ているようにも千草を見ているようにも見えた。嫌な感じがして、雪也は目を逸らした。


     *


 雪也は「カラマーゾフの兄弟」を読み始めた。上中下巻の上巻はひどく入り込みにくく、彼はこれを面白いと言う千草に呆れながらページをめくった。しかし、中巻から俄然面白くなった。彼は夢中で読んだ。そして、愕然とした。自分と冬人のことが書かれている、と思ったのだ。「カラマーゾフの兄弟」には三人の兄弟と私生児スメルジャコフが出てくる。彼らに自分と冬人が重なるように思えた。

 続きが気になり、学校にも「カラマーゾフの兄弟」を持ち込んで読んだ。

 同じ内容なのに純愛にしようと頑張りすぎて続けられなくなったので、もう少し自分のできる範囲に収めた作品に作り替えようと思います。2017.1.1

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