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坂を上がる途中で、内緒話でもするかのように未春がこそっと囁いた。
「ね。綺麗な人だったね。ワンピース型の制服も大人っぽくて可愛いし、ますます憧れちゃうなあ。ね、ね、一葉ちゃんもここ受けたくなったでしょ?」
「確かに綺麗な人だったし、制服も思っていたより良かったけど……未春ほどの熱意はないかな」
その言葉に未春が残念そうに呻くが一葉は聞こえないふりをした。
中学三年生になり、志望校というものを意識し始めた頃から、未春はこの学校のことを頻繁に口にし始めた。何でも、二年生のときに両親と見たという演劇部の文化祭ステージですっかり虜となっていたそうで、隙あらば“二人一緒に受験しようよ”などと一葉を誘い続けていたが、一葉もまた興味のない分野にはとことん関心を示せない人間の為、今日まで受け流していたのだった。それに、自宅から電車を二度乗り換えなくてはならない距離にあるこの学校に毎日通おうと思えるほど、一葉の中に未春ほどの熱意はなかったし、近所に徒歩五分で行ける高校があったため、特にこれといったこだわりもない自分はそちらで十分だと思っていた。……演劇部の舞台を、その人を、今日この目で実際に見るまでは。
「間に合ったっ……!」
そうして二人が講堂に到着したのは開演二分前というぎりぎりの時間だった。
講堂内はまるでコンサートホールのように天井が高く、学校の施設とは思えないくらいの立派な造りで、ふかふかの赤色の座席はさながら劇場のように座り心地が良い。客席はほぼ満員で、端っこに二席偶然空いていたところへ滑り込むようにして腰を落ち着けると同時に、照明が暗くなった。二人して、ほっと安堵のため息を吐く。
クラシックの軽快な音楽が流れ始めるのを合図に、ステージの幕が上がっていく。興奮したように目をまん丸に見開き祈るように手を握った未春の横顔に一葉は口元を弛めた。その瞬間。静かな熱気と興奮が渦巻く中、突如、トランペットの独奏が場内に響き渡った。一葉は思わず弾かれるように舞台を見た。
「わあ……っ!」
隣で未春が歓声を漏らす。
「一葉ちゃん。あの人っ。あの人が、伊吹先輩!二年生なのに主役をやっちゃうくらい演技がうまくて、顔もかっこよくて、とにかくすごい人気の人なんだよ」
声を押し殺して未春が興奮したようにまくし立てる。
一葉は、舞台上に立ち、一身にスポットライトを浴びる、すらりと背の高い痩身で男装に身を包んだ女性を食い入るように見つめた。その姿を視界に入れた瞬間から、まるで魅入られたように目が離せない。舞台上を自由に闊歩する、堂々たるその姿は女性が男性を表現する際の特有の儚さと線の細さが見て取れ、男性にさほど免疫のない一葉を夢中にさせた。凛とよく響く柔らかな低い声とは反対に目尻の上がった、冷ややかで挑発的な眼差し。一葉はごくり、と生唾を呑み込んだ。
“こんな女の人、見たことがない……!“
想像していたお粗末な舞台とはかけ離れた目の前のそれに、一葉は何とも複雑な、しかしこれ以上ないくらい分かり易い感情を抱いた。