寂寞のユートピア
ここは静かな場所。
ここは静寂が支配する都市。
ここは寂寞な世界。
ちがう、ここにも音はある。
ちがう、ここには機関の駆動音があるだけ。
ちがう、ここは■の世界。
この都市は山の頂上にある、白い天蓋に包まれた街。
正確な人口はわからないがたくさん。
けれどもすごく静かな世界。
この街には大きな通りが二つあり、その二つが交差する場所は本当にたくさんの人がいて、私の背丈では人の森に迷い込んだと錯覚してしまうほどたくさん。
けれども、それだけたくさんの人が行き交うのに誰もぶつかったりしない。雑踏というものはこの場所にはなく、音がずれることが無くみんな敷かれたレールを走る貨物車みたいに規則正しい。オルゴールのように乱れることのない音はとても綺麗でとても不気味なモノだと後に知った。
この都市は誰かに支配されている――いや管理されている。それも後に知った。
この都市は生まれてから死ぬまですべてを管理者に決められている。生まれる場所も親も仕事場もすべてである。もっとも大きいのはこの都市には教育というものはなく、生体カプセルから排出され、生まれたその時から全18年にも及ぶ自動学習装置による知識の上書き作業。ただそれだけが唯一の知識を得る機会。
その学習内容は真っ先に疑問という認識を抹消することだという。疑問というものは思考活動そのものだで、それを抹消された人は工場に並ぶ作業機械と変わらない、ただ規則的に排煙を吹き出す機関と何ら変わらない。そう、この都市の教育は生身の機械人形を生産する作業のことを指す。
思考能力のないから決められたことを、規定されたことを、ただひたすら従順にこなす人間達が溢れる都市。
この都市はもともと高さ3万二千フィート以上、その頂上は直径約3マイルの歪な楕円形のカルデラとなっており、この都市その上に建設された。通常あり得ない規模のカルデラ地形であり、遥か前の古代人や宇宙人が作った人造火山とも、過去の大地震が原因で隆起した火山ともいわれているが詳細はわかっていない。地域に残る伝説では神々が天から降りてくるための階段だと言われている。それも後で知った。
話を戻そう。
この都市に無駄な物はない。無駄な時間、無駄な人材、無駄な資材。ありとあらゆるモノが決定された工程を進む。
この都市に無意味な物はない。無意味な時間、無意味な人材、無意味な資材。ありとあらゆるモノが決定された過程を進む。
ネジ一本。それこそ虫眼鏡どころか顕微鏡で見なければわからないような極小のネジでさえ製造から廃棄されるまで時間がコンマ一秒単位まで決められている。使う回数も、頻度も、すべては決められている。たとえ粗悪品が混じっていても即座に入れ替えられるだけで何も変わらない。
では、いったい誰がそれを決めているのか?
いったい誰がそれらを計算し、配置しているのか?
そもそも、それは、人なのか?
疑問。疑問。疑問。
今でこそ当たり前に思い浮かぶ疑問という思考活動。人として当たり前の、違う、生物として当たり前の活動。脳の神経が、細胞が、それらを動かす栄養素が、すべてが生物としての当たり前をしている。今思えばあの都市は異様で、異常で、狂逸だ。
そう、狂っていたのだ。あの都市は狂っていたのだ。元来都市とは人のため造られる物なのに、人々が豊かな生活をするための場所なのに、あの都市にはそれがない。この都市にとって人は部品だった。それこそ先程例に出したネジと同じなのだ。
そんな狂った都市に私は生を受けて、周りの同じように生活……いや、稼働していた。
そんな中、あるイレギュラーが私を襲う。アレは今から一年も前の話だ。私がその日の高等自動学習を終えて自宅に帰投している時、急に、初めて一瞬あるかないかの浮遊感を感じたのは。そして、その一瞬が過ぎればあとは落ちるだけだ。落ちている間自分の今の現状を何処か冷静に分析していれたのは一秒もなかっただろう。私は途中にある管や配線の束などに体のあちこちを打ち付けた。初めて感じる痛み、初めて感じる熱、初めて感じる感情、初めて感じた疑問。
そう、疑問。その時は『なぜ?』などと言う単語は知らず、ただ脳内で意味の分からない感情を持て余しながらも現状がどうなっているか把握しようと必死だったんだろう。その無意味にとれる思考ともいえぬパニックは途中で途切れる。
終着。落ちるところまで落ちたのだ。どれくらいの高さから落ちたのかわからない、どれくらいの時間落ちていたのかもわからない。そもそも落ちる軌道も速度も一定ではなかったのだら時間がわかったところで意味がない。
私の落ちた場所は横幅が約1.5ヤード、高さが2ヤード程の通路の途中とおもわれる場所だ。周りには大小様々な配管と機関の点滅する僅かな光源があるだけの薄暗く、暑苦しい場所だ。その時の私はこの初めての場所でどういう行動をとればいいかわからず、その場を右往左往して無駄な時間を過ごした。どれくらいの時間が過ぎたかわからないが冷静になれる機会が到来した。
それは空腹だ。これも初めて感じた”モノ”だった。それまでは決まった時間に、決まった水と食料を摂取していたので空腹を感じることはなかった。だからはじめこの空腹という生理現象を理解するのに時間を要した。そして、はじめてここに落ちてそれなりの時間が経っていたことに気づいた。
しかし、この少しの冷静が私の心を軋ませる。ここに来て過ぎ去った時間、その間誰とも会っていなく、空腹とここの圧迫感、それらすべてが私の心を攻め立てる。そして疑問が不安に変わると全身から先程までとは比べ物にならないくらい汗が吹き出し、涙で視界が滲み、口を大きく開けて泣き叫んだ。鼻水と涙で口の中がしょっぱさを感じ、なにも考えることが出来なくなり、どういうわけか私は自然と前へ走り出した。
走り出してどれだけ経ったかわからなかったが、走っている間も体のあちこちを壁や天井に打ち付けながら走り続けた。結果次第に体力はなくなり、足をもつれさせて派手に転んで壁にぶつかった。
その時の私は指先を動かす体力すらなく、気力もなく、意志さえもなくなって、次第に目蓋を開けておくことさえ出来なくなっていった。
重かった。いつは平然と、普通に開けておくことに意識を割くことさえしなかった目蓋が、今は開けておくが困難になっていった。
疑問。
このまま目を瞑ったらどうなるだろうか?
疑問。
次に目を覚ましたら見知った部屋にいるだろうか?
疑問。疑問。疑問。今思えば、あの時、はじめて人間として正常な思考回路を行使していたけれども、あの時ほどその思考回路を呪ったことはないだろう。それほどまでにあの時は嫌な想像しか思い浮かばなく、あの時ほど寂しく、冷たく、怖かったことはないだろうから。
そして、私はその恐ろしい思考と寂しさから目を背けるために、意識と思考に蓋をするために目を閉るその寸前。
「|《なんだお前は?》」
何かが聞こえた、聞こえたけど、その声のする方に目を向けることもできないまま私の意識は闇に落ちた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
目に強い光を感じる。その強い光を手で遮ろうとすると腕に、いや、全身に激痛が走る。
「!? ――――――――――――!」
余りの激痛に声にならない悲鳴を上げる。痛みがある程度治まり、少しの痛みを我慢しつつ辺りを見渡す。
見たことのない部屋、見たことのない天井。
そして、見たことのない人物が私の傍にいた。
「気が付いたか」
「…………あ……ぁ……なた…………?」
声がうまく出なかった。声を出そうとする度に痛みが体中を走る。喉が、肺が、口の中が痛い。
改めて自分の体を見ると、身体のあちこちに包帯がまかれていて、ところどころ赤いものが滲んでいた。
「無理をするな。その体では喋るのも辛いだろう。あと何日かすれば快復するからその時質問に答えてやる。それまで静かに寝ていろ」
そういうとその人は私の枕もとの小さい機関灯をつけて部屋を暗くするとそのまま出て行った。
後にこの人が私にこの街のすべてを、この街の真実を、その世界のことを教えてくれるとても残酷で、とても優しい人。
この時、残された私は枕もとの小さな機関灯に照らされた天井を見ながら考えた。
――あれから何時間? いや、何日過ぎただろうか? あの人は誰だろうか? 上に、地上に戻れるだろうか?
そういった疑問はいくらでも出てくるが、思考を切り替え、今この場においてやれることを考えることにした。。
――まずは身体、腕、痛い、ダメだ。脚、痛い、ダメだ。首、動ける。声、痛むし掠れてダメだ。
結果は見事に五体のほぼすべてが故障している。しかし一応は適切に処理されているらしく、部屋や布、包帯に至るまで清潔で、空調も涼しいまではいかなくても暑くなく寒くもない丁度いいくらいだ。確かにこのまま何日か休めば快復はするだろう。が、その間私は仕事を放棄したことになる、いや違う、すでに放棄しているのだ。
その結果は不良品の烙印を押されて《収容所》に送られる。
そこで、気付いて、しまった。
――収容所とは何?
収容所、意味としては特定の目的で人や動物を収容しておく施設を指す。
では、なんの目的で人を収容するのか?
では、収容された人はその後どうなるのか?
――知らない。そもそも考えたことさえない。
想像力を働かせてみる。収容、つまり集めるのだから再度調整された後、その個体に適当な場所へ送るための場所。
想像力を働かせてみる。収容、他に思いつくことは”廃棄”くらい……廃棄、それは私たちが良くやる仕事。規格部外品、不良品、経年劣化による交換。
――それを人に当て填める。填めていいの? いや、でも、人は都市の運営のために労働する。だから、都市の為にならないのなら存在価値はないのではないだろうか?
――ならば、人と部品の差はなんだろうか? そもそも差があるのだろうか? わからない。でも、もしも、今私が街に帰還した場合は……たとえ体になんの傷がなくても収容所に送られるのではないだろうか?
――そして、私は……どうなるんだろうか?
背中に汗が滲んでくる。言いようのない感情が全身を駆け巡る。私は動こうともがき始める。体中に痛みが走るがそんなのは気にならない。そんなモノが走っていようと気付かないほど暴れまわりベットから派手な音を立てながら落ちた。
部屋の外から足音が聞こえてきて、扉が乱暴に開かれると先の人が私に駆け寄り、無言で私をベットに戻しシーツをかけるとまた部屋の外に出ようとする。私は無意識にその人の手を掴んだ。
手を掴まれた人は私の手を振りほどこうとはせず、自由になる足を精一杯延ばして近くの椅子に引っ掛けて引き寄せ無言で座る。
そして、私の胸の上に手を置くと、一定のリズムでポンポンと優しく叩きながら聞いたことのない独り言を言い始めた。それは、私が初めて聞いた《歌》だった。それも後で知った。
その歌が妙に心地よく、あれほど感じた言いようのない感情、それがなくなっていた。それどころか痛みまで和らいでいて、それまでの様々なモノから解放されて安心したのかそのまま寝てしまった。あの言いようのない感情を不安というのも後で知った。
それからと言うとその人は常に私の傍にいてくれた。食事も、排泄の手伝いも、体を清潔にしてくれたりと至れり尽くせりで、こんな経験は初めてだった。
いや、こんなにも人に触れられたこと自体が初めてで、こんなに大変なことを無言でこなすこの人に興味が湧いて、こんなにも暖かな気持ちになったのが初めてで、なぜか途中から涙が溢れてきた。
そんな私にこの人はまた無言で、そっとぬるま湯を湿らせたタオルで優しく拭いてくれる。
そんな日が二・三日が過ぎる。その頃には喋るのに痛みを伴うことがなくなっていたので、いままで溜まっていた疑問を問いかけてみる。
「ねえ。ここはどこなの?」
「ここは都市の地下だよ。正確には都市から200フィート下にある都市開発計画の時に緊急時の避難目的に造られた余剰空間だ」
「余剰空間。そんなの聞いたこともない。それにエネルギーはどうしているの?」
「ここは元々避難用にある場所だ。だから燃料の貯蓄は多いから人一人分なら贅沢に使っても三百年、都市の人口全てなら節約すれば五十年は持つくらいはある持つ計算だ。それに都市とは別管轄のモノだから都市から感知されない。だから誰も来ないんだ」
――都市の地下空間。聞いたこともないそれを平然と答え、知っていなかったそれを当然のように使用するこの人はいったい何者なのか?
疑問、疑問、また疑問。
考えても、聞いても、応えてもらっても尽きることのない疑問。
《人》として当然のことだけど、それでも、ここまでくると何を信じて何を根拠にすればいいかわからない。
わからない。今まで感じたことのない感情、都市では決められたことを決められたようにするだけで何ら問題はなかった。仮に突然の故障しても専門の人たちが来てすぐ解決する。自分たちはその間他の作業をするだけだ。
しかし、ここにはこの感情を解消してくれる専門の人はおらず、原因も解決法も自分でしなければならない。
あの人も疑問に答えてくれるだけで、これからどうしたらいいか聞いても『自分で考えろ』としか言ってくれない。
だから、考えた。考えた結果、私は、
「そうか、上に戻るか」
この人はそっけなく言う。その間も手を握ってくれる。優しく、暖かく、包み込むように。
「はい。あなたのおかげで身体はほぼ快復しましたし、明日? というには時間感覚はおぼろげですが都市に戻ろうかと思います。いままでお世話になりました。
――それで、あの、最後に二つほどお願いが」
「ああ、わかっている。上に行くための道順とそれに必要な道具が欲しいのだな」
「はい。それでお願いできますか?」
一瞬、ほんの一瞬。私の手を握る手が強張り、強く握られた。
僅かに痛みが走るがそれもほんの一瞬に過ぎず、気のせいと思い流す。
でも、それが気のせいではないと後で知った。
あの人はその後口を開かず、私が寝ている間に地図と食料を持たしてくれた。
曰く、地図通りに歩けば一日くらいで都市に着くらしく、そのための食料を最低限とあと一つ、
「これは何ですか?」
この人が渡してくれたのを私はマジマジと眺める。それは見たことのない物で、何ら機能らしきものが備わっているようには思えない物だった。
小さな物だった。それはそれはとても小さな物だった。
でも、とてもとてもきれいな物だった。
「それはペンダントだ」
「ペンダント?」
「装飾品だ。わかるか?」
「わかりません。これが何の役に立つんですか?」
この時私は、これが、これに、どれだけの思いが詰まっているかわからなかった。知らなかった。知ろうとも思わなかった。
その時の私には、自分の周りにあるモノは役に立つか立たないかの二択しかなかった。いや、あの人と会ってから少しずつその認識はズレて、壊れて、意味をなさなくなっていったが、それは今ほどではなくほんの誤差程度でしかなかった。
そんなペンダントを上に下に右に左に観察する私にあの人は近寄ってきてペンダントを取り上げたかと思うと、私の後ろに回り付けてくれた。
そして、近くに置いてあった鑑を私に見せる。
「――ほら、似合ってる」
あの人はにっこりと笑顔になる。それは、この短い間で初めて見た笑顔だった。
私はというと、ペンダントを付けた自分を見て『似合ってる』と言われて少々困惑している。そもそも似合ってるという意味が分からなかった。
私の言葉を聞いたあの人は少し寂しい顔をしていた。
その後、私を見送ったあと私は一度だけ振り返る。しかし、そこにあの人の姿はなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
私は都市にたどり着いた。
そこから私は管理局に言って生存の報告と次の仕事はないかと問い合わせに行った。私がいなかった間の仕事の遅れを取り戻し、この都市に貢献しなければと奮起した。
しかし、その考え自体が致命的に間違っていた。
管理局の受付で待っていると局員が私に別室で待つように言われる。そのまま何分か待つと黒い機関人形が現れた。
機関人形は私の向かいに立つと排気音交じりの合成音声で質問をしてくる。
「アナタハ今日マデ何処ニイマシタカ?」
「私はこの都市の地下にある避難用区画にいました」
「ナゼソコにイタノデスカ?」
「あの日次の作業場に行く途中に地面が急に抜け落ちたからです」
「最後ニ、|アナタハナゼ戻ってコレタノデスカ《・・・・・・・・・・・・・・・・》?」
「え?」
その時、私は、なぜここに呼ばれたかわからずにいたし、この質問の意味もわからなかった。
「モウ一度聞キキマス。アナタハナゼ戻ってコレタノデスカ?」
「私は――」
私はこの時、あの人の事を言えなかった。もしも言ってしまえばあの人は不法滞在者としてどういった措置をとられるかわからないからだ。この街に法はあれど罰則はない。なぜなら誰も違法行為をしないからだ。
でも、それは表立っては、の話だ。
実際にはこの都市の異常性に気づき、変えようとした人たちは皆消えた。違う、消された。それも後で知った。
そして、私もこの後には消されることになっていることを、その時は知らず、気付かずにいた。
「ワカリマシタ。話ハ終リデス」
「待って! 私は――」
私は機関人形を引き留めようと立ち上がる。
その刹那、四肢に力が入らなくなり私は床に崩れ落ちる。床に体を打ち付けられ痛むのに、ほんの小さな悲鳴さえ上げることさえ出来ずに意識が薄れていく。
――体に力が入らない。私はまだ言いたいことが……でも、ここで引き留めたからといって何を言いうの? 何を――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ガタン。
ガタン。
ガタン。
ベルトコンベヤーのうねる音が、ガタガタと揺れる振動と硬質な感触が、肌に障る熱気が私を覚醒させる。ふと目が覚めるとすぐに鼻腔を刺激するのはゴムと、……なにか不愉快で忌避感のする臭い。どうやら私はベルトコンベヤーの上に乗せられているようだ。
――ベルトコンベヤー? なんで、そんなのに乗せ…………え?
辺りを見渡す私の眼下に広がっているのは紅い水。粘土の高い紅い水が分厚い釜でぐつぐつと煮えているように見える。
――これ、もしかして溶鉱炉――?
溶鉱炉、一般的には鉄鉱石などの鉱石から特定の物質を取り出すための炉。しかし、この溶鉱炉は字こそ溶鉱と名打っているが、これが溶かし、抽出するのは鉄鉱石などの鉱石ではない。
これは、この溶鉱炉は人を溶かす釜なのだ。人を溶かし、その中にある鉄や炭素などを抽出する釜。それも後で知った。ちがう、知りたくなかった。
私は稼働し続けるベルトコンベヤーを逆走する。しかし、足元をよく見なかったせいで何かに躓いてしまった。
躓いたモノを見ると、それは物ではく、人だった。息をしていない人だった。
私はその人を必死に揺すった。声はうまく出なかったけど必死に呼びかけた。
でも、その人は反応してくれなかった。
そして、とても冷たかった。
あの人の暖かさとは正反対の冷たさ。私はその冷たさを実感した途端、酷い吐き気に襲われた。我慢なんてできな程強い吐き気。
私はその場で吐いてしまった。急いで逃げなければならないのに、その場にうずくまって胃の中の物をありったけ吐いている。吐く物が無くなっても、胃液さえ吐けなくなっても動けない。
手も足も動けず、目に涙が溜まって視界がぼやけて、喉が痙攣して息が出来ない。
――なに? なんであの人はこんなに冷たいの? なんであの人は何の反応もしてくれないの? ここはどこなの?
思考が乱れる。
思考がまとまらない。
思考が出来ない。
その間もベルトコンベヤーの動きは止まらない。止まってくれない。
あと、十秒もしないうちに私は地獄の釜に落ちるだろう。
しかし、その時の私はその十秒後の未来を想像することさえ出来ずに、何もできずにうずくまっていた。そして、ついにその時が来た。私は万有引力に、重力に従い釜へと落ちていく。数舜あとには私はこの都市を円滑に回すための燃料になり、消費され、忘れられただろう。
違う、この都市に私の事を覚えてくれている人は誰もいない。都市の中枢が記録しているだけだろう。
でも、私にその十秒後が訪れることはなかった。
下に向かう抗えない落下感が突然、”何か”が私を抱えて落下を阻止た。
私は自分を誰が抱えているかを確認することなく、出来ることなく意識が、闇に落ちた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
再び私の意識が浮上した時、見覚えのある天井と、あの人はいた。
あの人は私が覚醒したのを確認すると『もう少し待ってろ、そしたろ事情を話す』と、だけ言って、すぐに忙しなく別の作業に入った。
だが、その少しは永遠に訪れることはなかった。
大きな音がしたのだ。大気を、鼓膜を大きく震わせる音が部屋に響いた。
その音に私は怯んだが、あの人は舌打ちをするとあの人は私を抱えて走り出した。
私たちが走った後音を遮るように閉まるシャッター、その間も音はそれらの障害を食い破り私たちを追うようにどんどん近づいてくる。
私の耳目にあるのは、暗い通路、あの人の走る音。
追ってくる破砕音。
逃げる。
逃げる。
逃げる。
ひたすらに逃げる私たちに、追いかけてくる音。
その二つが延々と繰り返され、いつ音が私たちに追いつくか、そう思うと呼吸が苦しくなる。
しかし、その逃走劇は終わった。
いや、あの人にとっての終点か、違う、出発点だ。
そこには13フィートほどの黒い球体が鎮座していた。
あの人は私を適当な所に下ろすと、近くの機会をいじりだした。
「お前は今からこれに乗り込んでここから脱出しろ」
「あの! 私」
「いいから黙って聞け」
あの人はそれまでの物静か(少なくとも当時の私は最初はそう思っていた)な雰囲気が嘘のように怒鳴っる。その間も作業を止めることなく、私に振り向きもせず、私のことはお構いなしに喋りだした。
「いいか、ここの連中は……いや違う。この都市はお前を異物と判断しこの居場所を突き止めた。
ここから脱出しなければ即座に殺されるか、なぜこの結果に行きついた思考を”解明”するとか言ってケースに押し込められるか、それらをお構いなし燃料にされるかのどれかだ。
そうなるのが嫌ならじっとしていろ。すぐに出れる」
「そうじゃないの、私の疑問はそんなことじゃないの。
|なぜ私を助けてれたの?《・・・・・・・・・・・》」
「……………………どうだっていいだろう」
「よくないよ!」
私は縋りつく、初めて、いや二度目かもしれない。
その時はわからなかったがこの人からは嗅いだことのない臭いが、重い油と口にくわえた物から漂う煙の臭いに鼻につきます。その臭いはこの人が何年もここでこの球体を整備していたということ、この都市を脱出するための物と言うことがわかり、いったいこの人は何者なのかわからなくなってきた。
「ねえ教えて! なんで!」
この時の私は他に出来ることが思いつかず、他に出来ることを考えもせず、何も出来なかった。
「………ああ! うっとしい! 似てるの見た目だけだな!」
黙々と作業も続けらながらも私を振り払おうとせず、視線や体の向きも変えずに声だけ荒げて私を制そうとする。
――今のって。
「……私が誰かに似ているから助けたの?」
「そうだよ! 悪いか!」
ダン! ダン!
扉が、重く硬い扉が激しく揺れる。すぐにでも壊されそうで心が潰れそう。今扉が壊された私たちはどうなるんだろうかを想像し出来ず私は頭を振る。
――やだ。やだ。■■■。
手が、足が、体が、心が震えて動けなかった。
「誰か――」
と、私の手をあの人が握ってくれた。
そしたらあれだけ震えていた手が、足が、体が、心の震えが止まった。
「――大丈夫。今は、俺がいる」
「今はって、じゃあ、今が過ぎたらどうなるんですか?」
「………………………」
あの人はそれっきり黙ってしまって、その間も扉が大きな振動と音を響かせていても文字通り片手間で作業を進める。
そして、遂に、その時が来た。
「よし。作業完了だ。
さあ乗れ――」
「え? 乗れって?」
ドガン!
扉がけたたましい音を伴って私たちの傍まで飛んできた。その刹那に何かが部屋に侵入してきたが、それらの足音が直前で別の音にかき消された。
私たちと侵入者たちの間に壁が出現し、上から無数の音が侵入者たちに降り注ぎ、その身を微塵に砕く。
だが、それでも進んでくる者もいた。その度に部屋に仕掛けられていた装置が発動して蹂躙していく。
それでも止まらない。それどころか侵入者たちは攻撃は初めてきた、自分たちの状態など全く考慮に入れず。
今思えばあれらは全て人ではなく機関人形だったんだろう。
「いいから乗れ! お前の知りたいことは中の本に載っている」
私の手を掴むと強引に乗せてきた。私は激しく抵抗するが、そんなのもお構いなしに押す。
「やだ! あなたも一緒に」
「バカ! これは見た目の大きさの割に一人用なんだよ! 俺が乗る余裕なんかないんだよ」
「でも!」
「でもじゃない!」
私はまた押し込まれるのを拒む、この時の私はまだ状況を把握、いや状況を受け入れようとはしなかったし、出来なかった。全てが流せるままに、押し流されていることに忌避感を覚え始めていたから。
何もかもが自分の外に出来事のように進み、その何もかもが自分をまきこみながら進むのが、そのくせ自分は蚊帳の外なのがたまらなく嫌で、何もかもが嫌になって、嫌で、
――嫌だ。みんな嫌だ。
「わがまま言うッ!」
あの人はいきなり自分のお腹を押さえ始めた。その抑えたところから赤い染みが広がってきた。それは上着をズボンを、床を紅く染め始めていた。
その赤い液体は、その赤い液体を、私は震えながら見下ろして、恐怖した。
「あの、その、血は――」
「ああ! くそが! お前が怒鳴らせるから傷が開いちまっただろうが!」
「あの、だから、血が――」
なおも私は止血するように言おうとする。そのままでは死んでしまいそうだから。
でも、
「うんなことはどうでもいいんだよ! さっさと乗れ! 俺にはな、もう時間がないんだよ! こんなのは宝の持ち腐れなんだよ!」
「もう……時間が…………な……い? それって……私のせ」
「違う! 俺の落ち度だ! いいから乗れ!」
私が血を見て虚脱している隙にあの人は私を球体の中に押し込んだ。
「まって! 私、まだ――」
私の言葉を遮るように球体の扉が閉まり、大きな音と共に外に向かって動き出した。
この時、私はあの人に何を言おうとしたか、私自身わからない。名前を聞こうとしたのか、他の事を聞こうとしたのか、それすらわからない。でも、確実にわかるのは、この時の私は不安で胸いっぱいで、何かに縋りつこうと必死だった。
そんな私の心境を知ってか知らずか、いや、たぶん知っていたし、わかっていたに違いない。
それでも私を送り出してくれたあの人は、
笑顔だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
それから、私が都市を脱出してから幾年が過ぎた。
あの球体はあらかじめルートが定まっていたらしく、山を下った後自動的に転がり続た。その間私はすることがなく中にあった本を読み漁っていた。もっとも、その本を読むまでに何日も無為に過ごしていた。
その中でわかったのはあの都市がもともとはこの空を覆う灰色から逃れるために作られたと言うこと、灰色を嫌ってあそこまで行って都市を作ったのに天井から空を望めない理由は空調管理にエネルギーを大きく割かれるから。
――本末転倒だね。
そして、あそこまで、あれだけ厳しく人が管理されている理由、それは下に落ちたくないから。
それは至極当然であり、それが目的であり、畢竟そこに行きついたが故の歪み。
あの都市のエネルギーは山の土そのものであり、必然掘り進めると都市も下に落ちる。
そのな簡単な事実に、最初に都市を創った人たちは気付いていたのか、気付いていながら無視していたのか、それとも楽観視していたのか、想像の域をでないが少なくとも彼らは下に、灰色の空よりしたにいるのを懼れた。
しかし人が、文明人が生きるにはエネルギーが必要で、文明の利器が必要で、どうしょうもなくなった彼らは都市のあらゆるものを管理し始めた。
人口を、
食を、
運動を、
排泄を、
交配を、
命を。
――そして、燃料として人を――
人にはたんぱく質やカルシウムの他に炭素や鉄など様々物質で構成されている。
そうしたものを効率よく、的確に摘出するすべを作り出した。
だが、結局はただの延命措置。いかに効率を上げようとも人からそう言ったのを取り出すくらいなら地面を掘っていた方が何倍も効率的だ。
しかし、彼らはやめない。やめられない。
重病の幼子を、年老いた老人を、大切な家族を、障害を持つ友人を、次々と燃料にした。
そうした事をしていく内に、そうした判断をする最高責任者は病んでいった。歴任した人は十年の内に十人以上、誰一人一年ももたなかった。
だから彼らは《神》を創った。
自分たちが判断しなくっても、自分たちが苦しむ判断を、自分たちを追い詰める判断を。
《神》と言う名の演算処理装置に委ねた。
彼らは神に縋った。縋った神に、無慈悲に燃料にされた。
《神》に感情はない、都市の運営に必要ない物は全て破棄される。正確には燃料か肥料。
徹底された管理はまず、第一世代、開拓世代の抹消。
その次の代からは自動学習装置による刷り込み。
それを完全に終える頃には今の都市になった。
そんな中あの人は地下に逃れ、脱出するために半世紀以上潜伏した。そもそもあの人が隠れることが出来た理由は隠し子だったからだ。あの人の母親は内密にあの人を産み育てた。それにより《神》は届かず、母親は命からがら我が子だけをなんとか地下に逃がすことが出来たのだ。
それから半世紀、あの人はひたすらに地下で息を潜めて脱出する機会を窺っていた。もしも、あのまま何事もなく時間が過ぎればあの人は一人、都市を脱出しただろう。
私さえ来なければ。
私が来てからあの人はあの球体の中を私の為に改装していった。それまで自分の為に用意してた物を全部運び出し、私に必要であろう物を片っ端から入れていった。
そうして準備が整ったころ私は”燃料”にされそうだった。あの人はあらかじめ用意していた監視網で私を発見して助け出した。たぶんあの傷はその時の物だ。
私を助け出したあの人は、あの人の計画は《神》に知られ、私ともども排除対象として認識された。
正直、あの人一人なら何の苦も無く脱出できたのに、それをしなかった理由は私があの人の母親に似ていたからではないかと思う。
あの人は悔いていたのだと思う、自分ひとりだけが生き残ったことを、母親を助けることが出来なかったことを、何も出来なかった自分を。
――その苦しみを今度は私に押し付けて。
今私はあの山を離れて南下している。もともと都市がある山は北方の極地にあり、人が住むには適さないのもあるが、私はあの地から逃げているのだ。
もちろん都市の者たちが追ってくることはない。あれらは都市の運営が絶対で、それ以外には何ら行動を起こすことはない。
それでも私は逃げる。辛い思い出を、辛い記憶を、辛い体験を思い出したくないから。
最後に、あの人からの手紙を発見した時、こんなことが書いてあった。
『もしも、いや、なんら目的、やってみたいこと、したいことが思いつかなかったら”空”を探してほしい。俺は、奴らがあれだけ灰色を嫌った理由が知りたいから。
これはただの我儘だ。従う義務はない。
でも、もしも、いや、俺にこんな事を願う権利はない。だから、俺の代わりに世界を楽しんでくれ。』
「はあ。まったく口下手だけでなく、文章も下手で。
こんなの見たらやるしかないじゃない」
そうして、私は空を目指す。
灰色に覆われていない空を。
どんな色をしているかわからない空を。
この作品は『灰界のディストピア』との関連性はありません。タブン。
正直いつもの如く何も考えずに書いたから今後はどうなるかわかりません。
では、短いですが皆様、良き青空を。