妹の結婚式のために、私の結婚式を延期しろと言われました
「コレット、あなたの結婚式を、秋まで延ばせないかしら」
母がそう言ったとき、私は招待状の最後の一通に封をしていた。蝋の上に押した印章を持ち上げると、二人で選んだ月桂樹の模様が現れる。少し曲がってしまったけれど、押し直せば封筒を傷める。宛名が母の姉だったので、これくらいなら笑って受け取ってくれるだろうと思った。
「秋、ですか」
「ジュリーたちに、この日を譲ってあげてほしいの」
私は印章を台に戻し、机の向こうに立つ母を見上げる。母は座らなかった。廊下へ続く扉も開いたままで、食事の時間を知らせに来たときと変わらない様子だった。
「妹の結婚式は、冬の予定でしょう」
「先方の赴任が早まったのよ。来月の半ばには王都を発つそうなの。あの子を一人で残すわけにもいかないし、出発前に結婚したいんですって」
それは、急な話だった。ジュリーは先週も、冬なら毛皮の縁取りをした外套を着られると喜んでいた。遠くへ行く前に夫婦になりたい気持ちは、私にもわかる。
「では、急いで礼拝堂を探さないと」
「だから、あなたたちの予約を使わせてもらえればと思って」
母の視線が机の上へ落ちた。招待状は、宛先ごとに小さな束に分けてある。伯母のものを重ねれば、明日の朝にはすべて発送できるはずだった。
「礼拝堂も、会食の広間も押さえてあるでしょう。花屋にも料理人にも頼んであるし、花嫁と花婿の名前を替えるだけで済むわ」
「名前を替えるだけ……」
「費用はこちらで持ちます。あなたたちが払った分も返すわ。お父様とも相談したのだけれど、それが一番、無駄がないと思うの」
窓から入った風で、封筒の隅が持ち上がった。私は文鎮を置き直す。私の名前の隣には、バスティアンの名前がある。印刷屋で見本を受け取った日、彼はそれをずいぶん長く眺めていた。
「私たちの式は、三週間後です」
「ええ。だから、招待状を出す前でよかったわ」
母が安心したように微笑む。私は返事をしようとして、口を閉じた。よかったことなのだろうか。私たちは半年前から、この日に結婚するつもりでいたのに。
「バスティアン様のお勤めは王都のままでしょう。あなたたちには、急ぐ事情がないもの。秋なら涼しくなるし、準備もゆっくりできるわよ」
「準備は、もうしています」
「それはそうでしょうけれど」
母の声に、少しだけ困った響きが混じった。話が長くなると思ったのだろう。開いた扉の向こうを一度見てから、私へ向き直る。
「コレット。ジュリーは、知らない土地へ嫁ぐのよ。せめて結婚式くらい、あの子の望む形で送り出してあげたいでしょう」
私も、その礼拝堂を望んだ。
白い大理石の大きな神殿ではなく、庭に面した小さな礼拝堂がいいと言ったのは私だ。参列者の顔が見えるくらいの場所で式を挙げたい。バスティアンは、それならここにしようと、窓の外で枝を揺らす木を見ながら頷いてくれた。
その話を母にもしていた。けれど今は、ジュリーのために便利な予約として数えられている。
「私一人では決められません」
「もちろん、バスティアン様にもお話ししてちょうだい。あの方は穏やかだから、わかってくださるでしょう」
「承諾したという意味ではありません」
母が、初めてはっきりと私を見た。私は机の下で膝を揃え直し、もう一度言う。
「今日は、お返事できません」
「……では、早めにお願いね。先方も待っていらっしゃるから」
母は出ていきかけて、扉のところで振り返った。
「その招待状は、まだ出さないでおいて」
足音が遠ざかっても、私は封筒から手を離せなかった。母の言うとおり、まだ誰にも発送していない。日付を変えて刷り直せば、届く人には何があったかわからないだろう。
机の引き出しには、書き損じた封筒が二枚ある。昨日、バスティアンが宛名を書きながら私と話して、伯父の名に自分の名を続けてしまったものだ。彼は真面目な顔で新しい封筒を取り、私はしばらく笑いが止まらなかった。
あの時間も、もう一度やり直せば済むのだろうか。
*
翌日の午後、バスティアンは大きな紙袋を抱えて訪ねてきた。
「二種類に絞れたそうだよ。今日こそ決めてほしいと言われた」
応接間の卓に並んだのは、小さく切り分けられた焼き菓子だった。片方には杏の蜜煮が入り、もう片方には胡桃が混ぜてある。披露宴で出す菓子を、私たちはまだ決められずにいた。
最初の試食で、彼は杏を選んだ。私は胡桃を選んだ。けれど互いの皿から一口ずつもらったあと、二人とも意見が変わってしまい、店主を困らせたのだ。
「僕はもう、両方でいいと思うんだけれど」
「お料理のあとでは、多すぎませんか」
「小さく切ればいい。今、切ってあるくらいに」
彼は袋からもう一つ、小さな包みを出した。昨日、店で新しく焼いたものだという。これ以上候補を増やしてどうするのかと笑いかけて、うまく声が出なかった。
バスティアンは包みを置き、私の顔を見る。
「何かあった?」
私は頷いた。侍女がお茶を置いて部屋の端へ下がるのを待ち、母から聞いた話を、順に伝える。ジュリーの婚約者の赴任が早まったこと。三週間後の礼拝堂と広間を、二人に譲ってほしいと言われたこと。私たちの式は、秋にすればいいと。
彼は途中で口を挟まなかった。ただ、菓子を取り分けようとしていた手を止め、最後まで聞いてから、皿を卓へ戻した。
「お母様には、なんて答えたの」
「私一人では決められないと」
「うん」
「あなたに相談してからでなければ、お返事はできないと伝えたわ」
バスティアンは背もたれから身を起こした。
「僕は、予定どおり結婚したい」
返事が早くて、私は顔を上げる。
「……困りますよね。ご親戚にも、日取りはお知らせしていますし」
「それもある。でも、まず僕が嫌だよ。あと三週間だと思って待っていたのに、秋まで待つのは」
彼が困ったように眉を寄せた。その顔を見て、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ動いた気がした。
「あなたも?」
「僕も、って。コレット、僕の結婚式でもあるんだけれど」
言われてみれば、そのとおりだった。けれど母の話を聞いてから、私の頭に浮かんだのは、彼や彼の家にどう説明すれば迷惑が少ないかということばかりだった。
「ごめんなさい。そうね」
「君はどうしたい?」
私は冷めないうちにと勧められたお茶へ手を伸ばし、飲まずに置いた。答えは昨日から変わっていない。でも、言えば母を困らせることになる。ジュリーが泣くかもしれない。そう考える癖が、言葉より先に出てくる。
「予定どおり、挙げたいです」
バスティアンが頷く。私は彼の目を見たまま、続けた。
「でも、お父様とお母様にも、来てほしいの」
彼はすぐには何も言わなかった。大丈夫だとか、きっとわかってくれるとか、私にも信じられないような慰めを口にしない。その代わり、卓の上に置かれた私の手へ、自分の手を重ねた。
「そうだね。来てほしいね」
私は唇を噛んだ。泣くほどのことではないと思っていた。結婚できなくなるわけではない。半年延ばすくらい、妹のためなら我慢できるはずだと、昨夜も何度か考えた。
「お母様、この前の衣装合わせには来られなかったでしょう」
「うん」
「ジュリーの外套を選びに行く約束をしていたから、って。次の仮縫いには来てくださると思っていたの。でも昨日、式ごと譲ってほしいと言われて……」
言い終える前に、涙が落ちた。手袋をしていなくてよかった。そう思ったところで、ますます情けなくなる。
バスティアンは自分のハンカチを差し出し、私が受け取るまで待った。
「私の支度も、楽しみにしていてほしかった」
声にすると、いっそう子供じみた願いに聞こえた。私はもう嫁ぐ年齢で、母に褒めてもらわなくても衣装くらい選べる。それでも、似合うと言ってほしかった。どんな花を持つのか、髪をどう結うのか、尋ねてもらいたかった。
「僕は、楽しみだよ」
バスティアンの指が、私の手を少し強く握る。
「君が衣装の話をするたびに、早く見たいと思っている。見せてくれないから、余計に」
「当日まで、内緒なの」
「知っている。何度も断られた」
「一度でしょう」
「二度。絵ならいいかと聞いたのも断られた」
涙の途中で笑ってしまった。バスティアンも笑い、私が鼻を押さえるあいだ、窓の外へ目を向けていてくれた。
彼と知り合ったのは、伯母の家の読書会だった。最初の印象は、終わった本について、いつまでも疑問を抱えている人。私は登場人物の気持ちを話したかったのに、彼は作中の旅程がおかしいことを気にしていた。
次に会ったとき、彼は地図を持ってきた。私が笑うと、一緒に笑って、それからようやく、私の好きだった場面を尋ねてくれた。あんなふうに、くだらないことを長く話せる相手と暮らせたらいい。そう思うようになってから、結婚の約束をするまでには、さらに一年かかった。
「待ち遠しかったの」
「うん」
「礼拝堂も、菓子も、新居の食器も。決めるたびに、もうすぐだと思っていたわ」
彼の親指が、私の指の付け根をゆっくりと撫でた。
「じゃあ、そのまま進めよう。お母様たちへの返事は、僕も一緒にする」
「最初は、私から話してもいい?」
「もちろん。そのあと必要なら、二人で伺おう」
彼にすべてを任せれば、私は家族と争わずに済むかもしれない。バスティアンが反対していると言えば、母も私を責めにくくなるだろう。でも、それでは私が延期したくないことは、誰にも伝わらない。
私はハンカチを畳み、まだ温かいお茶を一口飲んだ。杏と胡桃の菓子が、切り分けられたまま待っている。
「両方にしましょうか」
「本当に?」
「ええ。小さく切っていただいて。どちらも、おいしかったもの」
「よかった。店主にも、ようやくいい返事ができる」
彼が杏を取ったので、私は胡桃を選んだ。食べ終わるころには、いつものように、もう片方も少し欲しくなっていた。
*
母への返事は、その日の夕食前にした。父もジュリーもいる居間で、私は予定どおり式を挙げると伝えた。
母は手にしていた手紙を膝へ置く。父は新聞を畳んだ。ジュリーだけが、私の言葉を聞き違えたような顔をしていた。
「バスティアン様が、反対なさったの?」
母の問いに、私は首を振る。
「二人で話して決めました。私も、延期したくありません」
「事情は説明したのでしょう」
「はい。赴任前に結婚したいことも、お伝えしています」
父が新聞を脇へ置き、咳払いをした。
「お前たちに損をさせるつもりはないんだ。予約に払った金は返す。秋の式に追加でかかる費用も、こちらで負担しよう」
「お金のことだけではありません」
「では、何が問題なんだ」
責めるというより、父は本当にわからないようだった。お金も場所も用意し直せるのに、なぜ私が頷かないのか。その問いに答えようとすると、思っていたより緊張した。
「私たちは、あの日に結婚するつもりで準備してきました。二人とも楽しみにしています。今から、別の方の式に替えることはできません」
「別の方って、ジュリーでしょう。あなたの妹よ」
母が、そこを言い直す。私は頷いた。
「ジュリーの式でも、私たちの式とは違います」
ジュリーが膝の上で指を組んだ。子供のころ、ねだりごとをする前によく見せた仕草だった。
「お姉様は、私が出発までに結婚できなくてもいいの?」
「結婚できないわけではないでしょう。先に身内だけで式を挙げて、披露宴をあとにすることもできるわ」
「それでは寂しいもの」
「先方のお屋敷の礼拝室なら、使えると聞いたけれど」
母が手紙を裏返した。その動きで、聞いた話は間違っていなかったのだとわかる。ジュリーの婚約者の実家には、小さな礼拝室がある。父と先方のやり取りを取り次いだ家令が、昨夜、私にも教えてくれた。
「入れるのは、両家の家族くらいなのよ。庭で会食するにも、天気が心配だわ。それに、あの子はあなたたちの礼拝堂を気に入っているの」
「ええ。私も気に入っています」
母の口が止まった。私は膝の上で手を重ね、指先の震えを押さえる。
「ほかにも方法があるのなら、まずはそちらを相談していただけませんか」
「簡単に言うけれど、先方にも予定があるんだよ。あの日なら、赴任の準備を手伝いに来る親族も揃う。もう、その日を軸に進めると話してしまった」
父の言葉を聞いて、私は顔を上げた。
「私たちが承諾する前に、ですか」
「お前なら事情をわかってくれると思ったんだ」
その返事は、覚えがあった。
子供のころに約束していた外出が、ジュリーの用事で取りやめになるとき。家族で出かける馬車に席が足りず、私だけあとから行くことになったとき。困ると言う前に、父も母も、わかってくれるだろうと言った。
私はいつも頷いた。大人になってからは、わざわざ頼まれなくても、自分から引くことが増えていた。
「お姉様なら、少し待ってくれると思っていたの」
ジュリーの声は小さかった。悪意を向けられるより、答えるのが難しい。妹は本当に、私なら平気だと思っていたのだろう。
「私も、待ち遠しかったのよ」
ジュリーが顔を上げた。
「あなたの式が早まったと聞く前から、ずっと」
母が立ち上がり、窓際まで歩いた。庭を見てから戻ってくるあいだ、誰も話さない。私は返事を変えないように、というより、この沈黙を終わらせるために頷いてしまわないように、息を整えていた。
「わかったわ。礼拝堂は譲れないのね」
「はい」
「それなら、ジュリーたちは先方のお屋敷で式を挙げることになるわ。日取りも、もう変えにくいでしょうね」
父が黙って頷いた。
「あなたたちと同じ日よ。お父様と私は、ジュリーのほうへ行かなければならないわ」
胸のあたりが冷たくなった。同じ日でも、時間をずらせばいいのではないか。一瞬、そう考えた。でも、妹の婚約者の実家までは馬車で半日近くかかる。私たちの式と会食を終えてからでは間に合わない。
「どうして、ジュリーのほうなのですか」
母は困った顔になった。
「あの子は、すぐ遠くへ行ってしまうのよ。あなたには、この先も会えるでしょう」
私は頷きかけた。母の言うことは理解できたからだ。けれど、いつでも会えることと、結婚式に来てもらえることは同じではない。
「私の結婚式も、その日だけです」
声は、思ったより小さくなった。それでも母には聞こえたらしい。何か言おうとして、唇を閉じる。
「お二人にも、来ていただきたいです。私たちの結婚を、見届けてほしい」
父が目を伏せ、母は私の肩へ手を伸ばした。
「だから、秋にすれば、みんなでお祝いできるでしょう」
「式は、予定どおり挙げます」
肩に触れた手が止まる。
「来ていただきたい気持ちは変わりません。でも、そのために日を譲ることはできません」
母は手を離し、元の椅子へ戻った。ジュリーは泣いてはいなかった。私と母を交互に見ていたけれど、待ってほしいとは、もう言わない。
私は席を立った。扉に手をかけたところで、父に呼び止められる。
「そんなふうに意地を張らなくても」
「意地ではありません。バスティアンと、決めた日に結婚したいんです」
父は返事をしなかった。
部屋へ戻ると、昨日の招待状がそのまま置いてあった。私は両親への一通を取り分け、残りを家令に託した。明日の朝、発送してほしいと頼むと、彼は私の顔を見てから、丁寧に箱の蓋を閉じた。
*
翌週、バスティアンと一緒に、両親へ改めて挨拶をした。彼は日程を変えないことを自分の言葉でも伝え、妹の婚約者の赴任が無事に進むよう願っていると言った。
父はもう費用の話をしなかった。母は、私たちの招待状を卓の上へ置き、ジュリーの式に出席すると答えた。
「こちらは、欠席でお返事しておくわね」
私は、はい、と言った。バスティアンが隣にいることはわかっていたけれど、その顔を見ると泣いてしまいそうで、封筒の月桂樹を見ていた。
帰り際、母が廊下まで送ってきた。
「コレット。あとで、意地悪をされたと思わないでちょうだいね。私たちは、どちらも大事なのよ」
私は母を見た。ここで、同じくらい大事なら来てほしかったと言えば、また秋の話になるのだろう。何度話しても、母が選ぶ答えは変わらない。
「来ていただけないのは、寂しいです」
「だから、それは」
「でも、お返事はわかりました」
母は眉を寄せた。私はそれ以上言わずに頭を下げ、バスティアンと外へ出た。
馬車へ乗るとき、いつものように彼が手を貸してくれる。座席に腰を下ろしてからも離したくなくて、私はその指を握ったままでいた。彼は向かい側へ移らず、隣に座る。
「何か、食べて帰る?」
「今は、あまり」
「じゃあ、少し遠回りしようか」
私は頷き、彼の肩へ額を寄せた。窓の外を見なくても、馬車が川沿いへ曲がったのはわかった。舗装の変わり目で車輪が小さく跳ね、彼が私の背に手を添える。
「私、ちゃんとお断りしたのに、ちっともすっきりしないわ」
「うん」
「これでよかったって、すぐに思えるものだと思っていた」
「寂しいことは、寂しいままなんじゃないかな」
彼の上着を少しだけ掴んだ。抱き寄せてもらうと、先ほどまで張っていた背中から力が抜ける。
「でも、延期したいとは思わないの」
「僕もだよ」
しばらくして、通りに面したパン屋から甘い匂いがした。何も食べたくないと言ったばかりなのに、お腹が鳴る。バスティアンは聞こえないふりをしてくれなかった。
「今なら、どう?」
「……小さいものなら」
結局、私は丸いパンを二つ食べた。彼は一つしか買わなかったので、二つ目を半分に割って渡した。受け取った彼が笑い、私もようやく、口元を緩められた。
式の支度は続いた。返事の届いた招待状を二人で数え、料理人には菓子を二種類出すと伝える。花屋からは庭の花の咲き具合について知らせがあり、仕立屋では裾を踏まずに歩く練習をした。
伯母が衣装を見に来てくれたのは、その最後の仮縫いの日だった。
「あなた、これを着ているところを、お母様に見てもらった?」
「まだです」
それだけ答えると、伯母は少し黙った。それから、肩のレースを指先で整える。
「よく似合うわ。あなたは首元を開けすぎないほうが、かえって綺麗ね」
私は鏡の中で伯母を見た。伯母は、後ろも見せて、と私を回らせ、仕立屋と留め具の位置について話し始める。泣かずに済んだのは、その話が細かくて、私も聞いていなければならなかったからだ。
帰りの馬車で、伯母は私の式に来ると言った。
「お母様からは、姉妹で相談した結果だと聞いたけれど」
「私は、日を重ねる相談は受けていません」
「そう。では、そのように覚えておくわ」
伯母は誰かを叱りに行くとは言わなかった。ただ、自分がいつ礼拝堂へ着くかを教えてくれた。私はそれを予定表に書き込み、当日、支度の部屋へ来てほしいと頼んだ。
ジュリーが私の部屋へ来たのは、両親とともに出発する前夜だった。妹の式も、私たちと同じ日の昼に決まっている。私は新居へ持っていく本を箱へ詰めていた。
「お姉様、その礼拝堂でないと、嫌だった?」
私は本を置いた。
「場所だけの話ではないわ」
「私、あんなふうになると思わなかったの」
「私もよ」
ジュリーは扉のそばから動かなかった。こちらへ来れば座る場所はあったけれど、私は勧めずにいた。今までなら、気まずい顔をする妹に、私から別の話を振っていただろう。
「お父様とお母様が私の式へ来るから、怒っている?」
「寂しいとは思っているわ。でも、どちらへ行くか決めたのは、お二人だから」
ジュリーが目を伏せた。私は箱へ本を入れ、隙間に柔らかな布を詰める。
「私なら待てると決める前に、聞いてほしかった」
「……うん」
「これからは、そうしてね」
妹は小さく頷いた。謝罪の言葉はなかったし、私も、もういいとは言わなかった。
翌朝、両親とジュリーの馬車を玄関で見送った。母は、何かあれば手紙を寄越すようにと言い、私は道中を気をつけてと答えた。馬車が角を曲がったあと、家の中は思った以上に静かになった。
その日の午後には、バスティアンが迎えに来る。礼拝堂で、最後の打ち合わせをする約束だった。私は部屋へ戻り、支度を始めた。
*
結婚式の朝、伯母は約束より早く来た。
「私まで遅れたら、あなたが落ち着かないでしょう」
そう言いながら、自分の帽子を椅子へ置く。仕立屋と侍女が衣装の裾を整えるあいだ、伯母は私の朝食を確かめていた。少ししか食べていないと答えると、ひと口で食べられるものを用意するよう頼んでいる。
鏡に映る私は、仮縫いのときとは違って見えた。髪を結い上げ、耳に小さな真珠を着けている。肩から落ちる薄い布を動かすと、光の当たり方で刺繍が浮かんだ。
廊下で足音がして、私は扉へ顔を向けた。
入ってきたのは、花束を届けに来た花屋の娘だった。私はすぐに礼を言い、両手で受け取る。白い花の間には、小さな黄色い花が混ぜてある。見本を見たとき、バスティアンが卵菓子の色だと言った花だ。
伯母は何も聞かなかった。私の手元を覗き込み、持つ位置を少し下げてくれる。
「顔を隠してしまうのは、もったいないわ」
私は鏡へ向き直った。両親が来ないことは、もう知っている。今朝だけ気が変わるような距離にいるわけでもない。それでも扉を見てしまった自分を、今日は責めないでおこうと思った。
しばらくすると、今度は控えめなノックがした。伯母が扉を開け、廊下の相手へ何か小声で言う。次に姿を見せたのは、正装したバスティアンだった。
私を見て、彼が止まる。
「……どうかしら」
返事がないので、少し不安になった。花束を持ち直すと、彼はようやく近づいてくる。
「綺麗だ」
「ありがとう」
「いや、思っていたより、ずっと」
それきりまた黙ったので、伯母が後ろで笑った。
「お二人で少し話していらっしゃい。私は席についているわ」
侍女も扉の近くへ下がり、バスティアンが私の前に立った。いつも整っている襟元が、今日はわずかに曲がっている。私は花束を片手に持ち替え、空いた手を伸ばした。
「動かないで」
「何かおかしい?」
「ここが少しだけ」
襟を直すと、彼が深く息を吐いた。
「緊張しているの?」
「かなり」
「さっきまで、私もそうだったわ」
「今は?」
「あなたのほうが緊張しているから、少し落ち着いた」
彼が笑い、私の指を取った。指先に口づけられて、今度は私が黙る番になる。
「今日は、待っていてよかったと思っている」
「秋まで?」
「今日まで。秋までは、とても待てなかった」
私は笑った。朝から何度か確かめていた扉のことを、そのとき初めて忘れた。
父と歩く予定だった礼拝堂の通路は、バスティアンと二人で歩くことにしていた。最後の打ち合わせで係の人に尋ねると、二人で入場する夫婦もいるのだと教えてくれた。彼はそれを聞き、君がよければそうしたい、と言った。
扉の前で腕を取ると、上着越しに、彼の体温が伝わってくる。
「歩くの、ゆっくりね」
「君の裾を踏んだら、一生言われそうだ」
「大切に仕立てていただいたのだから、そのくらいは言います」
「気をつけます」
扉が開いた。
窓のそばの枝が、風に揺れている。半年前に見学したときには葉が少なかった木に、今日は柔らかな緑が茂っていた。招待状に返事をくれた人たちが立ち上がり、こちらを向く。
伯母が最前列で微笑んだ。バスティアンの母が、その隣で早くもハンカチを目に当てている。友人の一人は、私と目が合うと、胸の高さで小さく手を振った。
私は彼の腕に添えた指へ力を込め、一歩目を踏み出した。
式の言葉は、練習したはずなのに、途中からよく覚えていない。バスティアンが私の名を呼んだ声と、指輪を通すときに彼の手が少し震えていたことは、はっきり覚えている。私が彼の指へ指輪を通すときには、彼が手を差し出したまま、私を見て笑っていた。
誓いを終えて振り向くと、拍手が起こった。
私は、来てくれた人たちへ頭を下げた。顔を上げても、誰も急かさない。写真のようにこの景色を残せたらと思って、窓から落ちる光も、並んだ椅子も、何度も見た。
会食の広間には、二人で選んだ花が飾られていた。料理人が最後まで迷っていた焼き加減を尋ねに来て、友人たちが新居へ遊びに行く約束を取りつけようとする。バスティアンは、僕の机の本を片づける時間が必要だと言い、私はその本をどこへ移すつもりなのかと聞いた。
「空いている棚に」
「あそこは、私の本を置くところです」
「もう決まっていたの?」
「あなたが、好きに使っていいと言ったでしょう」
周囲が笑い、彼も笑った。暮らし始めれば、こういう相談が増えるのだろう。棚を分けたり、食事の時間を決めたり、どちらの好みとも少し違う椅子を買ったりするのかもしれない。
それを早く始めたいと思った。
菓子が運ばれてくるころ、私はすっかりお腹がいっぱいになっていた。皿の上には杏と胡桃が一切れずつ。隣のバスティアンを見ると、彼も同じように皿を眺めている。
「両方にして正解だったね」
「まだ、食べられる?」
「これは別だよ」
彼は杏を口へ運び、満足そうに頷いた。私は胡桃を食べる。試食のときと同じ味なのに、今日は少し違って感じられた。
食事のあと、挨拶の合間に二人で庭へ出た。広間の窓から、笑い声と食器の触れ合う音が聞こえてくる。歩き疲れた足を休めようと、木陰の長椅子に並んで座った。
花束を膝へ置くと、バスティアンが私の左手を取る。指輪を眺めているので、私は少しだけ指を動かした。
「さっきから、何度も見ているわね」
「見てしまうんだよ」
私も、彼の手を見る。同じ金色の輪がある。それだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
「コレット」
顔を上げると、彼がこちらを見ていた。
「今日、結婚できてよかった」
私は頷いた。両親に見てもらいたかった気持ちは、なくなってはいない。いつか今日のことを話して、来ればよかったと言ってもらいたいと思うかもしれない。それでも、この日を秋へ移したいとは、もう少しも思わなかった。
「私も。とても」
バスティアンが身を寄せ、私の頬へ口づけた。式のときよりも近く感じて、私は慌てて広間の窓を見る。誰かがこちらを見ていた気がしたけれど、彼は気にしていない。
「戻ろうか。君の伯母様が、僕の子供のころの話を聞きたがっていた」
「私も聞きたいわ」
「それは困る」
「どうして?」
「母が、余計なことまで話すから」
私は立ち上がり、差し出された手を取った。花束は片手で持てる。裾を踏まないよう、彼が少し歩幅を狭めてくれた。
広間へ戻ると、伯母が私たちに気づいて手を振った。隣の席を空けて待っている。私はバスティアンと顔を見合わせ、その輪の中へ歩いていった。




