episode.01「夏草の匂いと、静かな午後のチャイム」
「かえでちゃーん! スイカ持ってきたよー!」
青々とした山並みを背負った古い日本家屋の軒先に、野太く朗らかな声が勢いよく響き渡る。
私は受付のカウンターの奥からひょいと顔を上げ、パッと弾けたような明るい笑みを浮かべながら、トコトコと小走りで玄関へと向かった。
「おっちゃん! いつもありがとう。すごい、めちゃくちゃ大きなスイカだね!」
「おうよ! 今年は雨の加減が良かったのか出来がすこぶる良くってな。かえでちゃんのために、畑から一番甘いやつをもいで持ってきたんだ。みんなで冷やして食べてくれよ」
近所に住む竹内のおっちゃんは、夏の強い陽射しでしっかりと焼けた黒い顔をクシャッとさせて、抱えていたずっしりと重い立派なスイカを、ドスンと受付の脇に置いた。
私は今年から、この片田舎にある小さな歴史民族博物館で学芸員として働きだした。市のはずれ、小さな山のふもとにひっそりと位置しているけれど、市街地からもそこまで離れていない。普段は近所のお年寄りたちが涼みに来る静かな憩いの場になっていて、たまに小学校や中学校の校外学習が団体でやってくる程度の、のんびりとした空気が流れる小さな施設だ。
「あいさん、竹内のおっちゃんからこんなに立派なスイカを貰いましたよー!」
大きなスイカをポンポンと撫でながら声を張ると、奥の事務室からバタバタと忙しげな足音がして、ひょっこりと顔を出したのは職場の先輩であるあいさんだ。二十代後半で、いつもサバサバとした明るい笑顔と的確な仕事ぶりで私を引っ張ってくれる、とっても頼もしいお姉さん的存在である。
「おー! 本当だ、めちゃくちゃ美味しそう! ありがとう、おっちゃん! じゃあ、お昼のあとにみんなで美味しく切り分けて食べよっか。かえでちゃん、とりあえず冷蔵庫の奥に冷やしといてくれる?」
「はーい!」
私は重たいスイカをよいしょと気合を入れて抱え上げ、バックヤードのキッチンへと運ぶ。
冷えた井戸水……と言いたいところだが、現代の便利な文明の利器である大型の業務用冷蔵庫の中にスイカを収め、ほっと一息ついて自分のデスクへと戻った。
窓の隙間から、夏草の青臭い匂いを含んだぬるい風がすーっと吹き抜け、庭の青々とした木々をざわめかせる。外からはジージーとけたたましい蝉の声がシャワーのように降り注ぎ、まるでこの場所だけ時間の針が止まってしまったかのような、そんな不思議な錯覚に陥る。
ゆっくりと、時の流れがどこまでも穏やかなこの職場。私は、本当にここに就職してよかったなと心から思う。
都会のコンクリートジャングルと満員電車の喧騒から離れ、ギスギスした人間関係もなく、近所のおじちゃんやおばちゃんたちはみんな孫のように可愛がってくれる。
もともと根っからのめんどくさがりな私が学芸員資格なんてものに手を出したのは、ひとえに「どこかしらに就職しなきゃいけない」という冷徹な現実のためだった。
図書館司書とも少し迷ったけれど、学内選抜という最初の関門であっさり散り、消去法でたどり着いたのがこの民芸館だった。けれど――今となっては、これは最高の「結果オーライ」というやつだ。毎日平穏無事に、トラブルなく暮らせるなら、それに越したことはない。
……ただ、あまりにも平和すぎる日常というのは、時々ひどく退屈に感じられてしまうこともある。贅沢な悩みだとは分かっているけれど、刺激のない日々をただぼんやりと過ごしていると、自分の存在そのものがこの強烈な夏の暑さに溶けて消えてしまうような、奇妙な焦燥感が胸の奥をチクリとかすめるのだ。
やがて、お昼を知らせるのどかな鐘の音が、山の上にある古い寺からゴーンと響いてきた。
私たちは事務室の小さなテーブルを囲み、先ほど冷蔵庫でキンキンに冷やしたスイカを包丁でざくざくっと切り分けた。パカッと割れた赤く熟れた果肉から、キラキラとみずみずしい水分がじわりと溢れ出す。
「それじゃあ、いっただきまーす」
シャリッ、という心地よい爽やかな音が静かな部屋に響き渡る。ひとくちかじると、上品で濃厚な甘さが口いっぱいに広がり、夏の暑さで乾いた喉を優しく潤してくれた。
「生き返るねえ……これぞ日本の夏って感じがする」
「本当ですね、めちゃくちゃ美味しいです! 今年食べた中で一番甘いかも」
「でしょ? 竹内さんの作る野菜や果物は、いつだって愛情がこもってて間違いないからねぇ」
あいさんは黒い種を器用にぷっ、と小さなお皿へ吐き出しながら、ふと手元を止めて私をじっと見た。その丸い目が、どこか含みのある悪戯っぽい光を帯びていることに、私はすぐ気づいた。
「そういえばさ、かえでちゃん。世間はそろそろお盆休みだけど、ちゃんとお休みは取れるの? どこか旅行とか計画してるの?」
「うーん、特に予定はないですよ。まぁ、実家から『一回は顔を出しなさい』って言われているので、実家にのんびり帰省しようかなとは思っていますけど」
「なんだ、せっかくのまとまった休みなんだし、彼氏とかとロマンチックに旅行とか行ったりしないわけ?」
あいさんの軽いジャブのような、けれど核心を突く問いかけに、私は思わず苦笑いを浮かべた。
「いたら苦労しませんよー! この通り、私のまわりには出会いなんて全くありませんから。私の職場はこの優しいおじいちゃんおばちゃんたちですし、私の普段の行動範囲なんて、家とこの民芸館の往復だけですもん」
私のからからに乾いた返事に、あいさんは「もったいないなぁ、若いのに」とケラケラと楽しそうに笑う。若い女の子の青春がこんな片田舎で干からびていくのを、少し面白がっている節が絶対にある。
「そういえばね、このあいだ遠藤のおばちゃんがここに寄ったとき、こんなこと言ってたよ。『かえでちゃんに彼氏がいないなら、うちの孫を紹介しようか』ってさ。どうする? なかなかの優良物件らしいよ」
「本当ですか!? 是非是非! まずは写真を見せてくださいって、おばちゃんに今度伝えておいてください!」
即答する私に、あいさんは「食いつくの早いねぇ、全くもう」と呆れたように肩をすくめた。
「今度おばちゃんが来たらちゃんと伝えておくよ。お見合い大作戦のセッティングをしてあげよう、任せなさい」
「お願いします! 私のこれからの人生のパートナーをぜひ……って、あいさんはどうなんですか? その、彼氏とかいらっしゃるんですか?」
私は形勢逆転とばかりに、話題をそっくりそのまま切り返してみた。あいさんは少しだけ目を丸くし、それからふっと遠くを見るような、悪戯っぽく微笑んだ。
「それはもちろん――ひみつ!」
「えー、ずるいですよ、それ! 気になります!」
「ふふ、大人には大人の事情と、プライベートの不可侵領域というものがあるの!」
そんな他愛のない、いつもの平和な日常の延長線上的な会話を交わしていた、まさにその時だった。
「こんにちはー!」
静寂を盛大に破るように、玄関の引き戸がガラガラと勢いよく開け放たれた。
「あっ、もうこんな時間……! ひょっとして、今日の夏のイベント体験の子供たちかな?」
私は慌てて手元のスイカの皿を机に置き、シャキッと背筋を伸ばして受付のほうへと飛び出した。
この夏、市が開催しているスタンプラリーの対象になっているこの民芸館は、賑やかな子供たちの声がロビーに一気に雪崩れ込み、私の退屈な午後はあっという間に忙しい現実へと引き戻されていくのだった。




