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五年も笑わなかった辺境伯の娘が、追放された保育係の令嬢の前で初めて笑った

作者: 歩人
掲載日:2026/06/14

 春の薬草園に、子供の笑い声が落ちた。


 白い花の前で、六歳の少女が片手を伸ばし、もう片方の手で口を押さえた。声が、思いがけず自分の口から飛び出したことに、本人がいちばん驚いた顔だった。


 クラリスは、その横顔を見ていた。


 リーリャという名のその子の頬は、四月の光を受けて、ほのかに桃色をしていた。母を三歳の冬に亡くして以来、誰の前でも笑ったことがないと、辺境伯ロタールから聞いていた子だった。


 彼女が辺境伯邸に来てから、二月《ふたつき》が経っていた。


 「あ、母さまの花」

 リーリャは、もう一度、小さく笑った。今度は意図して、声を半音だけ高くした。


 春菊《しゅんぎく》の白い花が、薬草園の南端で、雪解けの土から芽吹いていた。亡き夫人ヘレナが生前、毎春この場所に種を蒔いていた花だった。


 クラリスの視界の端で、もう一つの肩が動いた。


 片膝をついて少女と並んでいたロタールが、ゆっくりと首を回した。

 彼の目元の奥が、揺れていた。


 右の頬から顎にかけて走る戦傷《せんしょう》の細い線が、四月の陽射しで銀色に光った。


 彼は、口を開きかけて、開かずに、もう一度娘の横顔に視線を戻した。


 「リーリャ……」

 ロタールの声は、戦場で兵を鼓舞する声とは、似ても似つかぬ高さだった。半音、ほんの半音だけ、上がっていた。

 本人は、おそらく気づいていなかった。

 リーリャは、その声に振り向き、父の頬の銀色の線を、初めて指でなぞった。


 クラリスは、二人を見ていた。


 見ている自分の右の人差し指に、絵札のインクの跡が、薄く残っていた。墨と植物の汁を混ぜた、手作りの顔料の色だった。五年間、彼女の指の腹からは、その色が消えたことがなかった。


 風が、薬草園の柵の向こうから、低い丘の方へ流れていった。


 「……三年ぶりに、私も、笑えたのか」

 ロタールが、誰に言うともなく、そう呟いた。

 独白だった。クラリスに聞かせるための声では、ない。

 だが、彼女の耳は、その語尾の余韻を、確かに捉えた。


 クラリスは、目を伏せた。

 唇を、わずかに、開いた。だが、声は出てこなかった。


 春菊の白い花が、風に二度ほど揺れた。


 二十四年。誰かのために自分の指を汚してきた、ただの五年間。


 その五年が終わり、誰かが自分のために動いてくれる季節が来た。


 ようやく、ようやくここでそう思い知った朝だった。




 時は、二月《ふたつき》ほど遡る。


 王都の二月(にがつ)末。まだ夜の冷えが朝まで残る季節だった。


 グレンフォール公爵邸の大広間に、シャンデリアの蝋燭が三百本ばかり灯っていた。


 婚約破棄の宴。表向きは「家門の今後を語る夕餐《ゆうさん》」と呼ばれた集まりだった。


 列席の貴婦人は四十名ほど。袖口の宝石が、蝋燭の光に小さく弾けた。


 クラリスは壇下の最前列で、両手を腰の前で重ねたまま静かに立っていた。


 亜麻色《あまいろ》の髪を後ろで一つに束ね、淡い空色の瞳を伏せている。


 袖口は、いつものように肘の手前まで折り返してあった。布の縁には、四歳の末子レナートが昨日こぼした乳の染みが薄く残っている。


 宴のために身仕舞いをし直す時間を、彼女は取らなかった。


 壇上には、兄セバスチャンと兄嫁ヴィヴィアンが並んで立っていた。


 三十一歳の兄は、亜麻色の髪を後ろになでつけ、淡い灰色の瞳を客の方に向けている。妹と同じ髪色を、三段ほど濃くしたような色だった。


 二十九歳の兄嫁は、栗色の巻き毛を高く結い上げていた。深い藍の瞳がクラリスを見下ろす。


 その首元には、王都で流行りの真珠の三連が掛かっていた。


 「ヴェルナール伯爵家との婚約は、すでに半年前に事実上の破談に至っております」

 兄セバスチャンが、形式的な声で告げた。

 「我が妹クラリスの今後については、当家の判断に委ねていただきたい」


 列席の貴婦人たちが、互いに目配せをした。

 クラリスは頭を垂れたまま動かなかった。


 相手の伯爵家三男が半年前に別の令嬢と通じたことは、王都の社交界では誰もが知っている。婚約が宙に浮いたまま放置された理由を、彼女自身が外に向けて説明したことはなかった。五年間、御子の世話に明け暮れていたからだ。


 今夜、その「外に向けての説明」を兄夫婦が代わりに用意するのだろう。彼女はそう思っていた。


 「クラリスは、五年、当家で御子たちの面倒を見てまいりました」

 ヴィヴィアンが兄の隣で口を開いた。扇子を半分ほど開いた向こうから、よく通る声が響く。

 「妹として、よく尽くしてくれました。ですが——」

 扇子の動きが、ゆっくりと止まった。

 「育児など侍女の手伝い。本物の貴族のすることではないわ」


 大広間が、一拍、静まった。

 そして、二拍ののち、貴婦人たちの一部から、押し殺した笑い声が漏れた。


 クラリスは顔を上げなかった。


 右の人差し指の腹には、昨日の朝に描き直した熊の絵札のインクが、まだ少し残っている。末子レナートのために、墨と紫蘇の汁を混ぜて作った茶色の顔料だった。


 そのインクの上で、彼女の指がわずかに動いた。

 動いただけで、表情は変わらなかった。


 「下女に代えればよいことを、長らく妹に押し付けてしまった。家門として、改めるところは改めねばなりますまい」

 セバスチャンが妻の言葉を継いだ。

 その声には形式の重さがあった。妹の名は、結局、一度しか呼ばれなかった。


 クラリスは黙礼し、大広間を退出した。

 歩く速度は、いつも保育室から廊下に出るときの歩幅と同じだった。


 背中で扇子の音がして、押し殺した笑い声が続いた。それから——四歳の長女アネリーゼが昨夜の夜泣きで覚えた、小さなしゃっくりの音だけが聞こえた気がした。


 その子はもちろん、宴の場にはいない。

 クラリスの耳の中で、五年分の夜の音が、いま一度、低く鳴っていた。


 自室に戻ったのは、深夜の一刻ほど前だった。


 北翼の三階の小部屋。机の上には、革表紙の薄い手帳が六冊積まれていた。


 保育記録帳。一冊あたり約四百日分の記録が収まる。

 五年分。延べ千八百日と少し。


 彼女は六冊を両手で胸の前に抱え、廊下を歩いた。居間の卓に、それを静かに置く。


 最初の一冊の表紙は、五年で角が丸まり、革の艶が薄くなっていた。撫でた指の腹に、長男ベルナールが四歳だった頃の、最初の音節遊びの記録の頁が浮かんだ。


 「あ・い・う・え・お」

 彼女の口の中で、低い声が、ひとりでに、流れた。

 吃音《きつおん》の兆候があった四歳のベルナールが、半年かけて獲得した音だった。

 今、九歳の彼は、家庭教師の前で普通に挨拶ができる。

 長女アネリーゼは、夜泣きの激しかった一歳の冬、クラリスが百八十夜、隣で起き続けた子だった。寝物語は毎晩違うものを語った。

 今、四歳の彼女は、夜中に目を覚ましても自分で水差しまで歩ける。

 末子レナートは、人見知りが激しかった。二歳まで家庭教師の前で一言も声を出さなかった子だ。クラリスは手帳の余白に下絵を溜め、夜なべで二年あまり、二千枚を超える絵札を仕上げた。レナートはその中から指差して、言葉の代わりにした。

 今では、彼は「クラリス姉さま」と呼べる。


 クラリスは、卓の六冊に両手をそっと置いた。


 辺境の地に持ち出すべきものは、別にあった。戸棚の奥から、祖母エルナの遺した教本を取り出す。革表紙の薄い冊子が十冊。半生をかけて子供たちに読み書きを教えた祖母の、手書きの教え方の集大成だった。彼女はそれを麻布の鞄に詰めた。


 六冊の保育記録帳は、卓に残していった。誰かが、いつか開いて見つけるかもしれない。見つけないかもしれない。どちらでも、よかった。


 彼女は、麻布の鞄を背負い、北翼の階段を降りた。夜番の使用人は、彼女の顔を見て、何も問わずに門の鍵を開けた。


 夜の門を抜けると、東の空はまだ蒼く沈んでいた。


 二月末の薄霧が、王都中央北区の白い石畳の上をゆっくりと流れていた。


 クラリスには行く当てがなかった。王都郊外の祖母の寺子屋は、祖母の他界とともに閉ざされている。母方の親族も、もう王都に残っていない。ただ歩くより、することがなかった。


 ほの白い空に夜明けの色が差し始めたのは、半刻のちのことだった。公爵邸の表門から二街区ほど離れた角を曲がったあたり。彼女の足は、いつしか王都北側の往来に出ていた。辺境カーランダールの縁戚邸が並ぶ通りの、手前だった。


 石畳の先に、人影があった。

 黒の長外套を羽織った男が一人、街路の角に立っている。


 縁戚邸の門前で馬の支度を待つ貴族か。最初はそう思った。だが、その人影は薄霧の中で動かなかった。


 彼女が一歩近づくと、男はゆっくりとこちらに体の正面を向けた。


 長身、痩せ型。

 右脚を、わずかに引きずる立ち姿。


 漆黒の髪と、深い橄欖《オリーブ》色の瞳。右の頬から顎にかけて、薄い銀色の戦傷の線が一本走っていた。


 襟元の銀の留め具が一つきり。ほかに装飾と呼べるものはなかった。


 その手には、革紐《かわひも》で束ねた一通の書状と、小さな革の鞄が握られていた。


 男は彼女の前で立ち止まり、低い声で名乗った。


 「カーランダール辺境伯、ロタール・フォン・カーランダールと申します」

 四日前から王都北の縁戚邸に滞在している、と彼は短く告げた。

 グレンフォール家の宴の日取りは、王都の社交筋から伝わっていたらしい。宴の翌朝、彼女の足が向きそうな通りで待つことに決めたのだという。


 その名を、クラリスは書類の上では二年知っていた。公爵邸に届く辺境からの陳情書。王宮の催しの招待状の連名。保育の合間の書類整理で、彼女は幾度もその名を見てきた。


 顔は、初めて見た。目元の奥に、林の底のような落ち着いた色がある。その色を、彼女は数呼吸ぶん見ていた。


 「グレンフォール公爵令嬢、クラリス嬢」

 ロタールは、彼女の名を、公爵令嬢として呼んだ。

 保育係、でも、家督整理のための在宅令嬢、でもなく。


 「私には、六歳の娘がおります」

 彼の声は、抑えていた。

 「妻を、三年前の冬に喪いました。それから、娘は誰の前でも、声を上げて笑ったことが、ありません」


 クラリスは、視線を石畳に落とした。

 喉が、ひとつの音も、作らなかった。


 「乳母を、三人替えました。専門の医を、二度呼びました。誰もが、半年で『合わない』と娘の口元を見て、辞めていきました」

 ロタールは、革紐の書状を両手でゆっくりと胸の前に持ち上げた。

 その動作の途中で、右脚に体重を移したのだろう。わずかに彼の肩が傾いだ。古傷が、霧の朝に痛む——それが見えた。


 「二年前、王宮の催しで、私はあなたを、見ました」

 彼の声が、ほんの少し、低くなった。

 「公爵邸の応接の片隅で、御子三人を寝かしつけているところを」

 クラリスは、その夜を覚えていなかった。客の貴族たちが大広間で踊っている間、御子の昼寝の時間を厳密に守っていたあの夜。見られているとは、思っていなかった。


 「五年、御子さま方を見続けたあなたなら、リーリャの心も読めるだろうか——と、私は、二年前から、思っておりました」

 ロタールは、革紐の書状を、胸の前で、わずかに開いた。

 束の中に、辺境伯邸の家紋の蝋封《ろうふう》がついた、未開封の書状が一通あった。

 「正式な書状は、こちらに用意しております。直接お渡しに、参りました」


 クラリスは、しばらく、その書状を見ていた。

 白い石畳の上に、薄霧の粒が、もう一つ落ちた。


 彼女は、静かに頷いた。

 声は、出さなかった。

 頷きだけで、応えた。




 早春の三月、辺境カーランダールの本城に、クラリスは到着した。


 王都から馬車で三日。最後の半日は森の中の街道で、馬の蹄が雪解けの泥を蹴る音だけが響いた。


 本城は二階建ての石造り。装飾を嫌う辺境伯の趣味で、外壁は灰色の石の地肌のままだった。玄関の扉も樫材《かしざい》の素朴なもの。


 馬車を降りた彼女を玄関の段で出迎えたのは、ロタール本人と、白髪交じりの執事一人だった。


 使用人を並べて出迎える貴族の慣習を、ロタールは省いていた。


 「お疲れでしょう。まずは、お部屋で休んでください」

 その声は、王都の朝霧の街路で聞いたときよりも半段ほど低かった。自分の領地にいる男の声だった。

 「リーリャには、まだ、お目通りはお願いしておりません。あなたが、お疲れでしょうから」

 クラリスは頷いた。

 執事の案内で、二階の西翼の客間に通された。

 客間は簡素だった。ただ、寝台の脇に新しい革表紙の手帳が一冊、置かれていた。その表紙の色は、彼女が王都で残してきた六冊の保育記録帳の、最後の一冊と同じ深い焦げ茶色だった。


 彼女は、その手帳を、しばらく見ていた。

 誰かが用意したものだった。

 執事は、何も言わずに、扉を閉めた。


 翌日からの数日、クラリスはリーリャと顔を合わせなかった。


 本城の一階西翼に、亡き夫人ヘレナの遺した小さな空き部屋があった。執事の許可を得て、彼女はそこを保育室に整え始めた。窓は南向き。午後の光が床に届く部屋だった。


 祖母エルナの教本を机の隅に並べ、王都から持ってきた絵札の見本を窓辺の棚に立てかける。熊、兎、犬、馬。蕪《かぶ》、林檎、葡萄、麦の穂。


 並べ終えて、彼女は窓辺で低く歌を口ずさんだ。祖母の寺子屋で覚えた、雪解けの土から芽吹く花を数える、短い旋律の歌だった。


 保育室の入り口の脇、廊下に通じる扉の陰で、小さな影が動いた。


 クラリスは、振り向かず、同じ旋律を二度、三度と繰り返した。扉の陰の小さな影は、動かないまま、彼女の歌を聞いていた。


 三日目の朝、クラリスは絵札を一枚、手に持って保育室の床に膝をついた。


 熊の絵札だった。墨と紫蘇の汁の茶色で描かれた、丸い顔の熊。


 彼女はその絵札を、扉の陰の小さな影の方へ軽く滑らせた。

 床の石の上を、薄い厚紙がゆっくりと滑っていく。


 扉の陰の影が、半歩、引っ込んだ。


 クラリスは振り向かないまま、絵札がもう動かなくなった位置を見つめていた。


 一刻ほどして、扉の陰から白い小さな手が伸びた。

 六歳の指が絵札の角を摘《つま》み、ゆっくりと引き寄せる。


 クラリスは、それを目の端でだけ見た。


 リーリャは、その日の夕餐《ゆうさん》までに、保育室の扉の前を三度、行き来した。


 三度目。彼女は扉の隙間から自分の小さな指を伸ばし、熊の絵札の角を外側にちょっとだけ押し返した。


 まるで、絵札を返したかったのではなく、絵札を介して何かを返したかったように見えた。


 クラリスは、その夜、新しい革表紙の手帳の最初の頁を、開いた。

 日付を書いた。三月十一日。


 そして、こう記した。


 「リーリャ様。本日、保育室の扉前で熊の絵札を三度動かす。指で札の角を押す動作、自発的。表情は窺《うかが》えず」


 彼女は、手帳を閉じた。

 革の固さが、まだ、指の腹に残っていた。


 四日目の朝、食堂に降りていくと、卓の隅に温かい湯飲みが一つ置かれていた。


 湯飲みの隣に、書きつけが一枚。

 「保育室の絵札を、もう少し増やしてはどうか。インクが足りなければ、薬草園の植物から取り寄せられるよう、庭師に頼んでおく」


 署名は、Lの一字だけだった。


 クラリスは、書きつけを両手で持って、しばらく見ていた。


 王都の公爵邸で絵札のインクを切らせたとき、「次のインクを取り寄せようか」と問うた者は、五年で一人もいなかった。彼女は自分で紫蘇の葉を擂《す》り、自分で墨を混ぜ、自分でインクを作ってきた。


 誰かが代わりに手配する。そんな発想を、彼女は二十四年で一度も持ったことがなかった。


 湯飲みの中の湯は、舌の上に生姜《しょうが》と蜂蜜の薄い甘さを残した。冷えた朝の腹に、ゆっくりと温度が落ちていく。


 窓の外、雪解けの庭の向こうで、ロタールが領主の朝の見回りをしていた。彼の足元の雪が、午前の光で薄く水気を帯びている。


 一週間が経った。

 リーリャは、保育室の入り口の扉を、ようやく自分から開けるようになっていた。


 まだ中には入ってこない。扉を半分だけ開け、その陰から絵札の棚を見ていた。


 クラリスは窓辺の机で、毎日違う絵札を描き続けた。雪解けの土から芽吹く花、馬の仔、領内の番犬の仔。


 リーリャの好物が何かを、クラリスはまだ知らなかった。だから、季節の花と城内で見かける動物を、片端から札にしていった。


 七日目の夜、廊下で寝物語の準備をしていたクラリスのところに、リーリャが歩み寄った。


 クラリスは、亡き夫人ヘレナの書斎の隣の小部屋の前に、椅子を一つ置いていた。その上で、寝物語の本を膝に開いている。


 灯火が一つ、椅子の脇の蝋燭立てに灯っていた。

 リーリャは、その光の輪の中に、半歩だけ入った。


 「……ねえ」

 彼女の最初の声は、薄かった。

 風が窓の外でひと吹きしたら、消えてしまいそうな声だった。


 クラリスは視線を外したまま、本の頁を指で押さえ、ゆっくりと頷いただけだった。

 「……ねえ、その歌、母さまも、歌ってた」


 リーリャの声は、最初よりわずかに強くなった。

 クラリスは頷いた。


 祖母エルナの寺子屋で覚えた、雪解けの花を数える歌のことだった。亡き夫人ヘレナも、同じ歌を知っていたのだろう。母方の遠縁か、寺子屋に通った縁者がいたのかもしれない。


 どちらにしても、クラリスの歌は、リーリャの記憶のどこかと繋がっていた。


 クラリスは、本の頁をリーリャの方に少しだけ傾け、「読みますか」と短く問うた。


 リーリャは、椅子の方へわずかに身を寄せた。ほんの僅かに。クラリスはそれ以上誘わず、本の頁を膝の上で開いたままにした。


 リーリャは、その夜、椅子の脇の床に自分から座った。六歳の少女が、二十四歳の女の膝の隣に、ぺたりと座った。


 クラリスは振り向かず、ゆっくりと本を読み始めた。雪解けの花が土の下で目を覚ます、短い物語だった。


 その半刻ほどの後、廊下の角の影に、もう一つ人の気配が立った。ロタールだった。


 彼は扉の陰の側に半身を隠したまま、娘と彼女の声を聞いていた。クラリスは声の調子を変えず、読み続けた。


 物語が終わると、リーリャはもぞもぞと立ち上がり、クラリスの膝にちらりと手を置いた。半秒だけ。それから小部屋に駆け込み、扉を閉めた。


 「……ありがとう」

 廊下の角から、低い声が届いた。

 クラリスは本を閉じ、灯火を吹き消した。消える前の一瞬で、彼女はロタールの肩の傾ぎを見た。右脚に体重を移している、寒い夜の立ち姿だった。


 三月の末、雪解けがいっそう進んだ。


 城の裏手の薬草園で、亡き夫人ヘレナが残した春菊の畝《うね》から、最初の芽が顔を出した。


 リーリャは、午後の散歩の時間に、その畝の前でしばらく立っていた。


 クラリスは、リーリャの背中の一歩後ろで、彼女と一緒に芽を見ていた。


 「これ、母さまの花」

 リーリャが、薄い声で言った。

 「うん」

 クラリスは、頷いた。

 長くは、続けなかった。


 その夜、保育室の机で、クラリスは新しい絵札を一枚描いた。

 春菊の白い花の絵札だった。


 墨で輪郭を取り、芯に白を残し、葉の濃淡だけを薄い緑で塗る。


 描き終えて、彼女はその札を棚の一番目立つ場所に立てかけた。

 「……母さまの花」と、リーリャがいつかもう一度口にする日のための札だった。


 保育室の入り口に、足音が止まった。

 クラリスは、振り向いた。

 今度は、振り向いた。


 立っていたのは、ロタールだった。

 彼は、両手に、薄い包みを一つ、抱えていた。

 「夜分に、失礼いたします」


 彼は、扉の手前で立ち止まり、深く頭を下げた。

 「これを、お受け取りいただけませんか」


 包みの中身は、毛織りの薄い掛布だった。


 保育室の南の窓は、午後の光は届く。だが夜は、外の冷気が壁伝いに入り込みやすい構造だった。

 「窓辺の机で、夜遅くまで絵札を描かれていると、執事から伺いました」


 ロタールは、目を伏せていた。

 「身体を、冷やされないように」


 クラリスは、包みを受け取った。

 毛織りの布の重さが、両手にあった。


 彼女は包みを胸の前で抱えたまま、しばらくロタールの右の頬の銀色の線を見ていた。


 寒い夜、その傷が痛むだろう。そう思った。


 「ロタール様も……」

 彼女は、初めて、彼の名を、呼んだ。

 「お部屋に、暖炉の薪を、もう一束、入れさせていただきます」

 声は、低く、抑えていた。

 保育の話をするときの、いつもの彼女の声だった。


 ロタールは、顔を上げた。

 橄欖色の瞳の奥が、揺れた。


 彼は、何かを言いかけて、言わなかった。代わりに、もう一度、深く頭を下げた。


 三日後の夜、亡き夫人ヘレナの書斎の隣の小部屋で、リーリャの寝物語の時間が来た。


 クラリスは、椅子に座り、本を膝に開いた。


 リーリャは、もう扉の中に入っていた。床に座らず、椅子の脇の小さな台にちょこんと座っている。


 灯火は、暖炉の薪と合わせて二つに増えていた。


 小部屋の隅、暖炉の脇の長椅子に、ロタールが座っていた。


 彼は、寝物語の途中から、毎晩、隅で聞くようになっていた。


 彼は何も言わなかった。クラリスの読む声と、リーリャの相槌の音と、暖炉の薪の弾ける音だけが、小部屋に流れていた。


 その夜、物語が終わったあと、暖炉の薪が一度、低く弾けた。

 ロタールが、長椅子の上で、姿勢を変えた。


 彼の右脚の古傷の痛みが、寒さで増したのだろう、と、クラリスは思った。

 彼は、低く、口を開きかけた。


 「……もう、独りで、子を、育てなくていい」


 声は、暖炉の薪の音より、低かった。

 語尾は、最後まで、続かなかった。

 言いかけて、彼は、言葉を呑んだ。


 クラリスは、本の頁を自分の膝の上で押さえていた。

 顔は、暖炉の方へ向けたまま動かさない。


 リーリャは、すでに小台の上でまどろみ始めていた。


 小部屋の中で、ロタールの言葉の余韻だけが、暖炉の薪のかすかな弾ける音と一緒に、薄く揺れていた。


 クラリスの中で、二十四年で初めての感覚が、ゆっくりと、焦点を結んだ。


 誰かが、自分のために、暖炉の薪を一束多く運ぶ。

 誰かが、自分のために、毛織りの掛布を一枚渡す。


 誰かが、自分のために、絵札のインクを薬草園から取り寄せる手配をする。


 そして、誰かが、自分のために、夜の長椅子の隅で、口を開きかけて、呑んだ言葉を、確かに、自分の方へ向けた。


 彼女は、本を閉じた。

 閉じる手が、わずかに震えた。

 指の腹の絵札のインクの茶色が、暖炉の光で薄く揺れる。


 彼女は、睫毛をゆっくりと膝の方へ落とした。

 「……ありがとうございます、ロタール様」

 声は、低かった。


 言ったのは、毛織りの掛布のことだったのか。暖炉の薪のことだったのか。それともいま彼が呑んだ言葉の余韻のことだったのか——彼女自身、判じきれなかった。


 ロタールは、頷いた。

 彼の手が、長椅子の縁を一度、強く握った。


 そして、ゆっくりと立ち上がり、まどろむリーリャを抱き上げる。


 小部屋の扉まで歩いて、彼は娘を抱えたまま半歩、振り返った。

 「おやすみなさい、クラリス嬢」


 彼の声は、戦場で兵を鼓舞する声とは、もう、似てもいなかった。




 四月の半ば、雪解け水の流れが川幅を倍に広げていた。


 辺境カーランダールの本城に、王都からの早馬が一騎、駆け込んだ。


 馬の蹄が、玄関前の石畳で激しい音を立てる。


 クラリスは、二階の保育室で、リーリャと一緒に絵札の整理をしていた。


 窓の外を駆け抜けた馬影に、リーリャが顔を上げる。

 クラリスは、リーリャの肩に片手を添えた。


 リーリャは、その手の温度で安心したように、また絵札の方へ視線を戻した。


 玄関の方で、ロタールと早馬の使者が話す声が、低く響いた。

 使者の声が、わずかに上ずっていた。


 クラリスは、保育室の扉から、半身だけ廊下に向けた。


 半刻ほどして、ロタールが二階に上がってきた。

 彼は、保育室の扉の手前で立ち止まり、ノックを一度した。


 クラリスはリーリャに「少し、隣の部屋へ」と短く告げ、扉を開けた。


 「グレンフォール公爵邸から、急ぎの報が」

 ロタールの声は、抑えていた。

 彼は、廊下の窓辺まで歩き、外に視線を向けた。

 「御子三人——ベルナール殿、アネリーゼ嬢、レナート殿——が、三日前の夜、屋敷から姿を消されたとのことです」


 クラリスは、両手を腰の前で重ねた。

 彼女の指の先が、わずかに冷えた。

 「夜半、寝間の見回りで気づいた侍女頭が、すぐに家内を捜索したそうです。ですが、いずれの間にも姿はなく。三日目の朝、書き棚の影に倒れていた書き置きが、三枚、見つかったとのことです。それぞれの筆跡で」


 ロタールが、続けた。

 「いずれも、文面はほぼ同じ。『クラリス姉さまのいる場所へ行きたい』と」


 クラリスは、瞼を半ば閉じた。


 長男ベルナールは、まだ「ま」と「ほ」を時々書き間違える子だった。長女アネリーゼは仮名文字が安定したばかり。末子レナートは、書き置きを書くにはまだ難しい年齢だ。おそらくベルナールが代筆し、レナートには自分の名前だけを書かせたのだろう。


 御子たちは、互いに相談して屋敷を出たのだ。


 「公爵邸では、北の街道を辿った者がいる、と聞き出したそうです」

 ロタールは、北の方を指差した。

 「方角は、ここ、辺境です」

 クラリスは、頷いた。

 彼女が辺境に向かうことを、御子三人は知っていた。最後に三人の頭を順に撫でて、行ってきますと告げたのは、宴の前の昼下がりだった。


 「すでに、領境の街道に騎士を二組、出しております」

 ロタールは、低く言った。

 「無事に発見されれば、ここに連れて参ります」

 クラリスは、もう一度頷いた。

 彼女の唇が、わずかに開いた。

 「ご面倒を、おかけします」

 短い、それだけの言葉だった。

 ロタールは、首を振った。


 王都の使者は、保育室の扉の前でひと呼吸を整えてから、続きを口にした。


 ロタールが廊下に半身を残したまま聞いていた断片を、クラリスはその夕、家令の取り次ぎを通じて受け取った。抑えた口調だった。


 ——三日前の深夜、侍女頭が御子の寝間の見回りで不在に気づき、すぐに家内をくまなく捜索したという。だが寝具の中にも、書斎にも、納屋にも、御子の影はなかった。


 二日が空転した。三日目の朝、書き棚の影に倒れていた白い便箋三枚が、ようやく食堂の卓まで運ばれた。


 兄嫁ヴィヴィアンが侍女に命じて作らせていた朝食は、小麦のパン、卵の蒸し料理、林檎の薄切り、温めた山羊の乳。王都の流行に合わせた、見栄えの良い盛り付けだったと使者は伝えた。


 けれど林檎の薄切りには、皮がついたままだったのだという。


 末子レナートは、林檎の皮を口に入れたまま噛みきれず、必ず吐き出してしまう。クラリスは二年前からそれを知っていて、毎朝、皮を薄く剥いて出していた。今朝の卓では、誰もそれを知らなかったらしい。


 卵の蒸し料理には、生姜のすりおろしが入っていなかった。


 長男ベルナールは、朝食の卵に生姜のすりおろしを一つまみ載せるのが、五年来の習慣だった。風邪をひきやすい体質のための、クラリスの工夫だ。


 山羊の乳は、温度が高すぎた。


 長女アネリーゼは、熱すぎる乳を一口で吐き戻してしまう。クラリスは舌の先で温度を確かめてから、必ず彼女の前に置いていた。


 使者は声を落として、こう付け加えた。卓を前にした兄嫁の指は、書き置きの便箋を握ったまま、長く動かなかった、と。三人の名は呼べた。だが好物の一つすら、その朝、卓の上で答えに詰まったらしい、と。


 クラリスは、目を伏せた。便箋の上のベルナールの手の震えが、わずかな間、彼女の指の腹に蘇った。


 兄セバスチャンは、その日、王宮の侍医頭を公爵邸に招いた。長男ベルナールの吃音について、助言を求めたのだという。


 執事に運ばせたのは、五年分の保育記録帳だった。「ベルナール様、四歳。吃音の兆候。音節遊び『あ・い・う・え・お』を朝食前に三回」——侍医頭はそれを応接でしばらく読み、低い声でこう告げた、と使者は伝えた。


 「ベルナール様の吃音は、すでに、ほぼ寛解《かんかい》しております。これは医療の手ではできなかった仕事です。毎朝、決まった時間に、決まった音節を繰り返す——気の遠くなる根気の作業を、五年、続けた結果です。閣下、御子の子守ができていなかったことが、これまでどれほどの差を生み出していたか。妹君がいらっしゃったから、ベルナール様は今、家庭教師の前で挨拶ができておられる。それを、お忘れになってはいけません」


 兄が応接の中で、しばらく声を出せずにいた、と使者は告げた。妹の名を敬意をもって口にしたのは、五年で初めてのことだったのだ、と。


 侍医頭の言葉は、その夜、王宮の医師仲間を経由して王都の社交界に薄く流れたらしい。ヴィヴィアンが二月末の宴で告げた「育児など侍女の手伝い」という言葉は、その夜から、貴婦人たちの扇子の陰で、低い笑いと共に回り始めた。


 それを、辺境の保育室の窓辺で、クラリスは伝聞として聞いただけだった。




 四月末の朝、辺境の街道に、護衛の騎士二騎と一台の質素な馬車が姿を現した。


 御子三人は、王都を出て三日目の昼、北街道沿いの宿場で旅商の女主人に保護されていた。九歳のベルナールが書き置きの写しを差し出し、四歳のレナートを抱えながら「クラリス姉さまの居る所まで」と告げたのだという。


 女主人の連絡を受け、領境まで出張っていた辺境伯の騎士二組が翌朝合流した。馬車で残りの行程を運んだのだ。使者の早馬が王都とこの本城の双方に向かったのは、合流の直後のことだった。


 馬車から最初に降りたのは、長男ベルナールだった。


 九歳の彼は灰色の旅装で、両手に小さな麻袋を一つずつ握っていた。

 「クラリス姉さま」


 その声には、五年前の四歳の頃のような震えは、もうなかった。

 彼は馬車の段で両足を揃え、深く頭を下げた。


 次に降りたのは、長女アネリーゼ。四歳の彼女は、薄い亜麻色の髪を二つに結い、目を伏せていた。


 最後に、末子レナート。四歳の彼は、両手で「クラリス姉さま」と書かれた書き置きの控えを握っていた。それを真っ先に、クラリスの方へ差し出す。

 「持ってきた」


 その声は、誇らしげに薄く震えていた。


 クラリスは、玄関の段で両膝をゆっくりとついた。

 御子三人の高さに、自分の目線を合わせる。

 「よく、ここまで」


 彼女の声は、わずかに震えていた。

 御子三人の頭を、順に片手ずつ撫でる。


 最後にレナートの頭を撫でたとき、四歳の彼が彼女の腕に小さく抱きついた。


 その小さな肩が、彼女の腕の中で震えていた。


 クラリスの隣で、ロタールが片膝をつこうかどうか迷っていた。


 彼は、九歳のベルナールの顔をしばらく見ていた。

 そして、ベルナールに向けて、ゆっくりと片膝をついた。

 「カーランダール辺境伯、ロタール・フォン・カーランダールです」


 彼は、九歳の少年の高さに目線を合わせた。

 「君たちが、よく、ここまで来てくれた。ここで、よければ、皆で暮らそう」


 ベルナールは、その言葉をしばらく聞いていた。

 彼は、九歳の口でゆっくりと言葉を選んだ。

 「父上と母上は、私たちを見にこないと思います」


 その声は、震えなかった。

 「家庭教師の方が、いつも私たちの分からないことを教えてくださいました。クラリス姉さまが、夜の眠りを整えてくださいました。だから、私たちが屋敷を出ても、父上と母上はたぶん、見つけにいらっしゃらないと思います」


 九歳の言葉は、淡々としていた。

 怒りの色は、なかった。

 ただ、事実の確認だけだった。


 ロタールは、ゆっくりと頷いた。

 「分かった。それなら、ここで皆で暮らそう」


 その声は低く、しかし確かに、ベルナールの目を見ていた。

 ベルナールは、もう一度深く頭を下げた。


 リーリャは、玄関の段の上から御子三人を見下ろしていた。


 六歳の彼女は、まだ人見知りの色を目元に残している。

 クラリスは、リーリャに片手を差し出した。

 「リーリャ、ご紹介を」


 リーリャはわずかに躊躇って、それからクラリスの手に自分の手を重ねた。

 そして、玄関の段を二段降りる。


 四歳のレナートと、ちょうど同じ目線の高さになった。


 レナートが何も言わずに、リーリャへ書き置きの控えを差し出す。


 リーリャはそれを受け取り、両手で胸の前に抱えた。


 その日から、辺境伯邸の保育室には、四人の子供の声が、入った。


 五月初旬の朝、薬草園の花が、ようやく満開を迎えた。

 春菊の白い花が、畝の上で風に揺れている。


 子供たちは、午前の散歩の時間に、薬草園で互いに走り回っていた。九歳のベルナール、四歳のアネリーゼ、六歳のリーリャ、四歳のレナート。


 その笑い声が、本城の窓まで薄く届いた。


 クラリスは、本城の二階の窓辺で、その声を聞いていた。


 彼女の指の腹のインクの跡は、今朝も新しく、薄く茶色く残っている。

 執事が、二階の廊下に上がってきた。

 「クラリス様。閣下が、薬草園で、お待ちでございます」


 執事の声は、いつもより、半段、優しかった。


 クラリスは、麻布の上着を一枚、肩に羽織り、二階の階段を降りた。


 玄関の段を出て、本城の裏手の薬草園に、彼女は向かった。


 薬草園の南端、春菊の白い花の畝の前に、ロタールが立っていた。


 彼は、子供たちの遊ぶ音を、声の向こうで聞きながら、彼女が来るのを待っていた。


 彼女が畝の前に来ると、ロタールはゆっくりと彼女の方に体を向けた。


 右の頬の銀色の戦傷の線が、五月の光で薄く消えている。

 彼は、両手に小さな花の冠を一つ抱えていた。


 春菊の白い花と、薬草園で芽吹いた若い緑の蔓《つる》で編まれた、素朴な冠だった。


 「クラリス嬢」

 彼の声は、低かった。

 「いえ——クラリス」

 彼は、彼女の名を、敬称なしで初めて呼んだ。


 クラリスは、春菊の白い花の上に、視線を置いた。


 「あなたを、リーリャの——いえ、私の妻として迎えたい」

 ロタールは、片膝をゆっくりとついた。

 右脚の古傷が、寒い朝には痛む膝だった。今朝は、五月の光がその膝を温かく包んでいる。

 彼は、両手の花の冠を彼女の方へ差し出した。


 クラリスは、しばらくその花の冠を見ていた。

 子供たちの笑い声が、薬草園の北側から薄く届いている。


 彼女の左の手の甲に、二月末の朝霧の冷たさは、もうなかった。


 彼女は両手を、ゆっくりとロタールの花の冠の上に重ねた。そして、初めて長い言葉を口にした。


 「ロタール様。わたくしは五年、御子さま方の夜の眠りを見てまいりました。誰がそれを見るかは、わたくしには選べませんでした。御子さま方がいつか何かを覚えていてくださるかも、分かりませんでした」

 彼女は、薬草園の方角にわずかに視線を流した。

 「ですが、子供は、誰が夜に寄り添ってくれたかを忘れないのです」

 声の最後の音が、五月の風に薄く揺れた。

 「リーリャ様も御子さま方も、覚えていてくださいました。わたくしの方も——あなたが二月末の朝霧の中で、わたくしの名を公爵令嬢として呼んでくださった声を、覚えております」


 彼女の右の目尻から、一筋、涙が降りた。最後の安堵の、たった一筋だった。


 ロタールが立ち上がり、彼女の頬の涙を自分の親指の腹でゆっくりと拭った。彼の右手の手の甲の古い傷跡の上に、彼女の涙が薄く混ざった。


 五月末、領内町外れの空き地に、小さな木造の学院が開かれた。

 カーランダール学院、と地元の人々が呼んだ。


 入り口の扁額《へんがく》には、辺境伯領の慣習で、領主の家紋ではなく、ただ「学院」とだけ墨で書かれていた。


 開院式の日、五月末の青空が、薬草園の上にも広がっていた。


 学院の長椅子に、領内の手工業者の子十数人と、ベルナール九歳、アネリーゼ四歳、リーリャ六歳、レナート四歳が並んで座っている。


 クラリスは、教壇の前で、祖母エルナの遺した革表紙の薄い教本を両手に開いていた。


 彼女の指の腹には、今朝リーリャと一緒に描いた春菊の白い花の絵札のインクが、薄く残っている。


 「では、最初に、皆で音節遊びを」

 彼女の声は、いつもの保育室の声と同じ低さだった。

 「あ・い・う・え・お」

 子供たちの声が、揃って彼女の声を追いかける。

 最初のひと声で、レナートの「お」だけが半音、低く響いた。

 クラリスは、それを聞き、薄く頷いた。


 学院の扉の脇に、ロタールが立っていた。


 彼は、外套の襟元に、薬草園で摘んだ春菊の白い花を一輪、挿していた。


 その橄欖色の瞳の奥が、五月の光の中でゆっくりと揺れる。

 彼は、扉の柱に片手を軽く添えていた。


 右脚の古傷の痛みは、五月の朝の光の中で、もう薄れていた。


 彼の唇が、ほんの少し動いた。

 「……ありがとう、クラリス」


 その声は、教室の中の音節遊びの声に紛れて、誰にも聞こえなかった。

 クラリスにも、聞こえなかった。


 けれども、扉の柱の脇で彼の唇が動いたことを、彼女の方は目の端で確かに見ていた。


 彼女は、教本の頁をゆっくりとめくった。

 「次は、皆で雪解けの花の歌を歌ってみましょうか」


 子供たちが、頷いた。

 リーリャの隣で、レナートが両手を膝の上でぎゅっと握る。


 クラリスは、歌の最初の旋律を低く口ずさんだ。


 祖母エルナの寺子屋で半生をかけて教えられてきた旋律が、辺境の小さな学院の天井の梁の下で、薄く響き始めた。


 春の風が、学院の窓の外を低く流れていった。


 クラリスは、教壇の前で、もう一度ロタールの方を目の端で見た。彼は扉の柱の脇で、静かに微笑んでいる。彼の中の何かが、五月の光の中で新しい場所に座り直しているのを、彼女は確かに見た。


 クラリスの左手の薬指に、薄い銀の指輪が一つ嵌《は》まっていた。三日前の夜、ロタールが自分の手で嵌めた指輪だ。祖母エルナの教本の頁を押さえる指の腹。絵札の茶色いインクの上で、指輪の銀が、五月の光に控えめに輝いていた。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回は、五年間、誰にも見えない場所で三人の御子の夜の眠りを整えてきた令嬢クラリスの物語でした。

 「育児」は、貴族の家ではしばしば「乳母や養育係の仕事」として、家の主たちから見えないところで進みます。でも、四歳の子の吃音《きつおん》に毎朝半年付き合った人、夜泣きの一歳児の隣で百八十夜起き続けた人、人見知りの二歳児に五千枚の絵札を描いた人——その人の手の温度を、御子たちの体は、ちゃんと覚えています。


 この物語のテーマは「育児を分担できる人と出会う」「子は、誰が夜に寄り添ったかを忘れない」でした。三年前に妻を亡くしたロタールが、二年前に王宮の催しで一度見たクラリスを、書類の上で追い続けてきた——その控えめな片想いと、クラリスが「自分のために誰かが動く」ことを二十四年で初めて知る過程を、薬草園の春菊の白い花に重ねたく書きました。


 子供の記憶力を、大人は時々、見くびります。御子三人が書き置きを残して辺境まで歩いてきた朝、兄夫婦が御子の好物を一つも答えられなかった朝——その対比が、いちばん書きたかった場面でした。


◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇


婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。


▼ 公開中


・S01-P109『「家政など侍女の真似事」と笑った義姉が、十二年分の裏帳簿にすべて署名していた件』(n3164518)


・S01-P108『「お前の帳場など商人ごっこ」——交易令嬢消失の朝、塩・茶・絹の暗号台帳が誰にも読めなかった件』(n3164517)


・S01-P107『「看護など産婆の手すさび」——王太子の高熱が止まらぬ四千三百八十夜目、看護帳の頁が破られていた件』(n3164516)


・S01-P106『「侍女に薬湯でも持たせろ」——侍医頭が放逐した公爵令嬢の名を、十二日眠れぬ王太子は誰にも問えなかった件』(n3164346)


・S01-P104『「お前の授業など子守り」——十五年教えた令嬢が去って三月、王太子は即位演説草稿を一字も読めなかった件』(n3164342)


毎朝6時、新作更新中!

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