知らない君
目覚めると、病院にいた。
そこは精神病院だった。
精神病院の、保護室のフトンの上にいたのだ。
僕には、そこが病院だということがわからなかった。
記憶がなかったのだ。
全ての記憶が。
自分の名前も、自分が誰かということさえも。
♪
「君は、海辺で喚いていたそうだよ」
白衣を着た初老の医師が、そう言った。
僕は、フトンの上にあぐらをかいていて、その前に、医師が片膝をついた姿勢で座っていた。
その傍には、紺色の服を着た若い看護師二人が、手前に手を組んで立っていた。
「記憶がないんですよ」と僕は答えた。
「君の名前は、鈴木慎也というらしいんだけれど……」とその医師が言った。「勝手にサイフの中身を見させてもらったんだけどね。そのなかにあった免許証には、君の顔写真があって、住所は京都府とある」
「何も覚えていないんです」と僕は答えた。
その医師は、看護師二人と顔を見合わせた。
♪
その後で僕は、札幌市内にある病院へとクルマで連れていかれて、脳のMRIを撮ってもらったのだけれど、特に異常は見当たらないとのことだった。
その精神病院へと戻った僕は、先の初老の医師から心因性のものかもしれないと聞いた。
しばらく僕は、その病院で過ごすことになった。
日中のうちは、保護室から出ることができて、広いホールで過ごすことができた。
ホールの中央には、大きなテレビが備え付けられていて、患者たちが見るともなく、それを眺めていた。
テレビは、ニュースが流れていたり、野球中継が流れていたり、あるいはバラエティ番組が流れていたりした。
僅かに開いた二重窓から、遠くに海辺が見えた。冷たい風に混じって、微かに潮の匂いがする。
僕は、そのホールにある本棚から小説を一冊抜き取って、窓際の席でそれを読んでいた。
そして読むのにくたびれると、窓の外へと顔を向けて、海辺を眺めた。
その二日後、僕の姉だという女性が、その病院に現れた。
年齢は二十代の後半くらい。長い黒髪で、どこか勝ち気な顔立ちをしていた。
青のタートルネックの上に、紺色のジャケットを羽織っていた。
「電話で先生から聞いていたけど、本当に何も覚えていないの?」
「覚えていないんですよ」と僕は答えた。
「とりあえず、服や下着はこのなかにあるから」と彼女は、中身がパンパンに詰まったボストン・バッグを、僕に手渡した。「それから、歯磨きや髭剃りなんかもね」
「ありがとうございます」と僕はお礼を言った。
「お礼はいいけど、その他人行儀なのをやめてよ」と彼女はどこか薄気味悪そうに言った。
♪
僕はそこで二週間過ごした。
その二週間はとても穏やかに過ぎていった。時間の流れがとてもゆったりとしていた。僕には、他のそれと比べる記憶を持ち合わせていないはずなのに。きっと、その感覚だけは残っていたのかもしれない。
朝になると、保護室から出て、ホールで皆と朝食を取ったあとで、昼まで窓辺の特等席でのんびりと本を読んだ。本を読むのにくたびれると、やはり窓の外に目を向け、海岸を見やった。
遠くの海辺を眺めていると、ひどく懐かしい感じがした。そしてなぜだか胸が締め付けられる思いがした。
時々、レクリエーションがあり、別館の部屋でカラオケ大会が行われた。僕はどの曲も知らないので、ひたすら人の歌を聴いていた。
つまらないことから、患者の老人と口論 (と言えるのだろうか?) になったり、クリスチャンのふくよかな中年女性から勧誘を受けたりもしたけれど、やはり日々は穏やかにゆったりと過ぎ去っていった。
ただ、ときどき怖い妄想というか不安に襲われることがあった。
僕は、本当に記憶喪失なのだろうか?
本当に僕は、今まで京都で暮らしていたのだろうか?
あの僕の姉だという女性は、本当に僕の姉なのだろうか?
もしかしたら、僕の人生はあの保護室からスタートしたんじゃないだろうか?
いったいどのような理由でなのかはわからないけれども――
♪
二週間が過ぎて、僕はその病院から退院した。
僕の姉がやってきて、彼女と一緒にその病院から出た。
その病院は丘の上にあって、見晴らしがよかった。町並みの向こうには、やはり海が見えた。
姉が呼んだタクシーが、病院の前の駐車場に停まっていて、僕たちはそのタクシーに乗り込んだ。
姉も僕も後部座席に座った。
タクシーは丘の曲がりくねった道を降りていき、それから町のなかを走っていった。
僕は窓から、町の景色を眺めていた。
札幌市内で降りた僕らは、繁華街でラーメンを食べたあとで、またタクシーを拾って千歳空港へと向かった。
空港に入ったあとで、彼女は携帯の充電をしに、どこかへと消えてしまい、僕は空港内のカフェで、姉から借りた文庫本を読んでいた。
ふと本から顔を上げる。
窓の外は薄暗くなっていた。
窓には、男が一人、ポツンと映っている。僕だった。
その時、自分がひどく孤独であることに気がついた。
正確に言えば、僕のなかにある孤独感に気がついた。強いその感情に――
この世界には、自分独りしかいないような錯覚にとらわれた。天涯孤独であるように。
それはある意味で本当だったのだ。だって僕は、僕の姉だという彼女の記憶すらもなかったのだから。
それはどうしようもない孤独だった。どこまで行っても、逃れることができないような――
やがて姉がやってきて、フライトの時刻まで、僕たちは向かいあってコーヒーを飲んでいた。
飛行機が大阪国際空港に着き、電車とタクシーで京都の姉のマンションに辿り着いたのは、夜の11時過ぎだった。
驚いた。外が暖かったからだ。あちらはほとんど冬の気候だったけれど、こちらはまだ秋のそれだった。まるで時間が逆戻りしたかのようだった。
♪
姉のマンションで寝起きをすることになった。
少しして、僕が住んでいたというアパートへ彼女と出かけた。その部屋を引き払うため、片付けをするのだった。
その部屋に住んでいた記憶はまるでなかった。微かに「懐かしさ」を感じる程度だった。
僕は夜、河原沿いをよく歩いた。
例の孤独感に襲われていたからだった。
自室では居た堪れない思いがしたのだ。
僕は「誰か」を強く求めていたのだ。
その人の身体を。心を。そして魂を――
その人が誰なのかまではわからなかったけれども。
遠くに見える家々やマンションの灯りを眺めていると、酷く切ない思いがした。
信号待ちの車のヘッドライトやテールライトを見ていると、やはり切なくなった。
それらの景色は、美しく映った。
とても美しく。どこか病的なほどに――
たぶん、その灯りの一つに、「その人」がいるかもしれないからだろう。
♪
「あなた、そろそろ職場に連絡入れなさいよ」と土曜日の朝に姉が言った。
「職場?」と僕は寝起きのぼんやりとした頭で訊ねた。
「きっと心配しているわよ」と彼女は言いながらコーヒーを淹れていた。オーブン・レンジでは、食パンが焼かれている。「あなた、何も言わずに行方をくらましたんだから」
「びっくりしたよ」と初老の男性が笑いながら言った。「突然、連絡が取れなくなったかと思ったら、北海道にいると聞いたからさ」
「申し訳ないです」と僕は答えた。
「鈴木くん、記憶喪失になったんだってね」と彼は言って温かいお茶を飲んだ。
そこは、京都にある老舗の旅館だった。
彼は、その旅館の社長だった。
僕はこの旅館で、働いていたらしい。
「ええ」と僕は答えた。「何も覚えていないんですよ」
「ここで働いていたことも?」と彼は訊いた。
ええ、と僕は答えた。「自分の名前も、住んでいた町のことも覚えていないんです」
どうする?と彼は僕の目を見た。「ここをやめるのかい?」
「いろいろ考えたのですが……」と僕は答えた。「それがいいと思うんです。迷惑をかけてしまったようですし」
「鈴木くん、本当に何も覚えていないの?」と中年の女性が言った。50代ほどのぽっちゃりとした人だった。
ええ、と僕は答えた。「まったく何も……」
「本当にやめちゃうの」とやはり50代くらいの痩せた女性が言った。「淋しくなっちゃう」
僕たちは、旅館の一角にある休憩スペースにいた。僕は机を挟んで、彼女らと向かいあっていた。
彼女らはここの従業員だった。私服の上にエプロンをかけている。
「これからどうするの?」とぽっちゃりとした女性が言った。
「何も考えていないんです」と僕は缶コーヒーを飲みながら答えた。「しばらく、姉の家に居候しようと思うんですけど」
そこに一人の女性が現れた。
僕はハッとした。
綺麗な人だったのだ。
この場所には、彼女はどこか不釣り合いに見えた。
二人の中年女性と同じエプロンをつけているので、彼女もここの従業員なのだろう。
年齢は20代の半ばくらい。僕より少し年上だろう。
肩までの真っ直ぐな髪。切れ長の目。澄んだ茶色の瞳。整った鼻梁。薄い唇。それから、か細い身体――
彼女と目があった。
その瞬間、時が止まったかのような錯覚を覚えた。
ひどく懐かしかった。
♪
旅館からの帰り道、例の旅館に電話を入れて、退職を取りやめにしてもらった。
旅館から出たあとで、強烈な孤独感に襲われたのだ。
それは、いまだかつて感じたこともないような、強い孤独感だった。
耐えられないと思った。この孤独があと50年以上も続くのかと思うと、気が狂ってしまいそうだと――
僕の脳裏に、あの人の姿が過った。
♪
正月が明けてしばらくしてから、僕は職場に復帰することになった。
年末年始の繁盛期に僕を復帰させなかったのは、病み上がりの僕に対する会社側の配慮だったのだろう。
それまでのあいだ、僕は何をするでもなく自室で過ごした。
夜は、近くの河原を歩いた。それはほとんど日課となっていた。
河原の傍にある小さな公園のベンチに、僕は温かい缶コーヒーを片手に座っていた。
対岸には、家々やマンションの灯りが散らばっている。まるで宝石のように。
遠くからは風の音に混ざって、車の走行音が聞こえてくる。遠い海鳴りのように。
そこに、例の切なさはなかった。
翌日も、翌々日も、その感情はやってはこなかった。
たぶん、と僕は思った。たぶん彼女に出会ったからではないか……
あの旅館に復帰したからどうなるというわけでもないのだろう。
だけど、僕は彼女にまた会わなくてはいけないのだ。
それだけは僕のなかに、確信としてあったのだ。
♪
一月の半ば過ぎ、僕は仕事に復帰した。
言うまでもなく、復帰したという感覚はなかった。その職場で働いていた記憶がないのだから。
結論から言えば、戻って正解だったのだ。
彼女のやさしい笑顔を目にすることができたのだから。
その笑みは僕に向けられたものだった。
その目からは、僕に向けられた恋心を感じ取ることができた。
なるほど、と僕は思った。
彼女と僕とは恋人同士だったのかもしれない。少なくとも相思相愛の仲だったのかもしれない。
記憶を失う前の僕が、彼女に対して具体的にどんな想いを抱いていたのかまではわからないけれども、たぶん好きだったのだろうと思った。
彼女のことを知らない今の僕でさえ、彼女の笑顔を目にした瞬間、まるでヒューズが飛んだかのように頭が真っ白になってしまったからだ。
そもそも、彼女のことを目にしたときから、僕は彼女のことしか考えられなくなってしまったのだから。