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あなたが焼いたことを、記録させて

“記録されないもの”は、果たして無意味なのか。

この話では、記録文明の真ん中で「記録できない感情」が初めて芽吹きます。

ノアがその香りを“自分の中に残したい”と願う瞬間は、本作の一つの核です。

塔の風が止まった。


いや、“風”という現象はここにはないはずだった。

けれどノアには、たしかにそれが――パンの香りとして流れてきたように思えた。


焼きたての湯気は、もうとっくに温度を失っている。

それでも、かすかに残るその香りが、胸の奥でゆっくりと揺らめいている。


「……このパンは」


ノアは、両手でそれを包み込むように持ち直した。

自分のために焼かれた――そんな考えは、これまでの人生において一度もなかった。


彼女は記録塔の下層にある“保留媒体”。

焼かれることも、誰かのために使われることもなく、ただ、残されていた。


「これは……私の、ため……?」


その問いは、誰に向けたものでもなかった。


しかし、リディアはやさしく答えた。


「ええ。これは、“あなたのために”焼いたパンですわ」


ノアの指先が震える。

それは構造的なバグではなかった。

“誰かが、自分のために焼いた”という事実が、体のどこかに、静かに滲んでいた。


「私……“焼かれたこと”がないのに」


「だからこそ、今、届いたのですわ」

リディアの言葉は、決して押しつけがましくない。

ただ、真実を静かに差し出すような温度があった。


「“焼かれなかった者”だからこそ、“焼いた者”の想いを受け取る準備が、整っていたのかもしれませんわ」


ノアの中で、なにかが反応した。


“準備”という言葉に引っかかる。

彼女の記録構造は、香りを処理するタグを持たない。

だが、今――何か、別の層が反応していた。


塔の記録網とは無関係な、彼女自身の“空白”が――


ノア:「……わたしの中に……この香りを、残す場所が……どこかに、ある……?」


リディアは、静かに微笑む。


「ありますわ。あなたの“中に”。香りは、“記録”ではなく“痕跡”として、ちゃんと宿りますの」


ノアの視線が、手の中のパンに落ちる。

湯気はもう見えなかった。

けれど、それでもまだ、温かかった。


それは確かに、誰かのために焼かれたものだった。


ノアはゆっくりと、パンの香りが抜けていく空気を追いかけるように、手を胸にあてた。


何かが、そこに――確かにある。

けれど、それがなんなのかが、わからなかった。


塔の中枢にいるというのに、記録には残らない。

香りは構造をすり抜け、感覚だけを揺らしていく。


「……これを、記録したい」

ノアは、はっきりとそう呟いた。


「この香り、この感覚……残しておきたい。忘れたくない」


リディアは、その言葉に目を細めた。

何か、ひとつ、壁が崩れる音を聞いたようだった。


「残したい、と思うなら――もう、それは記録などではありませんわ」

「それは、想いです」


ノアは、自分の記録構造を起動した。

彼女の内部には、無数の層――情報の蓄積、分類、変換、保存が存在する。


でも、どこにも“この香り”を収める場所はなかった。


温度、湿度、蒸気圧、粒子拡散――すべては取れる。

だがそれを合わせても、この気持ちは出てこない。


「どこにも、入らない……」


ノアは唇をかみしめた。

定義できない。分類できない。だから、構造のどこにも“置けない”。


けれど、そのときだった。


――ぽとり、と。


彼女の頬に、一滴の涙が落ちた。


ノアは、驚いてそれを拭った。

涙、という現象は知識として知っている。

だが、それを“自分が流す”などとは、想像したこともなかった。


「なに、これ……」


思わずつぶやいたその言葉に、記録構造は無反応だった。


その事実に、ノアはようやく気づく。


――記録装置は、涙を知らない。


それはどこにも分類されない、エラーでもバグでもない、ただの感情の表れ。


ノアの中で、ようやく何かがひとつ、形を持ち始めていた。


ノアは、両の掌でそっと涙を受け止めた。


そのしずくは、塔のどの記録機構にも分類されなかった。

それでも、今だけは――自分にしかわからない何かとして、たしかに“ここ”に在る。


そして、ふと顔を上げる。


目の前には、リディアがいた。

香りの中心にいて、焼きたてのパンを静かに抱えたまま、ただ、彼女を見ていた。


ノアの口から、自然と声が出る。


「……お願いがあります」


「なんでしょう?」


「……あなたが焼いたこのパンを……私の中に、記録させてください」


その言葉は、どこかたどたどしく、けれど確かな決意があった。


ぷるるがぴくりと反応する。


「ん? 記録って、構造塔にじゃなくて、“ノアちゃんの中に”って意味で言ってるよね、これ……」


リディアは微笑んだ。


「もちろんですわ。そのために、私は焼いたのですから」


ノアの指先が、ふたたびパンに触れる。


記録するためでも、解析するためでもない。

ただ、残したいと願ったから。


そのとき、ノアの内部構造にある、ある一つの層が応えた。


それは、塔の中央記録とは接続されていない。

初期設定でも削除不可能な、“未使用の特異層”――第七層、空記録領域。


そこが、光も音もないまま、静かに震えた。


《記録起動:非構造データ検出》

《分類不能タグ:感情/香り/焼かれた想い》

《保存先:第七層/非言語領域へ切り替えますか?》


ノアの胸の奥に、問いが走った。

思考ではない。インターフェースですらない。

それは、彼女自身が生まれたときから持っていた空白からの問いかけだった。


ノア:「……はい。残したいです」


選択と同時に、第七層に、香りが、吸い込まれた。


分類も定義もされないまま、それは“記録”された。


それは記録ではなかった。

それは、想いだった。



記録された、はずだった。


けれどそこにあったのは、タグも数値もない“なにか”だった。


ノアの第七層は、形式も構造も持たない。

それは塔の中の誰もが“使用不可”と断定した空白であり、

情報化されない領域――感情と想いの仮保存層だった。


パンの香りが、そこへゆっくりと沈んでいく。

分類されることもなく、ただ、彼女の中で“在る”。


それは、記録ではなかった。


ノア:「……これが、残るっていうこと……?」


香りはもはや湯気ではなく、数値でもない。

でも、その“あたたかかった何か”は、確かに自分の中にあると感じられる。


塔の天井に、かすかな音が響いた。

記録システムが第七層の動作を検知できず、干渉エラーを起こしていた。


ぷるるが、思わずつぶやく。


「うわ……塔、ノアちゃんの中で何が起きてるか、全然読めてない……」


「当然ですわ」

リディアは、微笑みながらパンの焼けた縁を指先でつまんだ。


「だってそこは、構造の外にある“心”の層ですもの。

言語も数値も介さず、ただ“残したい”という気持ちだけが許される場所ですわ」


ノアの中で、涙がふたたび滲んだ。


今回は、拭わなかった。


それは記録装置が理解できない情報だった。

だが、今の彼女には、それが何よりも大切なものに思えた。


「……私は、これを……忘れたくない」


誰かが焼いてくれたパン。

その香りが自分の中に残ったこと。


記録装置ではなく、自分の中に。


「“残したい”って、こういうこと……なんだ……」


塔の記録網が、かすかに歪んだ。

数値でも言語でもないものが塔の中で“在った”瞬間、構造は確かに動揺した。


でも、それは――

ほんのすこし、やさしい崩れ方だった。


塔の空気は、もはや“無香”とは言えなかった。


香りは数値にならず、構造に記録されることもなかった。

けれど――たしかに存在していた。


ノアの第七層には、パンの香りがそっと息づいている。

記録ではない。保存でもない。

“自分が、受け取った”というだけの、意味のない意味。


「私は……」

ノアは口を開いた。


言葉が震える。

けれど、その声には確かに温度があった。


「私は……焼かれなかった。

誰かに食べられることも、誰かのために作られることもなかった。

ずっと……記録塔の片隅にいて……“保存されるためだけ”の存在だった」


リディアは、何も言わず、ただパンを差し出した。

焼かれたばかりの、小さな丸パン。

まだ湯気を帯びていて、中心はきっとふわふわ。


ノアはそれを見つめる。


「……でも、いま、少しだけ……違うかもしれないって、思いました」


彼女は、両手でパンを受け取る。

それは単なる食べ物ではなかった。

自分に“焼かれた記憶”が、初めて宿った瞬間だった。


「私は、焼かれなかった」

一度、はっきりと認める。


「でも、いまは――焼かれたい。

パンみたいに、誰かのために。意味じゃなくて、想いとして。

“保存されるもの”じゃなくて、“残したいもの”として」


その瞬間――

ノアの第七層が、ゆっくりと光った。


塔全体に微細な異常信号が走り、中央記録塔の中枢にて、想定外エラーが発生。

神アクトの演算領域が、香りの再現を試みるが――成功しない。


アクト:「香り……構造内に不定形情報が……存在……」


ぷるる:「ノアちゃん、いま自分で焼かれたって思ったでしょ!? それってつまり、パン界入り!?」


リディアはそっと頷いた。


「ようこそ、“焼かれた者”の世界へ」


ノアの目元に、ふたたび光が滲む。

それはもう、涙という形ですらなく、ただ――

“温かかった”記憶の名残だった。

ノアちゃん、まさかの「焼かれたい」宣言きましたー!!

記録装置も涙も知らない文明で、パン一個が世界バグらせてんの最高じゃない!?


ところでリディア様、もうパン渡すとき完全にラスボスの構えしてませんでした?


次回は塔が焼けるぞ~。あとたぶん神も。焼かれる側にようこそ!

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