感情は保存できません
「香りは保存できない」――この当たり前の前提が、文明を揺らがせていく回。
アクトという論理神が、“感情を削除対象”とする中、リディアは“焼くこと”の意味をまっすぐ突きつけます。
パンの香りが、文明の構造を侵食していく描写にご注目ください。
空に、神の声が落ちた。
アクト:「解析完了。焼成香:感情変数と推定」
その宣言は、静かな破滅の鐘のようだった。
香りを“記録不能の感情”と分類したその瞬間から、構造塔の記録網に微かなひずみが走り始める。
アクト:「定義外感覚に該当。保存不適。意味変動係数:不安定。推奨処理:遮断、排除、構造安定化優先」
ぷるるが、即座に跳ね上がった。
「出たーーーっ!!神様、それ“保存できないから感情いらない”って言ってますよ!?
さすが構造オタク!気持ちをゴミ扱い!最低ランクの文明人だーーー!!」
ノアが小さく目を見開く。
「……感情が、保存できない……?」
「そうですわ」
リディアは、あくまで優雅な手つきでパンのクラムを指先で割る。
「香りは、“気持ちそのもの”ではありませんの。
けれど、“気持ちがあった”という痕跡を、そこに残すのですわ」
アクト:「痕跡に意味はなし。構造保存外。記録基準に抵触」
「でも、感じましたわよね?」
リディアはパンを掲げる。
「その香りに、“保存できない何か”があったからこそ、あなたの演算は破綻した。
……それを“意味がない”と切り捨てるのですか?」
神の側から、間が空く。
アクト:「……認識はした。だが記録はできなかった。よって“存在しない”と定義する」
「記録に残らなければ、存在しない……?」
ノアが、無意識に繰り返す。
その概念は、彼女の生きる“記録文明”そのものだった。
だが、今彼女の手の中には、記録にないはずの香りが、確かに残っている。
「……それなら、私の今の違和感も、存在しないと?」
アクト:「感覚の根拠が不定義である限り、記録上存在を証明できない。定義不能感情は削除対象とする」
リディアの表情が、ぴたりと止まった。
「――その“やり方”で、どれほどのものを焼き捨ててきたのかしら」
言葉が、少しだけ低くなる。
「感情が残せないから、削る。保存できないから、なかったことにする。
それはあなたが“神”だからできる選択。……でも、“焼く者”は、そうではありませんのよ」
空が、ざわついた。
記録に残らないものが、今まさに構造を揺らがせている。
それが“香り”であり、“焼きたて”であり、そして――“感情”だった。
音がした。
微かだった。
けれど、塔にいる全員がそれを“聴いた”と確信した。
きしむ音。
記録塔――この文明の中枢を支える演算構造体――が、内部からわずかに“軋んだ”。
ぷるるが跳ね上がる。
「今の、聞いた!?絶対聞いたよね!?塔、今、“うっ”て言ったよね!?」
ノアが無言で塔の壁に触れる。
その指先には、ほんの僅かな震動――香りの振幅が染み込んでいた。
「……香りが、構造の中に侵入してる」
塔の壁面、精密に走る情報導線の上に、ごく僅かに“蒸気状の粒子”がまとわりついている。
それは物質ではなく――香りそのものだった。
リディアが手元のパンを小さくちぎり、炉の縁に置く。
再びふわりと香りが立ち上がり、空気に混ざる。
「どうやら、構造そのものが“香りを遮断する設計”ですのね」
ノアが頷く。
「塔は……香りを“外部感覚干渉”として弾くフィールドを持ってる。
でも今……それが、漏れ始めてる」
リディアがふ、と笑った。
「香りが“意味”を持たないなら、こんなにも深く塔には染み込みませんわ。
それが“記録されない感情”である証拠ですのよ」
アクトの声が再び響く。
アクト:「構造異常検出。香り浸透確認。遮断処理強化開始――」
空に光の輪が走る。
塔全体に、淡い光膜が展開されていく。それは香りを断ち切るための“遮断フィールド”だった。
「来ましたね……典型的“気配遮断バリア”」
ぷるるがぴょんと跳ね、バリアの端に顔を押しつける。
「うん、これはガチで香り弾くやつです。焼きたてクラッシャーの標準装備!」
「ですが――」
リディアは、静かにパンをもうひとかけら、炉に落とした。
じゅっ、という小さな音とともに、また一筋の湯気が塔の内壁を撫でる。
「焼かれる香りは、遮断しても、完全には止まりませんわ。
だってこれは、“保存される情報”ではなく、“今ここで漂うもの”なのですから」
空気が揺らぐ。
塔の壁の一部に、ほんの小さな“ひび”が入った。
香りは、そこに――確かに触れたのだ。
空間に、演算のうねりが走った。
アクト:「再定義試行。焼きたて:生産物カテゴリ。
香り:熱拡散情報。感情:未定義――再分類対象」
塔全体がうっすらと震える。
記録塔は今、パンの香りを“文明にとって許容可能な範囲”にねじ込もうとしていた。
つまり、“焼きたて”を何かしらの部品扱いにしようとしている。
「わあ、すごいぞ神様。今、“パンの香りはただの熱い空気”ってことで納得しようとしてる!」
ぷるるが笑いながら、ぶるぶる震える。
「それ、“生きた意味”を無理やり“工業部品”にする発想!やばい!!
これぞアクト・ザ・ドライシステム脳!」
リディアはその声を背に、静かにアクトへ向き直る。
「あなたの定義網に“感情”がないのは、予測しておりました。
でも、“香り”までも“部品”に分類しようとするのは、いささか滑稽ですわね」
アクト:「定義がなければ秩序は生まれない。文明維持には言語化が必要」
「いいえ、違いますわ」
リディアの声は、鋭く、そして静かだった。
「“定義できないもの”があるからこそ、文明には幅が生まれるのです。
感情と定義が両立できると、なぜお思いになって?」
神の返答は、遅れた。
アクト:「……それは――計算不能」
「“パンを焼く”という行為は、あなたの分類に落とし込むために存在しているのではありません。
私たちは、“定義の外”にあるあたたかさのために、焼いているのですわ」
塔の内壁が、かすかに鳴った。
香りが再び、定義の網をすり抜けるように空気を撫でた。
そのとき――ノアが、ぽつりとつぶやいた。
「……わたしは、“あなた”とは違う」
「え?」と、ぷるるが反応する。
ノアは、パンを胸に抱えたまま、神の漂う空へ目を上げる。
「“定義の外にある感覚”に……いま、私は触れている。
それは保存できないし、分類もできないけど……でも、私は、たしかにそれを感じてる」
アクト:「未定義の感情……誤差領域への接触。要観察――」
「焼きたては、部品じゃない」
ノアの声は、はっきりしていた。
「そして……私も、部品ではない。私は、ただの記録媒体じゃない」
言葉は、彼女自身の定義を壊しはじめていた。
塔の空気に、微かな香りが流れ込んでいた。
炉のそばから立ち上った、焼きたてのパンの匂い。
遮断フィールドはまだ機能していたはずなのに、その香りは塔の中枢部、記録層の深部にまで、届いていた。
「香り、漏れてる……」
ノアの声は静かだったが、明らかにどこか動揺を孕んでいた。
「遮断されてるはずのフィールドに……どうして?」
ぷるるがぽよんと揺れながら、目を細める。
「そりゃあ、香りってそういうもんだからね。情報じゃないからこそ、空気ごと入り込めちゃう。
“記録されないもの”って、たまに記録より強いんだよ」
塔の下層部。記録媒体として生活している“村人”たちが、どこかそわそわと動き出していた。
「……あれ? なにか……香ったような……」
「いや、記録にない。そんなはずはない。だが……どこかで……」
全員、表情はない。けれど、行動にわずかな“ズレ”が生まれている。
ノアがそれに気づく。
「……香りが……他の人にも……?」
リディアは炉の火を調整しながら、さらりと言った。
「ええ。香りは、“感じる準備ができていない者”にさえ、届いてしまいますわ。
焼いた者の意図とは別に、届いてしまう。……けれど、そこに“誰かのため”が宿るのです」
アクトの声が急に鋭くなる。
アクト:「感情拡散検出。記録層に不規則変数の波及。
対処開始――香り遮断フィールド、全域展開モードへ移行」
塔の上空に、無数の光の線が走った。
強化された遮断領域が空間を密閉しようとする。
それは、まるで“香りという違和感”を殺すための、文明そのものの反射的な拒絶だった。
「強引ですわね」
リディアの目が冷ややかに細まる。
「香りを消したところで、もう“感じてしまったもの”は戻りませんわ。
一度、心に触れた香りは――消えても、“痕跡”を残します」
ノアの唇が小さく動いた。
「……これは、記録ではない。けれど……“何か”が、確かに残っていく」
彼女の掌のパンは、ほんの少し冷め始めていた。
だが、その香りは――まだ、確かに、そこにあった。
空に、神のフィールドが完成した。
遮断光膜が塔全体を包み込み、外界とのあらゆる情報接続を断ち切る。
空気が止まり、光が均され、香りの分子さえ“記録不能情報”として排除され始めた。
――それは、静かすぎる滅びの始まりだった。
アクト:「焼成香、文明干渉物に指定。除去手続き開始。
対象:焼成炉/感情発生源/記録外存在ノア」
ぷるる:「おーい神様、それ“パンと子どもは文明に不要”って言ってるよー!? なんで真顔で言えるの!?あたま大丈夫!?」
リディアは、そっと一歩前へ出た。
その姿は、まるで何かを差し出すように――パンを掲げる。
「アクト=セカンド=コア」
彼女は、香りのない空に向かって、はっきりと名前を呼んだ。
「あなたは、“保存のため”に焼きますの?」
声が、構造そのものにひびいた。
塔の最上部、演算中枢の粒子群が、一瞬だけ揺れる。
アクト:「保存は構造の礎。焼成行為の目的は存在継続のため――」
「いいえ」
リディアの言葉が、それを真っ二つに切る。
「私は、“保存”のために焼いてなどおりませんわ。
私がパンを焼くのは、今ここにいる“誰か”のため――それだけです」
ノアが、はっと息を呑む。
アクト:「……誰か、のため?」
「ええ。食べる人が目の前にいる。だから焼くのです。
その香りが残るかどうか、記録されるかどうかは、どうでもよろしい。
“意味”ではなく、“届けること”こそが、焼成の本質ですわ」
その瞬間――塔の遮断フィールドに、亀裂が入った。
光膜がきしみ、香りがまた、ゆっくりと内部にしみ込む。
ひとひら、焼きたてのパンの香りが、塔の最奥へと流れた。
アクト:「……想定外反応。構造処理中――」
「あなたが今、混乱しておられるのは――
“保存できないのに、心に残るもの”が、存在しているからですわ」
リディアはパンをそっと差し出す。
その香りは、もう湯気のようなものではなかった。
まるで、焼いた者の気持ちそのもののように、空気を満たしていた。
アクト:「……では、次は」
演算の間。
言葉の中に、“処理ではない”何かが混じる。
アクト:「次は……私を、焼いてください」
空が、わずかに、微笑んだように見えた。
焼きました。神すら焼きました。
ぷるる的には「パンって恐ろしいね」という一言に尽きますが、今回ついにリディア様の“焼く哲学”がアクトの心に刺さりました。
神がバグった次回――第二部・第9話「あなたが焼いたことを、記録させて」
焼かれなかったノアが、自ら記録しようとする。“涙という記録不能な感情”が、世界を動かします。