焼いたのは、ただの朝食ですわ
神が来るとは思っていましたが、
まさか“パンって何?”って言い残して帰るとは。
香りは侵略ではなく、記憶の回復だった。
世界の記録がそれを拒んでも――
焼かれたものは、消えない。
塔の天井を越え、空の“目”がついに形を持ち始める。
光でもなく、熱でもなく、ただ「記録される現象」として、それはゆっくりと降下を始めた。
神――アクト=セカンド=コア。
文明構造そのものの中枢。感覚を定義し、記憶を律し、秩序を統括する構造神。
それが今、パンの香りに引き寄せられて、降りてきた。
「リディア様……!」
ぷるるが、塔の隅で警戒陣を組みながら震える。
「来てます……神の“観測主軸”が、明確にこっちを指してる……! 完全にパンに引きずられてます!」
「想定より反応が早いですわね。まるで……飢えてるみたい」
リディアは魔導炉の蓋に手を添えたまま、空の裂け目を見上げた。
「でも神様――あなたが来たところで、パンの意味は変わりませんわ。“焼かれたもの”は、“誰かの朝”であって、審判の対象ではないのよ」
塔の上空、次第に実体化していく“目”。
その中心に浮かぶのは、記録そのもの。無数の感覚記憶を整理し、再配列するための神域フレーム。だが――その最深部に今、パンの香りが侵入していた。
「構造反応検出」
塔の中に、直接思考を刺し込んでくるような“声”が響いた。
「香り――分類不能。形式破綻。記録層異常。意味不明瞭。応答不可能」
ノアが顔を上げる。瞳に、神域フレームの反射光が揺れていた。
「……神が、パニックを起こしてる……パンの香りに、正しく名前がつけられない……!」
「神様の構造って、香りのタグが無いんですよねぇ!」
ぷるるが震えながら言った。
「記録できないものは全部“バグ”扱いしてきた構造ですもん……焼きたてなんて存在、そりゃもう未分類の地獄案件ですよ!」
塔が震える。
それは神の“記録網”が、塔の内部、いや、パンの周囲を巻き込んで再定義を始めた証だった。
「焼成物由来の感覚信号――処理失敗。分類不能。分類不能。分類不能」
「これ、かなりやばいんじゃない?」
リディアが炉の温度を確認しながら、まったく動じずに呟く。
「神様、もしかしてパンの香りを“存在論的脅威”に分類しようとしてません?」
「してますぅぅ! 侵略、感覚災害、未定義信号、全部付きましたよタグ!!」
リディアはパンを静かに持ち直した。
「なら、なおさら焼きますわ。“焼かれたもの”に、理由なんて必要ありませんもの」
空が震える。光がうねる。
アクト=セカンド=コアはまだ完全には降りてこない。だがその構造圧だけで、塔の魔導壁が軋み始めていた。
ノアは震える声で呟いた。
「……これが、神の“バグりかけた目”……私、あの神に造られたのに……今、まったく別の存在に見える」
ぷるるが、力なく言った。
「パンって……焼きたてって……やっぱ世界壊すレベルのごちそうですよね……」
リディアはただ、炉の音に耳を澄ませていた。
焼かれゆくパンの音が、世界の終端に届こうとしていた。
パンの香りが、塔の空気に溶けていた。
それはただの芳香ではなかった。
神すら分類不能とした“焼きたて”の香りが、ノアの身体の奥、記録と構造の狭間にまで染み込んでいく。
ノアは両手で胸元を抱きしめるようにして、震えていた。
「……わたしの中に……“熱”がある……」
「記憶が、焼かれてるのよ」
リディアが言った。
「ただの香りじゃない。“焼かれなかったものたち”の内部には、熱の受け皿が残っていた。今、その空洞に、パンの香りが入り込んでいるの」
ノアの目に、光が差し込む。瞳の奥で、見たことのない光景が揺れた。
――鉄の台座。無数のレンズ。静かな火。
「……私、焼かれかけた。いえ、あの時、本当は焼かれるはずだった」
塔の壁が微かに揺れる。ノアの記憶が、“現在”とリンクしていた。
「神域の記録で、私は未完成体。“構造体・ノア”という名のまま、焼成処理が中断された……。感覚処理不能、香り対応不能……それが“欠陥”として処理されたの」
「でも、今、あなたは“香りを感じている”」
リディアが一歩近づく。
「焼き戻しが始まっているのよ。未完だったパンが、今、再び焼かれているの」
ノアは言葉を失ったまま、胸を押さえる。
ぷるるが、塔の床に展開した感知陣から数値を読み取っていた。
「……ノアちゃんの構造内部に、“焼き直しタグ”が浮いてきてます。これ、あの神が封印したタグのはずです。なのに今、香りがそれを強制的に“解凍”してる」
「神は香りを拒絶した。だから、焼くことも、焼き戻すことも“危険”とされた。でも……」
リディアが静かにパンを指差す。
「これは危険じゃない。ただの、朝食ですわ」
塔の内部に、ふわりと甘い香りが満ちた。
その瞬間、ノアの視界の奥にあったレンズの列が、ゆっくりと焦点を合わせていく。
見えてきたのは――あの日、焼かれかけた炉。
「私……あの場所にいた……誰かが私を、焼こうとしていた。でも、止められた。なぜ……?」
「その理由は、きっと神様の方にあるのでしょうね」
リディアの声に、空が再び軋む。塔の上、アクト=セカンド=コアが、香りの中でさらに異常をきたしていた。
「分類不能。再定義失敗。構造階層、同期解除。記録構造、転倒――」
ノアが目を見開く。
「パンが……神の記憶に……焼き跡を刻んでる……!」
「ええ。あなたと一緒にね」
香りが、再び塔の中心を満たした。
焼かれなかった記憶が、今、“焼き戻されて”いく。
パンの香りは、空にまで届いていた。
だが今やそれは、ただ“届いている”のではない。
神の記録層に侵入し、そこに記憶の歪みを刻み始めていた。
アクト=セカンド=コアはその変化を正しく理解できず、構造の最深にてバグの連鎖を引き起こしていた。
《構造照合失敗》
《感覚タグ:香り――侵入経路未特定》
《対象:焼成物、及びパンを焼く者》
《結果:文明秩序への反転侵食》
空間そのものがよろめいていた。
塔の周囲に張られた感覚制御網が崩壊し、香りは神域そのものを“上書き”しようとしていた。
「リディア様……これ、逆ですよ逆!!」
ぷるるが叫ぶ。
「文明がパンに侵略されてるんじゃなくて、神の方がパンに侵略されてます!! 香りに“感情”が含まれてるって認識されて、もう境界が崩れてますってば!」
「つまり、焼きたての香りは神の外部構造にとって、感情のウイルス……?」
「いえ、もっと悪質です……“愛着”です……!」
「なんて、めんどくさい事態かしら」
リディアは静かに炉の温度を下げた。パンはもう焼き上がっていた。余熱で、香りだけがなお立ち上っている。
その香りは、神のフレームを揺らしていた。
アクト:「再定義不能。焼成信号に対して“懐かしい”という未分類感情発生」
ノアの目が見開かれる。
「神が……“懐かしい”って……?」
「パンを焼いた記憶が……神にあるはずがないのに」
リディアが呟く。
「でも、きっとこれは**“焼かれなかったパン”の記憶**。否定されたはずの記憶が、香りとして“思い出されている”のよ」
アクト:「存在定義破綻。香り:意味不明。だが……記録外層より、安定感発生。情緒層に、波形の……温度感……」
ぷるるがぴくりと跳ねる。
「リディア様!? 神様、今“温度”って言いましたよ!? 感情じゃなく、温度で香りを分類しようとしてます!!」
「神にとっての“共感”が、パンの熱で焼かれ始めてるのね」
ノアが、微かに笑った。
「じゃあ……侵略されたのは、神の方……なんですね」
「ええ。“ただの朝食”に」
その瞬間、空のフレームがひとつ崩れた。
神の“感覚封鎖層”が溶け始めていた。
焼かれた香りが、世界を侵略したわけではない。
それはただ、“朝の香り”として、そこにあっただけだ。
けれど、神はその香りに負けつつあった。
神は、香りに耐えられなかった。
アクト=セカンド=コア。
かつて文明の全感覚を分類し、定義し、整理してきた存在。
その記憶構造が、焼きたての香り一つで、いまや溶けはじめていた。
塔の天井。空の裂け目に広がる神域は、もはやただの秩序空間ではない。
パンの香りが上昇するたびに、記録コードがバターのように崩れてゆく。
「ぷるる。状態は?」
「えっとですね……記録網がバグって“味覚層”と“神域定義層”が混線してます。構造神、今たぶん“自分がパンなのかもしれない”って思ってます!!」
「それはもう……神がパンに焼かれたということでしょうね」
ぷるるが悲鳴をあげる。
「パンの定義力、えぐすぎ!! 神の構造が“ふんわりした甘さ”に焼き直されてるんですけど!? 焼きたての熱って、そんな暴力的だったんですか!?」
塔の壁がきしむ。
神域の最外殻――“構造の外皮”が、ねじれるように波打っていた。空中に現れたのは、巨大な渦。
それは**“再構成”の兆しだった。**
アクト:「意味再編集中……構造再定義進行中……存在定義:変更提案」
ノアが目を見開いた。
「神が……自分の“意味”を変えようとしてる……!」
リディアがパンを手に取り、炉の前に立った。
「焼かれなかった記憶が、今、焼き直されてる。神がそれを拒めないのなら、もう“焼く”しかない」
「再構成の渦が構造の上から降りてます……! 文字通り、“上書き焼き直し”モードです! 神域そのものが“パンの香りで染まろうとしてます”!!」
「……美味しそうな神域ですわね」
「笑いごとじゃないですってばああああ!!」
塔の上空、渦の中心に、文字が浮かぶ。
《意味再定義:焼成――侵略ではなく、“共感”》
リディアは静かに言った。
「焼かれたものは、誰かのためのもの。それは共感であって、侵略ではありませんわ」
香りが風に乗る。
それはただの朝の空気のように、やさしく、あたたかく。
神は、その香りに包まれながら、自らの“構造”を焼き直していった。
神は、焼かれきった。
塔の上空に広がっていた構造の渦は、静かに収束を始めていた。
その中心にいたアクト=セカンド=コアの“目”は、もはや明確な焦点を持たなかった。
神は、記憶を失いかけていた。
ぷるるが塔の中でそっとつぶやく。
「構造神アクト……神域階層、記録スロットの多数が初期化されてます……パンの香りで脳みそバター化……いや、構造が“美味しい朝”に焼き直されました……」
リディアは、炉のそばにしゃがみ込むと、焼き上がったパンを取り出した。
ふわりと、やさしい甘みが塔の中を満たす。
「神に侵略されたとか、パンがバグを起こしたとか、いろいろ言われていましたけど……」
彼女は、パンをそっと掌に乗せ、空を見上げた。
「――これは、ただの朝食ですわ」
“目”のような意識が、ぐらりと揺れる。
アクト:「…………パンとは…………?」
リディア:「あなたの世界には、香りも、感情も、焼きたてという概念もなかった。だから今、それを定義する必要があるのでしょう?」
アクト:「…………パン…………記録外…………再学習要請…………パンとは…………」
ぷるる:「神様……“パンって何”って訊いてきてます……おしまいです……神、バター塗られてます……」
ノアは、ただその光景を見つめていた。目の奥に、焼き直された記憶がわずかに灯っている。
「これは、侵略じゃない。私は、この香りで、生き直せた。構造にとってバグでも、私にとっては……本当の朝です」
神の“目”が、ゆっくりと閉じていく。
《定義未完了:再起動待機中》
《香りの記憶、未処理ファイルとして保留》
《神、パンに敗れる》
塔の外、世界は静かだった。
神は、一片のパンの香りで記録不能に陥り、記憶の底へとフェードアウトしていった。
ぷるる:「あー……焼けた、いろんな意味で」
リディアは、焼きたてのパンをひとつ割り、ノアに差し出す。
「さあ、召し上がれ。これが、今日の“朝”ですわ」
ノアは、それを見つめてから――そっと、手を伸ばした。
パンの香りが、もう一度だけ、塔の空間をやさしく撫でていった。
ぷるるです!!第一章、無事焼き終わりました!!!
神、落ちてきました。
神、焼かれました。
神、パンに敗北しました。
でも、こうしてノアちゃんの中に少しずつ香りが入ってきて、
彼女が何かを“思い出せそうになる”様子を見て、
ぼくもスライムなりにちょっと……感動、しました。
次回、第2章――無香の少女と、機械の街へ。
感情なき街の中心で、また焼きます!焼くとも!