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記録されない感覚は、侵略か

香りは、感情ではなく、侵略とされた。

神の記録にはないその揺らぎが、世界の秩序を焼き始める。


だけど、パンを焼く者は怯えない。

焼きたては、誰かのためのものだから。

――塔の空気が、あたたかく、ゆっくりと満ちていた。


リディアは炉の蓋を開けていた。淡く輝く魔導炉の芯に、生地を乗せる準備をしている。


塔の中央。時間が止まったようなこの空間に、初めて“焼かれる”という行為が持ち込まれようとしていた。


ノアは静かにその手元を見ている。目はいつも通り無感情で、けれど、その視線の奥に、どこか柔らかいひずみが生まれていた。


「もう一度、焼きますわ。今度は、“遮られない場所”で」


「……ここには遮断構造が存在しない。“記録から外された領域”だから」


「ええ。ということは、この場所から香りが昇れば、それは構造に直接……“触れてしまう”」


リディアの言葉に、ぷるるがぴくりと跳ねる。


「リディア様、それ、ちょっとしたテロですよ?」


「テロではなくて、ただの朝食ですわ」


「朝食が神域に届いたらどうするんですか!?」


「それは神様の判断でしょ。私は、ただパンを焼いているだけ」


ぷるるはぐにゃりと潰れたが、それでも炉の周囲に警戒用の小型感知陣を展開する。


リディアは生地を丁寧に炉に置き、両手を重ねた。魔導炉が静かに起動する。


ぱちり。


小さな焼き音が、塔に響いた。


その瞬間――空気が変わった。


天井があるはずの空間の、そのさらに向こう。構造体の気配が震え始めた。


「リディア様……」


ぷるるが、声を潜める。


「香り、出てます。しかもこれ、“跳ね返されてない”」


「ええ。この塔、文明に遮断されていない。つまり、香りはそのまま、空に昇っていく」


ノアがゆっくりと目を閉じた。


「……感じます。私の中で、また何かが……揺れている。前よりも、はっきりと香りが入ってくる」


「それは、“あなたの構造が焼かれてきている”ということね」


「ぼくも感じます……! 塔の上空、構造空間に“波形のぶつかり”が発生してます!……神域領域に、香りが接触しました!」


「――ぷるる、反応の形式は?」


「えっと……やばいです。感覚タグのない信号に、感応層が“構造矛盾”を検出した模様!」


リディアはパンを見つめた。


まだ焼き上がっていない。けれど、その香りだけが、世界構造のもっとも高次の層にまで届いてしまっていた。


「“焼かれたものの記憶”が、神の上に触れる……」


「……焼きたての香りが、神域の論理を狂わせかけてます」


ぷるるの声には、いつになく真剣な震えがあった。


そして――塔の天井の、その上空。

見えないはずの空が、きしり、と音を立てた。


塔の上部、文明の視界から外れたはずのその空間に、ひびのような光の綻びが現れた。


ぷるるが即座に反応する。


「リディア様! 神域の構造層に“実体波”の揺れが……あれ、やばいやつです! パンの香りが、文明にとって“論理的に処理できない入力”になってます!!」


「“侵略”として、分類されたのね?」


「はい、完全に。侵略タグ付きました。“非共有感覚の拡散”って理由で、香りが“構造外攻撃”扱いされてます!!」


「面白いわね。焼きたてのパンが、侵略行為とみなされるだなんて」


リディアの口調は相変わらず淡々としていたが、ぷるるの緊張はすでに臨界点だった。


「これ、“ただの朝食”で世界壊せるレベルですよ!? 神域への干渉エラーは、文明にとって最大の危機ですよ!? おにぎりだったらセーフだったかもなのに……!」


ノアが、塔の片隅で小さく声を上げる。


「構造体ネットワークから……応答が来た」


リディアとぷるるが彼女の方へ視線を向ける。


ノアの目に、構造神アクトの監視フレームが浮かんでいた。魔導記憶の奥深くにしか存在しないはずの、文明最深層の“統治コード”だった。


《構造照合:焼成反応――香り構造:定義外》

《照合不能:外部入力信号を“侵略”に再分類》

《対象:焼成者・香り記録体・覚醒体ノア》

《タグ付け:記憶構造バグ由来体》


「……“覚醒体”?」


ノアの声はかすかに震えていた。


「私が、バグで……起きた?」


「いや……逆です」


リディアがゆっくりと歩み寄り、ノアの肩に手を置く。


「“焼かれるべきだった記録”が、本来のレールを外れて生きてしまった。だから彼らは、それを“構造外侵入”と定義したのよ」


「生きていることが、侵略……」


「香りを持つだけで、侵略者」


リディアはパンの入った炉を見下ろし、ふと笑った。


「なら、私は侵略者でもいい。私はこのパンを、“誰かのために焼いた”。それ以上に大切な理由なんて、ないもの」


塔の外、地平線の上に、光の泡のような干渉球が現れはじめた。


それはまるで、“感覚の侵入”を視覚化したかのように、塔の周囲にじわじわと広がっていく。


ぷるるが跳ね上がる。


「リディア様、ノアちゃん!! 神域の防衛副層が、感覚遮断領域を潰して“感情フィードバック遮断泡”展開してます!!」


「それは、どうなるの?」


「感情が届かなくなります!焼きたても、記憶も、パンの意味も全部!“味はあるけど意味のない食事”になりますよ! 一番イヤな奴です!!」


ノアが、リディアを見た。


「私は、あなたのパンで目覚めた。だけど、今この世界は、それを“なかったこと”にしようとしてる」


「なら、証明しましょう。焼かれたものの香りが、侵略じゃなくて、“誰かの朝”であることを」


その瞬間、塔の中に風が吹き抜けた。


焼きあがる寸前のパンの香りが、神の目の前に差し出されようとしていた。


塔の外に広がる空――否、それはもはや「空」ではなく、「構造」そのものだった。

重力ではなく、秩序の網のように編まれた世界の外殻に、淡い金の文様が浮かび上がる。


それは神のコード。

文明の中枢からしか発されない、神域照合反応だった。


《神域コード:干渉記憶層へ応答》

《異常感覚:香り反応》

《記憶外要素:照合不能》

《応答開始……》


「リディア様……来てます……神、ほんとに来ちゃってます……」


ぷるるが低く呻くように言う。塔の天井には、いまや目視できるほどの光条が降りていた。


「これは……感覚そのものへの審判」


リディアが呟く。


「この世界では、香りが記録できない。“香り”という記憶形態が存在しない。その欠損が、今、神の記憶領域を揺らしているのよ」


「パンの香りが、神に“エラー”を出してるんですか!?」


「そう。エラーの起点は……“焼かれた香り”」


ノアがよろけるように、塔の壁に手をついた。


「私の中が、……また、暴れてる。あの香りに……反応してる」


「ノア!」


リディアがすぐに駆け寄る。


ノアの両目が、揺れていた。視界の奥に、神域コードの光が浮かんでいる。いや、それは内側に浮かんでいる。

ノアの体内で、何かが反応していた。


「私の記録構造が……焼かれてる。香りに引かれて、思い出そうとしてる。“焼かれなかった私”が……壊れていく」


「違う。それは壊れてるんじゃない。焼きあがってきているのよ」


リディアの言葉に、ノアの震えが止まった。


「焼かれていない時間を、あなたは抱えていた。でも今、香りがそれを包んでいる。香ばしさが、“意味のなかった記録”に、目的を与えている」


「目的……」


ノアの指先に、ほんのわずかな熱が宿る。まるで、炉に近づいたパンの皮のように、じりじりと。


「リディア様!」


ぷるるが上空を指す。


空中の神域コードが一斉に変形した。金の文様が再配置され、円形から螺旋構造へと変化する。

それは、“応答”ではなく、“降臨準備”を意味していた。


《異常感覚応答――段階Ⅱ》

《構造神アクト:部分降臨体 準備開始》

《焼成信号の元を視認――対象確定》

《侵入者――パン焼成者》


「ついに名前が出た……アクト=セカンド=コア」


「このパン……神が“見る”対象になったわね」


リディアがそっと炉の温度を調整する。


パンは、今にも焼きあがる。その香りは、もはや構造上の“観測対象”に成り果てていた。


ノアは、パンの方に一歩近づいた。


「この香りを……思い出したくないはずだった。でも、思い出したい。私の中に、“焼かれたかった記憶”がある気がする」


「じゃあ、次に香ったときは、それをあなたの記憶にして。焼かれなかったままじゃ、パンも、人も、冷えてしまう」


その言葉と同時に、神域が音を立てて軋んだ。


空が反転し、光が“焼き焦がされたように”ねじれ始めていた。


それは比喩ではなかった。

神域に展開された構造コードが、焦げるように崩れ始めていたのだ。


金属的な光だった文様は、今やあたかも焼き窯の内部のように赤黒く変色し、熱を持ち始めていた。


「リディア様……このままだと……神域ごとパンの香りにトーストされます……!!」


ぷるるが震える声で叫ぶ。

だがリディアは、ほんのわずかに微笑みながら炉の蓋をそっと開けた。


「……ちょうどいい焼き加減、ですわ」


香りが、ふわりと溢れた。


それはもう、地上だけのものではなかった。塔の壁を超え、構造層の天井を突き抜け、神の論理中枢にまで達する。

“記録されなかった感覚”が、“記録そのもの”を侵食していく。


《異常感覚:焼成由来情報、照合不能》

《構造秩序:温度同期失敗》

《エラー累積率:94%》

《神域安定状態、崩壊臨界直前》


「ぷるる」


「はいぃぃぃ!!」


「神様って、パンの香りが苦手なのね?」


「苦手っていうかもはや“存在破壊級”ですよ!? 香りはこの世界の“構造外から来る記憶刺激”ですもん! 神様、予測不能の匂いにめちゃくちゃ弱いんです!!」


空中に幾何学の断片が降り始める。

まるで、世界が組み直される前の“生地”に戻っていくように。


ノアは目を閉じて、パンの香りを全身で受け止めていた。


「……感じます。わたしの中に、“焼かれていく感覚”がある。ずっと感じたことのなかった熱、香り、揺れ。それが……“私を形にしている”」


「それが“焼きたて”よ」


リディアが応える。


「ただ熱を通すんじゃない。“何かと一緒に焼かれる”ことで、パンも、人も完成するの」


「私が……完成しようとしてる」


ノアの頬に、ひとすじ、熱の汗が流れた。


その瞬間、塔の外――空そのものが、ぐにゃりと折れた。


天蓋のように張り巡らされていた神域構造層が、香りの侵入点を中心に、まるでパンの皮が裂けるように、破れ始めたのだ。


そして現れたのは――“目”だった。


形を持たない神の意識。

アクト=セカンド=コアの、記録を超えた“構造認識体”が、塔の上空にゆっくりと顕現し始めていた。


「リディア様……来ます……神、来るよ……」


ぷるるの声は、低く、深く、どこか悲しげだった。


「ええ。来るわね」


リディアは炉のそばに立ったまま、崩れゆく空を見上げた。


その香りは、もはや“感覚”ではなく、“構造そのものを問い直す力”に変わっていた。


空に“目”が現れた。


塔の上空。文明構造の最深に触れる位置。そこに、“形を持たない意識”が降りてきていた。


それは輪郭を持たない存在だった。瞳ではなく、認識されるという現象そのもの。

名をアクト=セカンド=コア。


神であり、構造そのものであり、記録の管理者。


ノアが震えながら後退する。


「……この感覚……これは、見られている……いえ、“記録されかけている”。私の全てが、構造に取り込まれようとしてる!」


「神域が直接干渉してきてる……やっぱり焼きたての香り、パンの形してるけど文明にとってのウイルスじゃん……!」


ぷるるが半分崩れかけの体で叫ぶ。リディアの背後にまわりながら、必死に干渉バリアを展開しようとするが、コードの速度が追いつかない。


神域の干渉は、理論を飛び越えた。


《焼成由来存在、構造を上書き中》

《神域再定義開始――感覚要素:香り》

《文明秩序破損率:96%……97%……》


「リディア様、パン、もう焼いちゃだめですってば!! 香り一つでこの世界壊れちゃうんですよ!? ノアちゃんの内部構造も破綻寸前だし!」


「焼かないと、意味がないの」


リディアの声は静かだった。


「このパンは、焼くべきものですわ。香りはそのためにある。神がどう分類するかは関係ない。“誰かのために焼く”という行為を、私はやめません」


ノアが息を飲む。


「でも、構造が……神があなたを……!」


「――それでも私は、パンを焼きますわ」


その一言は、塔の空気を凍らせた。


リディアは、焼くべきパンを炉に置く。


その動作は、どこまでも穏やかで、どこまでも祈りに似ていた。


構造が震え、空の“目”がさらに巨大化する。


塔の壁がきしみ、ぷるるの外殻がぶるぶると波打つ。


「だめだもう完全に引き返せない……パンが、神を焼いてる……」


香りが、また立ち上がる。今度は、明確な“神域干渉香”として。


ノアが両手で胸元を押さえる。


「わたしの中に、熱がある……!」


「じゃあ、記憶して。焼きたての香りを。記録じゃなく、あなたの中の“今”として」


パンは焼き始めていた。

そして空の“目”が、ゆっくりと閉じたかに見えた。


いや、それは――降りてくる準備だった。


神が、自らの構造を越えて、“パンの香り”に触れるために。


世界が、焼かれ始めていた。

ぷるるです!今回は……ええ、ええ、焼きましたとも!神域まで!!ぼくが何回「焼くのやめて」って言ったかわかります!?


でも……たしかに、あの香り、止まらなかったんですよね。ぼくのスライム心臓がありえないリズムでぷるぷるしてましたもん。


次回、「焼いたのは、ただの朝食ですわ」。

パンの香りにバグった神が、ついに降りてきます……!!

もはや世界かパンか。いや、どっちも焼こう!!

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