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焼きたてを知らない目

パンは焼けば完成するわけじゃない。

香りが出て、誰かに届き、誰かの記憶に残って、はじめて“焼きたて”になる。


今回は、まだ焼かれていない少女と、焼かれることを知らない塔の話。

――風がゆるやかに吹いていた。


村を追われたふたりと一匹は、村から数百メートル離れた草原の丘で、簡単な朝食を囲んでいた。


朝日が低く、柔らかな角度で世界を照らしている。焼かれたパンの香りが、今度は妨げられることなく、空気の中を素直に漂っていた。


ノアは、両手でパンを抱えていた。


リディアがあのとき焼いた、あの丸いふくらみを持つパン。表面はカリリと焦げ目を帯び、内側はまだほんのり温かい。


「……食べて、いいの?」


「もちろん。“焼く”というのは、“誰かに渡す”ってことでもありますから」


リディアが穏やかに答えると、ノアはしばらくパンを見つめ、それから静かにかじった。


──くちゅっ


歯が通った瞬間、ノアのまぶたがわずかに動いた。


「味は……あります。熱も、密度も、食感も……“焼かれたもの”の特徴を、満たしている」


「それなら、十分よ」


「……でも、足りない」


その言葉に、ぷるるがむくりと立ち上がる。


「おっ……来ました、“足りないもの”案件。哲学パンですね、リディア様」


「やめてちょうだい、ぷるる。私はパン職人ですわ。焼くことに信念はあっても、哲学者のつもりはないのよ」


そう言いながらも、リディアはノアの表情を注意深く見つめていた。


ノアは、かじったパンの切断面をじっと見つめていた。


「熱は通っているのに……なぜか、時間が“流れていない”気がする。焼かれたものは、変化するもののはずなのに。これは、変わらない」


リディアは少しだけ、視線を伏せた。


「“焼かれる”っていうのは、単に火が通ることじゃないの。生地が膨らむのも、香ばしくなるのも、もちろん大事。でも、“焼きたて”にはそれ以上の何かがある」


「それが、何かは……言葉にならないの?」


「なるかもしれない。でも、あなたに通じる言葉である自信はないわ」


「試して」


リディアは一瞬だけ、言葉に詰まり、それから空を仰ぐ。


そして、少しだけ微笑んだ。


「“焼きたて”には、出来立ての味とは別に、“焼いた人の時間”が含まれている気がします。作った側の意図、気温、その日の感情……それらが、温度と一緒に残ってるの」


「……感情」


ノアの目がわずかに動く。


「感情は、私の中では定義されていない。記録されない」


「でも、それを“足りない”と感じてるのよね?」


ノアは答えなかった。ただ、パンをもう一口だけ、そっとかじった。


風が吹き、パンの香りがふたたび、空に舞った。


リディアはその香りを嗅ぎながら、そっと呟いた。


「火が通っても、焼かれたとは限らないのよ。パンも、人も」


ノアの指が、かすかに震えた。


リディアの言葉は、草の上にそっと置かれたように軽やかだった。けれど、その響きはノアの中で長く残った。


ノアは、食べかけのパンを両手に持ったまま、再びリディアを見る。


「“焼かれたことがある”という記憶は、私の中には存在しません。……でも今、言われた言葉が、“ある”かもしれないという可能性を生んでしまいました」


「それは、記録の破損?」


「いいえ。思考のほうが揺らいでいます」


ぷるるが、ぴょこりと跳ねて会話に割り込んだ。


「そう、それ! それですよノアちゃん! 焼きたてってのは、まさに“揺らぎ”なんです!」


「……揺らぎ?」


「記録って、固定されるでしょう? 状態を保存しておくっていうのが前提。でも、“焼きたて”ってのは、固定されないんです。温度が変わって、香りが逃げて、形が崩れて、心にだけ残るんです」


ぷるるの身体がゆらゆらと揺れながら、小さな声で続ける。


「焼きたてって、“感情と時間の交差点”なんですよ。パンが焼かれた“その時”、焼いた人がどんな気持ちだったか、それがパンの温度に入り込んで、その瞬間にしかない状態になる」


ノアは、じっとそれを聞いていた。


「感情と……時間」


「そう。“記録されない感情”が、時間の流れの中にだけ一度だけ立ち上がって、それが“焼きたて”を構成してるんです」


「……記録されないものが、感覚を生む」


ノアは目を閉じた。まぶたの裏で、何かがきらりと反射するような気配がした。


「……わたしの内部構造は、記録を最優先に設計されている。けれど、その枠に今、思考が収まらない。感情と時間が交差する点を定義しようとして、定義に失敗しています」


「うわ、処理落ちしてる!? ノアちゃん!? 言語化中にオーバーヒートしてません!?」


ぷるるが慌ててノアの額に触れようとするが、ノアはそれを手で制して、静かに首を横に振った。


「大丈夫です。ただ――初めて、“定義できない思い”に、触れた気がします」


「……それで、少しだけ理解できそう?」


ノアは小さく、こくりと頷いた。


「“焼きたて”とは、記録に残らない状態。感情と時間が重なり合った、そのときだけの現象。……その存在は、私にとって明確な“不具合”です。でも、なぜか――その不具合が、心地よい」


リディアは、やさしく微笑んだ。


「なら、その“不具合”を、もっと体験していきましょう。パンなら、毎日焼けますわ」


「……焼いてください。私の知らないものを」


ノアの目が、初めてほんの少しだけ柔らかく揺れた。


その瞬間、どこかで風が変わった気がした。


それは、“記録”ではなく、“変化”の予兆だった。



――風が変わった。


草の葉が擦れ合い、小さな音を立てる。ノアはその風の音に、しばらくじっと耳を澄ませていた。


「……リディア」


名を呼ぶその声は、どこか奥深い底から引き上げられたような響きだった。


「“焼かれていた”音を、聞いたことがある気がします」


「いつの話?」


「……わかりません。記録には、残っていない。でも、“確かに香っていた”という感覚が、断片的に……」


ノアは掌をパンから離し、両手を胸の前にかざした。


「熱と音と、柔らかい風。それが、どこかで……わたしに届いていた」


リディアが少し目を細めた。


「記録には、残ってないのね?」


「はい。探しても見つからない。でも、“記録できなかった”というより、“記録されないようにされた”気がします」


「なるほど。それは興味深いわね」


リディアがそう呟いたとき、ぷるるがぴょんと跳ねて立ち上がった。


「よし、スキャンします!」


「えっ、なにを?」


「ノアちゃんの内部構造です!さっきの話で確信しました。この子、絶対どっかイジられてる!! 記録構造に“香りだけ封じる処理”が入ってるって、どう考えてもワザとでしょ!!」


「ぷるる、無理のない範囲でね」


「もちろんですとも。ぼくは紳士スライムですからね!」


ぷるるはノアの肩に飛び乗ると、ゆっくりと透明な体を彼女の背に沿わせる。細く繊細な探査魔法が、ノアの記録構造にアクセスする。


「うん……うんうんうん……ああ~~~はいはいはいはい……!」


「ぷるる、その“はい”が不安になるのよ」


「確定しました! ノアちゃん、香りだけが“記録遮断フラグ”で物理的にロックされてます。しかもこれ、かなり複雑な多重構造……自然な設計じゃありません!人工的に、あとから“焼きたて”の記憶を消されたんです!!」


「……誰に?」


リディアの問いに、ぷるるは小さく震える。


「これは……設計パターン的に、“神造記録体”クラスの技術です。つまり……」


ノアが、ふと目を伏せた。


「私の創造主は、香りを記録させなかった。香りを、感じさせないように……」


「でも、それでも――あなたは、今、“香った気がする”と言った」


リディアは言葉を重ねた。


「それは、あなた自身が焼かれていないのに、“焼きたて”を知ってしまった証よ」


「……私は、焼かれなかった。そう造られたはずだった。でも……あのパンの中に、“知らない記憶”が入り込んできた」


「知らない記憶、じゃないわ」


リディアは小さく首を振った。


「それは、“思い出したかったもの”。ノア、あなたが“焼かれなかった”ということ自体が――この世界の、大きな矛盾なのかもしれない」


その言葉に、ノアの目がかすかに揺れる。


揺らぎは、もう止められない。


風は、再び、パンの香りを連れて吹いていた。



風は、まだ香りを運んでいた。


その匂いに、ノアがゆっくりと顔を上げる。


「思い出したわけじゃない。だけど……ひとつだけ、ずっと気になっていた場所があります」


「どこ?」


「村の記録に載っていない場所。誰も話題にしない、誰も近づかない。けれど、“何かが焼かれかけて止まった場所”のような気がするんです」


リディアは視線を鋭くした。


「記録されていない……その時点で、“異常”なのよね。この文明において」


「案内します。きっと、そこに“焼かれなかった理由”がある」


ノアはそう言って、立ち上がる。パンを抱えたまま、草の向こうへと静かに歩き出す。


ぷるるが小声でつぶやく。


「リディア様、これって……第七層とか、禁域に近づく予兆じゃないです?」


「ええ。でも……この子の“焼かれていない部分”が、そこに置かれている気がするわ」


リディアもまた、立ち上がった。


ノアに導かれるように、丘を越え、茂みを抜け、村の裏手へと向かう。


やがて――草が途切れ、赤茶けた石畳が露出し始める。

その先に、ひときわ黒ずんだ塔が見えた。


「……あれが、“廃塔”」


ノアが呟く。


塔は二層構造で、上部は崩れかけていた。外壁には苔が絡みつき、構造体で使われるはずの魔術文様もまったく見当たらない。記録から外されたものであることが、視覚的にも伝わってくる。


「この塔……香りが、抜けてる」


リディアは呟く。


「空気が、逆流してるみたい。普通なら“焼かれた”空間には、温度の記憶が残っているのに、ここにはそれがない。むしろ、“抜き取られた”痕跡がある」


「ぼく……ちょっと気持ち悪いです。ぷるぷるしすぎて……ぶるぶるになりそう」


ぷるるが身体を縮こまらせる。


ノアは、塔の扉に手をかけた。木製のそれは風化しており、触れただけでぎぃ、と重たい音を立てて開いた。


内側は暗く、冷たかった。だが、足を踏み入れた瞬間、確かに“何かが焼かれかけていた”香りが残っていた。


「……ここは」


ノアの声が震える。


「私が……焼かれるはずだった場所だと思います」


リディアは、塔の奥に視線を向けた。


そこには、同じような人型の記録体が、いくつも安置されていた。


金属と樹脂と繊細な魔術線が絡むその姿は、どれも未完成だった。


「“焼成されなかった記録体”……?」


リディアが呟くと、ぷるるが震えながら言った。


「リディア様……この子、“焼かれる前のレシピ”です……!」


その言葉に、塔の空気が――ほんの一瞬だけ、香りを生んだ。


だが、それはすぐにかき消された。


ノアは、まるで自分の身体をあずけるようにして、塔の中央へと歩み寄っていく。


そこには、人のかたちをしたものたちが、静かに並んでいた。


いずれも未起動。無機質な面持ち。目は開いておらず、どこか“未定義”のまま時を止めていた。


「全部で……七体。どれも、私と似た構造です」


ノアが立ち止まり、最も古びた一体に触れた。


「でも、わたしだけが起き上がった。なぜ私だけが“起動”し、他は“焼かれなかった”まま眠っているのか……その理由は、記録にありません」


リディアはその横顔を見つめながら、パンの袋を開いた。


「それはね、ノア。レシピだからよ」


ノアがゆっくりと顔を向ける。


「……レシピ?」


「レシピは、焼かれる前の記録。食材や分量は書いてあっても、焼かれて初めて“パンになる”。あなたは、“焼かれる前のレシピ”だったのよ」


その言葉に、ノアの指が、塔の石床の上でかすかに震えた。


「わたしは、パンではなかった。けれど……今、焼かれつつある?」


「ええ。焼かれるというのは、誰かと時間を共有すること。“焼きたて”になるには、時間と感情が必要なの」


ぷるるがぽつりと補足する。


「この塔に残ってる記録体は、たぶん全部“焼かれる直前で止められた”存在です。焼いたら、香りが出てしまうから。文明的に、それを拒絶した。……でも、ノアちゃんだけが焼かれかけて、そして今、リディア様に出会った」


「私は……」


ノアが膝をつく。


「私は、“焼かれなかった私たち”の代表として、起動させられた?」


「あるいは――その中で唯一、“焼かれることを望んだ”からかもしれないわ」


ノアの指が、胸元のパンへと伸びる。


「このパンの中に、“私にないはずの香り”がある。記録されていない、けれど消えない」


「それが記憶よ。そして、あなたの中で今、**“焼きが始まっている”**の」


塔の中に、静かな熱が立ち上がるような気がした。


ぷるるはその中心で、小さく、けれどはっきりと呟いた。


「……焼かれなかったものたちへ、パンの時間が届いてる……」


リディアは炉に手を置いた。


塔の奥で、香りにならなかった時間たちが、微かに呼吸を始めていた。

ぷるるです!いや〜、ノアちゃん、ついに“焼かれ始め”ましたね!感情と時間の交差点とか、ぼくが言ったわりにはこっちのほうが感情揺さぶられてるんですけど!?


塔の中にいた“焼かれなかった記録体”たち……あれ、絶対今後なにかありますよね!?フラグ立ちすぎてて、ぷるる胃液が出そうです。


次回、「記録されなかった感覚は、侵略か」。パンの香りが、ついに神域に触れます。文明と神、パンと少女。戦争の火種が焼き上がるのか!?お楽しみに!

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