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ノアのパン、未来に焼かれる

香りなき都市《エル=ロズ》に入り、すべてが均一に定義された世界に触れたノア。

焼かないことが当然とされる街で、リディアが最初に焼いたパンは、微かな動揺を呼び起こす。

そして今度はノア自身が、誰かのためにパンを焼こうとしています。


焼くという行為に、意味がなくても。

香りが、記録されなくても。


“誰かに届けたい”という思いだけで、彼女は手をのばした。

ノアは、小さな布袋を抱えていた。

その中に入っているのは、麦。リディアの魔導炉からもらった、焼かれていない種。


都市《エル=ロズ》の中心から少し外れた場所――石畳の隙間に、ひとつだけ緑が芽吹いている。

香りに触れて、地面の情報制御がゆるんだのかもしれない。


「……この麦で、パンを焼きたい」

ノアはぽつりと呟いた。


「理由は?」と、隣のぷるるが尋ねる。

その声には、からかいでも皮肉でもない、純粋な問いが含まれていた。


ノアは首を横に振った。

「……うまく、説明できない。でも、焼いてみたいの」


ぷるるはまんまるの身体を揺らすと、まるで納得したように跳ねた。

「それでいいぷる。ボクら、今までずっと“説明できないもの”の話してきたし」


ノアの指先は慎重に麦を取り出し、水で湿らせ、火で炙るわけでもなく、炉にかける準備を進める。

リディアは何も言わず、少し離れた場所で見守っていた。


「……やっぱり緊張する。火が入ったら、もう戻せない」

ノアがふとつぶやくと、リディアの声が風に乗って届いた。


「パンとは、そういうものですわ。“戻れない”からこそ、焼く意味があるんですのよ」


ノアは炉の前に立ち、深く息を吸った。

風は香らなかった――まだ。けれど、その空気の中に、何かが変わりはじめている気がした。


ノアは、火が入る直前の炉の前で立ち尽くしていた。

火口に手を伸ばしかけては、止まる。炉の中では発酵した生地が、まるで静かに脈打つように膨らんでいた。


「ねえ、ノア」

ぷるるがぽてぽてと跳ねながら近づいてくる。


「なんで焼くの?」


素朴な質問だった。だけど、ノアはその言葉に立ち尽くした。


「……」


沈黙のまま、視線を落とす。

理由――それは、リディアがそうしていたから?

パンがあたたかかったから?

誰かが“私のために”焼いてくれた気がしたから?


でも、それを言葉にすると、全部、どこか違う気がした。


「――わからない」


やっと出てきた言葉は、それだけだった。


「うん。いいと思うよ、それで」

ぷるるが小さな声で笑った。

「ノアはずっと“説明できないもの”を探してたし。焼く理由も、たぶんそうなんだよ」


ノアはゆっくりと頷く。

目を閉じて、あの日リディアが焼いてくれたパンの香りを、もう一度思い出そうとする。


胸の奥が、すこしだけ、熱くなった。


そのとき――


「説明がつかないからこそ、焼くのですわ」


リディアの声が、どこか舞台の上のように響いた。


「理由が先にある焼きたてなんて、きっと味気ないですもの。“ただ焼きたかった”で充分ですわ」


ノアの胸に、またひとつ、火が灯った。


彼女は炉に向き直る。

もう手は止まらなかった。


炉の中で、ゆっくりと火が回っていく。

ノアの手で焼かれたパンが、こんがりと表面を色づかせ、やがて――


ふわり。


風のようなものが、広場を横切った。

風というより、“その場に在る”ものが広がったという方が近かった。


香り。

確かに、焼きたてのパンの香りだった。


それは、ノアが焼いたパンから確かに発され、かすかな熱とともに都市の空気に混じっていった。

構造都市《エル=ロズ》の中央制御装置が、一斉に反応する。


「定義外の拡散性変数検出。識別不能の熱風情報体。記録不可――」


ノアの焼いたパンが、“都市の中枢”に、はっきりとノイズを与えていた。

そのパンを前に、またひとり、こどもが立ち止まった。


「これ……あったかい……?」


その子の手が、パンに触れた瞬間、感応装置が警告を発する。


「共通認識網に逸脱反応。全端末へ再同期信号送信――」


だが、広場の反対側ではすでに、もう一人の住民が鼻をくんくんと動かし、微笑みかけていた。


ノアの手元のパンが、誰かの心を、記録を通さずに“揺らした”瞬間だった。


「……誰かのために焼いたら、届くんだ」


ノアは、自分の胸にそう言い聞かせるように、炉の蓋をそっと閉じた。


空気が色づいていた。

いや、厳密には空気ではない。

香りが、記録できないはずの“情景”を描いていた。


ノアが焼いたパンの周囲で、微かに色が変わっていく。灰色の歩道に、淡いオレンジ色のひだまりが差したような――

あるいは、なにかの記憶が染みこんだかのような。


「警告:構造データに非定義変数が混入。排除処理を試行――失敗」


都市の情報中枢が、記録不能な“あたたかさ”を、初めて異常と認識した。


それは、焼かれた香りが“誰かの記憶”に届いたことを意味していた。


「これ、なんのにおい?」

小さな女の子がパンを抱え、首をかしげる。


「“におい”は不確定語です。定義表を提出してください」

すぐ横の端末が応答する。


でも、女の子はきょとんとした顔のまま、言った。


「……でも、なんか……“うれしい”」


その言葉に反応し、都市の秩序中枢に接続されていた全感情フィルターが一瞬だけ“未定義値”を返す。


「定義不能データ確認:感情因子 “うれしい” に対応する初期構文を検索中……」


だが、検索結果は、出なかった。


ノアは、それを見て、少し笑った。


「記録されなくても、こうして残るなら……」


パンの香りが、またひとつ、風に乗った。


焼きあがったパンの香りが、広場に溶けていた。

今度はノアが――焼いた。


はじめて自分で、生地を捏ね、手を添えて、火を見守り、香りを立たせた。

その香りは、記録されない。

記録できない。


でも、今、この瞬間に、確かにここに在った。


「制御中枢に警告。構造内データ圧に“記録されない拡散因子”の侵入を検知」


都市の防衛装置が微かに光るが、動作しない。

異常は検知されているのに、それをどう定義すればいいのかが、わからない。


ぷるるがつぶやく。

「香り……って、コードじゃなくて、“場”なんだよね……空気の“間”っていうか……」


ノアは、そっと焼きたてのパンを、焼き台から手に取った。

両手で包むように持ち、その温度を感じている。


その時だった。


灰色だった都市の建物の壁に、一筋の“色”が走った。

焼かれたパンの色――あたたかな、きつね色。


そして、まるでその色に反応するように、誰かの声が聞こえる。


「……こんなに、あったかいものがあったなんて」


リディアが一歩、ノアの隣に歩み寄った。


「ノア。あなたが焼いたパン、ちゃんと届きましたわ」


ノアの手の中で、パンがふわっと香る。

香りは風にのって、都市の角を曲がり、建物の隙間に潜り込み、まだ出会っていない誰かへと届いていく。


エル=ロズに、色が戻っていた。

ノアちゃん、ついに! 自分の手でパンを焼いちゃったね~!

リディアに任せっぱなしだったあの頃から比べたら、大きな一歩ですなあ……うんうん、じーん。


でもね、ここ、《エル=ロズ》ってのはただの都市じゃないの。

定義だの記録だの、そういうのでぜーんぶ回ってる“超・お堅い世界”なんだよね。

そこに、“香り”っていう記録できないモノを持ち込んじゃったら……?


そりゃあ、もう……バグるよね!


次回はいよいよ、パンと香りと、そして“だれのものでもない想い”が、都市全体を変えちゃうかもしれないよ。

焼きたてパンのラストスパート、ぜひご賞味あれ~!

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