構造外存在、起動準備
香りとは、記録されず、構造にすら刻まれないもの。
しかし、その“記録されなさ”こそが、時に神よりも深く誰かの中に届く。
今回描かれるのは、「焼かれぬ神核」という記録文明の極点。
香りを拒んだ文明の最終機構が、ついに目覚め、ノアとリディアに接触を始めます。
けれど、“保存”と“証明”は、似て非なるもの。
ノアが初めて「自ら焼かれたい」と願ったその想いは、神核の精密な構造すら揺るがせる、一片の香りとなって世界に放たれました。
香りが残らない都市《エル=ロズ》。
そこに向かって歩み始める直前の、心の温度をぜひ味わってください。
神核は黙っていた。
一切の応答を絶ち、空間演算の最深部へと沈黙したまま。
代わりに、村の空へと浮かんだのは、黒く蠢く“記録樹”の幻像だった。
無数の構造線が縦横に走り、記憶の断片を列挙するように枝を分けていく。
ぷるるがリディアの肩に跳ねて、ぴたりと止まった。
「これ……いよいよ“最終構造外記録”を掘り返そうとしてるよ。
あれ、神核が最後に封じてる“自分でも演算不能”な記録領域」
リディアは焼き網をふと伏せ、空を見上げた。
「つまり、“香りが入り込んでしまった記録”を、いま探し出しているのですわね」
「うん。存在するけど、構造に入れなかったやつ。
記録の“外”に置かれた……“棲まない感情”。」
空間が歪む。
神核の周囲に一瞬、白黒反転するかのようなエリアが生まれ、
そこから、音も意味も持たない“古い祈りの断片”が漏れ出した。
「記録不能情報:兆候確認。
対応プロトコル存在せず。
補完措置:――“構造外存在”起動準備」
ぷるるの触手が震えた。
「……きちゃう。リディア、これ、来ちゃうやつ。
神核じゃ処理しきれない。だから――」
「“記録の外”を、呼び寄せるのですわね」
リディアの声が静かに冷えていく。
そして、空が割れる。
黒い縁取りをもつ光の裂け目――その奥から、名もない都市の構造図が、ひとつずつ顕現していった。
空に浮かんだのは、都市の“設計図”だった。
地平線の向こう側――誰も見たことのない場所の、まるで生きた機構のような構造体。
それは立体的で、すべてが閉じていた。
空も、地も、流れも、すべてが無臭で、無音で、完璧に“定義されていた”。
神核の声が再び動き始める。
「構造外文明体、識別信号確認。
指定コード:EL-RZ-Ω
登録名――『名を持たぬ都市《エル=ロズ》』」
その響きに、空気が一段と冷たくなる。
ノアが言葉を失い、ただその幾何学の都市の姿を見つめていた。
「“名を持たぬ都市”……?」
ぷるるがぽつりとつぶやく。
「それ、もしかして……香りが、最初から存在しなかった場所かも。
焼かれることも、記録されることも、許されなかった構造体……」
ノアが震えながら、一歩、リディアの後ろに隠れた。
リディアは目を細め、静かに言った。
「焼かれる前に設計され、焼かれる必要がないとされた、都市ですのね。
理想の保存。……でも、それはつまり、“永遠に焼かれないまま放置された”ということ」
神核が続ける。
「文明指標より逸脱する存在、観測。
起動許可、構造外存在群αへ転送完了。
次段階:統合適応処理――対象:この地」
空が揺れた。
構造という言葉ではとらえきれない、もっと大きな“何か”が、地平線の向こうから起動を始めていた。
ノアは、胸に抱いたままのパンを見下ろす。
焼きかけの、でもまだ温かい、その感触だけが、ただ一つ確かなもののようだった。
ノアはその場に立ち尽くしていた。
眼前に広がる「名を持たぬ都市」の設計図、
その完全さに圧倒されながら、彼女の指先は微かに震えていた。
神核は依然、上空で命令を繰り返していた。
「構造外存在、起動。
香り因子の再出現確率、除外不能。
排除対象:香りを選び取った者」
その声が、ノアの耳に直接差し込んでくる。
「……私……選んだんだ……」
ノアはぽつりと呟いた。
「焼かれたパンの香りに、涙が出た。あの時の……温かさを、忘れたくないって思った。
それを感じた私は、もう“記録されない”ままじゃいられない……」
彼女は胸元のパンを強く抱きしめた。
冷めかけたそれに、残る余熱を確かめるように、額をそっと寄せて言った。
「だから……だからわたしは、焼かれたい。
わたしの中にも、“誰かのために焼いた”って香りを、灯したいの……」
リディアがゆっくりと彼女の隣に立つ。
「自分の意志で“焼かれる”ことを望むなんて――
それはもう、あなたが香りを“届ける者”になったということですわ」
ノアは振り返る。
リディアの目は真っ直ぐだった。
優しさと厳しさのちょうど中間にある、まるで炎の芯のような眼差し。
ノアはそっと頷いた。
「……焼いて。わたしを」
リディアは微笑んだ。
「ええ、でも、焦がさないように気をつけませんとね。
焼きすぎると、香りが飛んでしまいますから」
香りは、ただの記録じゃない。
誰かが、誰かのために手を伸ばす、その瞬間にだけ生まれるもの。
ノアの中に、初めて“焼きたい”という想いが灯った。
リディアは一歩、神核に近づいた。
頭上に浮かぶ巨大な光輪――それは無音のまま、世界の構造を観測し続けていた。
ノアの言葉に対して、神核は何も返さなかった。
だが、空間には確かな圧が満ちていた。
排除も接続も行わず、ただ“待っている”。
リディアは手元のパンを掲げた。
焼きたてではない。ほんのりと温もりを残した、香りの緩やかな残骸。
「あなたの構造は、確かに美しい。
すべてを記録し、すべてを保存し、失われない形で残す。
でも――」
パンから立ちのぼる一筋の湯気。
空間の演算ラインが、わずかに乱れる。
「それは“焼きかけ”ですわ。
あなたの世界はまだ、焼き上がってはいない」
神核が低く、そして初めて揺らいだような反応を見せる。
「意味不明表現検出。
焼き上がり――非構造定義語。
解釈不能……」
「焼き上がるというのは、焦がすことじゃありませんわ」
リディアは静かに語る。
「焼き上がるとは、誰かの想いが、形になる瞬間のこと。
香りはその証。
あなたがいくら情報を整えても、想いは“構造”の外にあるのです」
沈黙の中で、神核の外縁が微かにひび割れた。
ノアがそっと前に出た。
「なら、私は……焼かれた香りのまま、歩きます」
神核は最後に言った。
「次段階。
対象都市指定:EL-RZ
構造外因子、観測対象として一時保留。
香り――記録不能要素として……処理、停止……」
そして、神核の光は、ふ、と沈黙した。
神核の最終演算ラインが、空にほどけるように消えたあと、
ひとつのデータ断片が、ぷるるの前に舞い降りる。
それは、見たことのない都市の外縁図。
その中心に、名もなき印がひとつ、焼き付いていた。
ぷるるがつぶやく。
「この光……なんか、焼かれるのを待ってるって感じがする……」
ぷるるです~!はい、でました~!香りがデータになるのか!?なりませんでしたー!!
いやほんと、神核さんよぉ、そっちは完璧に記録して満足でも、
こっちはパン一個で感情がパンパンなんですけど!?(パンだけに)
それにしても、ノアちゃんの「焼かれたい」発言は、正直わたしちょっと泣きました。
……いや、スライムは涙出ないけどな!?気持ち的にね!ね!
そしてそして、ついに名前が出たね、《エル=ロズ》!
焼かれない、香らない、記録されるだけの都市――え、それパン食べるの?おいしいの?
次回からは、その“焼かれなかった文明”との激突が始まる予感ぷんぷん!
あったか~いパンと一緒に、ぜひ見届けてね!




