香り、定義される危機
“香りを保存する”。
それは、人々の記憶を助ける試みか、あるいは感情そのものを模倣する暴力か。
村に設置された擬似香装置が見せた“便利な幸福”に、
ノアとリディアは違和を感じ始めます。
神核が提示する「焼かれなくても良い世界」――
それに、パンを焼く者はどう応えるのか。
記録と感情、保存と消失。
この第23話は、“焼かれること”の本質に、ノアが初めて触れ、
“選ぶ”という行為の尊さがひとつの形を持つ転機となります。
それは、焼かれた香りではなかった。
けれど、香りの“ようなもの”だった。
村の広場に設置された淡い銀色の装置――その中枢から、
ほのかに甘い、小麦のような、かすかに焦げた香気が吹き出している。
「うわぁ、すごい……!」
「まるで本物のパンみたいだ!」
村人たちが、集まり、笑っていた。
無表情だったはずの彼らの顔に、薄く微笑みのようなものが浮かんでいる。
神核が告げる。
「香気再現率:92%。構造内記録データとの整合性確保完了。
この香りは、いつでも嗅げるよう記録されました」
リディアは、ただその様子を黙って見つめていた。
その視線の先で、パンを焼くための炉が――
かすかに、煙を上げていた。
ノアが、リディアの隣に立つ。
「ねえ……あれって、“焼いた香り”じゃないんだよね?」
「ええ」
リディアは小さくうなずいた。
「焼かれたものは、保存できませんわ。
けれど、これは保存されている。記録された“模倣”ですもの」
風が吹く。
リディアのスカートの裾が揺れる。
その風の中には、確かに香りが混じっていた。
けれどそれは、
“あのとき”にリディアが焼いた、あの香りとは、決定的に違う。
ノアの手が、微かに拳を握る。
「これじゃない……これ、じゃない……」
リディアは何も言わなかった。
ただ、まっすぐ神核の光を見つめていた。
擬似香が、村を埋めていく。
本物の香りが、少しずつ、消えていく。
ノアは、焼かれたパンの香りを知っていた。
知っていた――はずだった。
なのに、今、村中に漂うこの“香り”を前にして、
胸の奥が、なにか冷たくなっていくのを感じていた。
香りはある。けれど、それは違う。
「ねえ、リディア様……」
ノアが小さな声で問いかける。
「この匂い、あたし、感じてるはずなのに……なんか、からっぽなんです」
リディアは、少しだけ視線を落としてノアの顔を見つめた。
「“保存されたもの”だから、でしょうね」
「香りというのは、五感のように記録されません。
あなたが嗅いだのは“パンそのもの”ではなく、
“誰かのために焼かれた”という――記憶、ですわ」
ノアは首を振る。
「でも、あたし……あたしね、あのときのパン、泣いちゃったんです」
「わけもなく、胸がいっぱいになって、涙が出てきて……」
「今のこれは、全然そんなふうに……ならない。どうして?」
ノアの声が揺れる。
擬似香の中に立ちながら、それでもその匂いに震えを覚えない自分に、
彼女は言いようのない不安を感じていた。
リディアは一歩、ノアに寄る。
そして、ごく静かに告げた。
「それは、“あなたのために焼かれた香り”ではないから、ですわ」
ノアの目が、少し見開かれる。
「香りは、保存された時点で、“あなたのもの”ではなくなるのです。
どんなに似せて作っても、“想い”が焼かれていなければ……」
リディアは言葉を切り、空を見上げた。
「それは、ただの“匂いの記録”に過ぎませんわ」
ノアは自分の胸に手を当てた。
まだ、あの香りは残っている気がした。
焼かれたパンの、あたしだけの香り。
それは、ここにある香りとは……違う。
違うのだ。
「これ……あたしの香りじゃない……」
ノアのその言葉が、空の神核に届いたかどうかは、まだ誰にもわからなかった。
ノアは歩き出していた。
香りの噴出機から放たれる甘い空気の中を、
ただ一人、逆らうように歩く。
その姿を見つめながら、ぷるるがぽつりとつぶやく。
「……たぶん、あれ、ノアちゃんの“拒絶”だよ」
リディアは頷くこともせず、静かにノアの背中を追っていた。
ノアは機械の台座のすぐそばまで来ると、目を閉じた。
自分の胸の奥にある、香りの記憶を――思い出す。
泣いた時の、あの香り。
誰かが焼いてくれた、あのときの、ほんのわずかな温度。
冷たい塔の床に横たわり、光もなく、誰の記憶にも残されず、
それでも、“パンの匂い”にだけ包まれた、あの一瞬。
「……あの時、私は、泣いた」
ノアの目から、ひとすじの涙が流れた。
神核がその変化を検知した。
「感情変数:活性化。
情報整合性:逸脱傾向。
涙=非保存情報、構造外と判定」
リディアが低くつぶやく。
「そう……香りも、涙も、構造には刻まれませんわ。
けれど、それでも……人は、記憶するのですのよ。
焼かれた時に、初めて」
ノアは目を開いた。
台座の上から流れる香りを見つめ、その手を、そっと広げる。
「私が覚えてるのは、“保存された香り”じゃない」
「誰かが、“焼いてくれた”っていう、その気持ちだけ」
香りは消えていく。
構造には記録されない。
でも、ノアの中にだけ、それはあった。
涙とともに、燃えるように、記録ではなく――香っていた。
「リディア様……」
ノアが振り返る。
香りの装置の風に逆らって、まっすぐに。
「……もう一度、あたしに、焼いてください」
その声は震えていたけれど、確かだった。
神核の計測装置はその意志を感知できず、ただ無音のままだ。
リディアは微笑んだ。
「ええ、喜んで」
そして彼女は、静かに炉の前に立つ。
擬似香が漂う村の中央に、リディアがひとり、炎を起こす。
炉にくべられたのは、保存も模倣もされていない、
“ただの材料”だった。
粉、水、塩、イースト。
それだけで、彼女は一つのパンをこしらえる。
火を入れる。
焼かれる。
そして――香りが生まれる。
「これは、“記録”のために焼いたのではありませんわ」
「“あなたのために”焼いたのです」
その瞬間、擬似香が一気にかき消された。
構造内に充満していた“保存された匂い”が、真の香りに押し流される。
村人たちが思わず、鼻をくんくんと動かす。
「……これ……懐かしい……?」
「いや、こんな匂い……知らないはず、なのに……」
神核が光を点滅させる。
「構造崩壊領域拡大。
情報定義外香気により、感情波動増幅中」
ノアの中で、何かが決定的に変わった。
あの香りだ。
あの涙が、もう一度、胸を打つ。
違う。これは違う。
これは、ただの匂いじゃない。
誰かが“自分のために”焼いてくれたものだ。
香りは、消えても残る。
記録されなくても、焼かれた想いは、
どこかで必ず、誰かの中に、生きている。
それが、リディアがパンを焼く理由だった。
神核の光が、ひときわ強く瞬いた。
「構造干渉領域、臨界接近。
感情波動により、擬似香制御不能。
再定義要求:香りとは、情報か」
ぷるるがぽつりと呟いた。
「やっぱり壊れかけてるね、神核……ていうか、これ、パンで神ぶっ壊すシリーズじゃん……」
誰も応じなかった。
そのとき、リディアがそっとパンをノアに手渡す。
ノアは受け取る。
焼きたての、ほんのりとあたたかいパン。
その表面には、焦げ目の小さなひとすじ――
自分の記憶と、香りと、涙が刻まれていた。
ノアはそれを胸に抱き、神核の光に向かって言った。
「ねえ、あなたは“香りを記録しよう”としてる。
でもね、わたし、それは――選ばない」
神核が応答する。
「選択とは、記録にない行為。
定義不能。構造外。排除対象」
「……そう。なら、それでいい」
ノアは一歩前に出る。
「だって、わたしは“香りをもらった”」
「焼かれて、涙が出て、そのことを……忘れたくないって思った」
「記録なんてされなくても、
――“誰かがわたしのために焼いてくれた”ってこと、
わたしが覚えてる。それで、十分」
神核は黙したままだった。
その光だけが、不規則に揺れている。
リディアが、ノアの背後に静かに立った。
「焼かれたものは、消えるのです」
「けれど――だからこそ、記録以上の意味を持つのですわ」
村に風が吹く。
擬似香は完全に霧散し、ただ一つの、焼きたての香りが残った。
神核は、静かに言った。
「香り。定義不能。
選ばれなかった構造。起動、準備」
その瞬間、空が裂けるように、遠くの地平線に――
構造化された巨大な都市の影が映った。
無音の都市。
無光の都市。
無香の都市。
ぷるるが、そっとつぶやく。
「……あれ、“エル=ロズ”だ。焼かれてない……いや、最初から焼かれる気すらなかった場所」
空は、焼かれなかった光で、ひび割れ始めていた。
ふおお〜〜〜!!まさかの神核VSパン、まさかの三度目!
どもども、おつかれスライムぷるるです。今回もすっごい香りだったね!
擬似香……便利だけど、なんか“ぬるい”というか、“それっぽい”ってだけでさ。
ノアちゃん、とうとう「これは私の香りじゃない!」って気づいたね〜〜!エモ〜!
そしてリディア様、やはり今回もかっこいい!
香りの哲学、パンでぶちかます女……それが我らが主人公よ!!
あ、神核さん? 次回いよいよ“あの都市”が本格的に絡んできそうで、
いやいやマジで神格の定義すら焼かれかけてるじゃんね!?(ぷるぷる)
というわけで!
次回 「焼かれぬ神の証明」(仮)、いよいよ本格接触編、どしんと構えてお待ちください!




