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香りのある者、受け入れ不可

香りのない村で、焼かれたパンは“存在しない”とされた。

だけど、焼かれたことのない少女が、それに手を伸ばしたとき。

世界の境界が、ほんの少し、きしんだ音を立てた――


これは、“焼きたてじゃない”パンから始まる、小さな対話の記録です。

――構造体が、低く、うなっていた。


村の上空に浮かぶ立方体の情報殻。その表面に、ゆっくりとノイズのような揺らぎが走り始めた。


「リディア様……」


ぷるるが、不吉さに満ちた声で囁く。


「さっきのパンの香りが、空に届かなかったじゃないですか。あれ、構造的に“記録不能な感覚”って判定されたっぽいです」


「ええ。ここでは“記録できない”ものは“ない”ことにされるのよね」


「うんうん、それだけならまぁ“違い”で済む話だったんですけど――」


ぷるるの声が、ひときわ低くなる。


「今、この村の構造体……“記録不能の香りを強制的に発した存在”を、“空間汚染源”として分類しました」


リディアの眉が、ゆっくりと寄る。


「つまり……」


「リディア様、今この村から見たら、“あなたの存在そのものが異物”ってことになります……!」


直後、構造体の表面がぱきり、と割れた。


そこから無数の六角形の光片が生まれ、空中を舞い始める。ひとつひとつが微細な魔術演算領域で、村の空気を“確認”し始めた。


いや、“香りの有無”を確認している。


「香り属性確認中――確認中――」


声がした。無数の声。村人たちの誰でもなく、構造体そのものから流れるように発される“記録音声”だった。


「香り成分、空間拡散形態に非該当。構造外情報確認。要排除。対象:香り属性存在体」


「……香り属性存在体、ですって?」


リディアはかすかに肩をすくめる。


「香水みたいな分類で呼ばれたの、はじめてですわ」


「全然笑えませんよぉ!? 構造陣が“拒絶じゃなくて排除モード”に入ってますってば!」


地面のあちこちから、青白い線が浮かび上がる。構造的に“パンの香りが届いた場所”に反応しているのだろう。まるで地図にフラグを打つように、焼かれた痕跡が光る。


「香りは空に昇らなかったのに……地面には残っているのね」


「ええ。香りって、“空間の温度と流れ”に残るんですよ。香りがこの村の座標系にとっては“書き換えエラー”ってことです」


「つまり、香りが、この村の“正しさ”を乱す……?」


リディアの言葉に、ぷるるはこくりと(液体的に)頷いた。


「リディア様。……このままじゃ、“あなたの存在そのものが上書き排除”されます。たぶん、“香りを残したままこの場所に立ってる”ってこと自体が、文明の許容量超えてます!」


そのときだった。


構造体の下、村の中心広場の床が、ぱん、と弾けるように開いた。


そして現れたのは、巨大な鏡のような円形装置。中心には複雑な文様が刻まれている。


「排除準備。香り属性、記録不能。文明保護手順を実行します」


「完全に殺意ですね!? この装置、感覚的に言うと“香りを吸って潰す”気ですよ! リディア様、パン、もう焼いちゃだめです!!」


「でも、私は――まだ焼きたての意味を、説明していません」


リディアはパンを抱えたまま、鏡面装置のほうを見据えた。


そのとき、塔の影から――再び、あの白い瞳が姿を現した。


ノアだった。


構造体の震えが収束しきらない中、その少女は人の動線とは無関係に、無音の歩みでリディアに近づいてきた。


足音はない。だが、その存在感は空気を縫うように鋭い。


リディアが向き直ると、ノアはすでに至近距離にいた。


「再び、確認します」


ノアの声は、最初に聞いた時と変わらず、感情の波を持っていない。けれど、あまりにも真っ直ぐだった。


「焼かれたもの、なのに――香りが、ありません」


リディアはパンを胸元に抱えたまま、静かに頷く。


「ええ。この村の空には、香りが昇らない。それに対して、今……この構造体が反応しているわ」


「香りが“昇る”とは、どういう意味?」


その問いはあまりにも根源的で、リディアは思わず口を閉ざした。


「……説明できるかしら、ぷるる?」


「えっ、えっ、ぼく!? いやぁ〜、あのぉ〜……」


ぷるるは半分蒸発しそうな動きでぷるぷる震えたが、数秒ののち、がんばって自分の輪郭を整えた。


「えーと、香りっていうのはですね! 空気の中を、熱と分子と記憶が一緒に漂う感じでして……あの、焼いた瞬間の“時間”が、空間を満たす感じ、です!」


「時間が、香りになる?」


ノアの首が、機械的に傾く。


「……記録不能。連結不能。理解できない。わからない」


「“わからない”ことが、悪いことなのかしら?」


リディアが問い返すと、ノアはわずかに、口をつぐんだ。


「わからないことは、“存在しない”こととされる。私の中では。……ずっと、そうだった」


「あなた……“焼きたて”を知らないの?」


「知りません。香りの記憶もありません」


ノアの答えはあまりに明確で、まるで自分の中を検証して語っているかのようだった。


「それでも、“これは焼きたてじゃない”とわかるのね?」


「はい。焼かれたはずなのに、何かが欠けている。記録できない、何かが。……それは、たぶん――“香り”なのだと思います」


「どうして、そう思うの?」


リディアがそっと問いかけると、ノアはしばらく黙って、彼女の手元のパンを見つめていた。


その視線はまるで、**焼きたてのパンを“心で嗅ごうとしている”**かのようだった。


「わからない。けれど……私の中に、なぜか“焼かれていないものへの違和感”がある」


「じゃあ、あなた――」


リディアが何かを言いかけたその瞬間。


構造体が、再び大きく脈打った。


そして、今度はその魔術殻の中心に、新しいラベルが表示された。


【観測対象ノア】――感覚交差反応を検出

【香り認識の痕跡あり】

【排除対象、追加】


「……ぷるる」


「……やばいです。リディア様、ノアちゃんも“香り属性あり”って、文明にバレました」


リディアとノアの足元に、青白い円が浮かび上がる。


構造体は、香りを“持つ者”すべてに対して、排除モードに入ったのだった。


だが、リディアは一歩も動かない。ノアもまた、排除対象とされながら、その場に立ったままパンを見つめ続けていた。


「これが、“焼きたて”……?」


ノアの声は、明らかに先ほどまでと違っていた。ほんの少しだけ、微細に震えていた。


「香りは、感じられない。でも、なぜか――わかる。これは、焼かれたものだけど……ただ焼かれただけではない」


リディアはそっとパンを差し出した。柔らかな空気をまとうその表面には、確かにまだ湯気が漂っていた。村の空気には遮られても、それでも“焼きたての記憶”を宿していた。


「香りが記録できないのなら、味わって」


ノアは一瞬、動きを止めた。


パンを受け取る動作。それはこの村では、規定されていない仕草だったのだろう。


だが彼女は、ゆっくりと両手を伸ばして、それを受け取った。指先に触れた熱が、じんわりと伝わる。


「温かい……。でも、私の中では、温度も形も記録されていない。認識できるけど、定義できない」


「なら、定義しなくていいわ。これは、“あなたに焼いたパン”よ」


リディアの言葉に、ノアのまぶたがわずかに震えた。


そのとき。


「リディア様、わかりました」


ぷるるが、リディアの肩の上でぱんっと跳ねた。


「この子――ノアちゃんの中、香りに反応した“情報の残り香”みたいなものがあります。完全に無香じゃない。むしろ、何かを“思い出さないように”作られてる感じ」


「思い出さないように?」


「うん。香りは、記憶と連動する感覚です。でもこの子の中には、記憶の香りにだけ“フィルター”がかかってる。まるで、“焼かれる直前で止まってるパン”みたいに」


ノアは、ゆっくりとパンを持った手を自分の胸元に寄せた。まるで、そこに微かに残った温度を守るかのように。


「私は……ずっと、空っぽだった。でも、今……このパンは、空っぽじゃない。私の中に何かが入ってくる」


その瞬間、構造体のノイズが急激に跳ね上がった。


空に浮かぶ構造殻が、まるで“論理の限界”を超えたかのように、一斉に明滅を始めたのだ。


【香り記録反応:干渉発生】

【構造定義の再解釈を要求】

【対象ノア――香り発端位置の特異点】


「香りの発端……?」


リディアが呟くと、ぷるるがさらに青ざめたように震える。


「うそ……この子、“焼かれてないだけじゃなくて”、香りの“原点”を抱えてる存在かもしれません……!」


そしてそのとき、構造体の中心が、深く沈むような音を立てた。


空気が、一瞬だけ、変わった。


まるで“焼きたての香りが、ほんの少しだけ届いた”かのように。


リディアはすぐに、それが錯覚ではないと気づいた。


空気の揺らぎ。構造体の振動。そして何より、ほんの刹那だけ、風が“温かかった”。


「今……香りが、届いた?」


「届きました。わずかに、ほんの一瞬――リディア様のパンの香りが、村の空気の上に、出た」


ぷるるの声は震えていた。だがそれは恐怖ではなく、確信に近い興奮だった。


「遮断層が、一部、剥がれてる!」


「剥がれた?」


「ノアちゃんがパンを受け取った瞬間、彼女の内部構造――記録制限領域にノイズが入ったんです! “焼きたて”という情報が、香りを記録できないこの文明のルールを、一瞬だけ上書きした!」


ノアはパンを両手で抱いたまま、静かに目を閉じていた。


「何かが……流れ込んでくる」


その声に、構造体が即座に反応した。


【異常拡張検出】

【香り拡散、構造領域の再定義要求に移行】

【防衛レベルを第三段階へ移行】


「まずい、まずいまずいまずい!! これは……!」


ぷるるが跳ねた瞬間、村の中心に立っていた巨大な鏡面装置の内部から、黒い渦のような光が吹き上がった。


空気がねじれ、風景が歪む。


香りという定義されていなかった感覚が、この文明の座標に“割り込んだ”ことによって、構造が破綻しかけているのだ。


「排除処理、外部強制排出へ移行」


その合成音声が響いた次の瞬間、リディアとノアの足元の地面が、光の円環に包まれた。


「えっ、転送陣!? 強制排出って、どこに飛ばす気ですかああああ!」


「どこでもいいわ。パンを抱えてる限り、私は大丈夫」


「だめですリディア様、そんな根性理論……!」


リディアはノアの手を取る。ノアは驚いたように目を見開いたが、拒まなかった。


「手を離さないで。このパンは、“焼きたて”なのよ。たとえ香りが遮られていても、それだけは……変わらない」


「……焼かれていない、と思っていた。でも、今は違う」


ノアの声が震える。


「これを焼いた、あなたの手の中にいたこと。それが……なぜか、私の中で、熱を持っている」


その言葉と同時に、排出処理が発動した。


構造体の周囲が一斉に明滅し、リディアとノアを中心に、空間が一段階落ちるようにして――


世界が、反転した。


次の瞬間、リディアとノアの身体は宙を舞っていた。


「うわぁあああ!? え、ぼくら、いま物理的に排出されてます!? そんな文明、聞いてませんよぉ!!」


ぷるるが悲鳴をあげる横で、リディアは冷静に着地の姿勢を整えていた。足元に魔力の緩衝陣を展開し、ノアの体を抱え込むように引き寄せる。


重なった影が、村の外――草地の斜面へと落ちた。


ゴウ、と風が吹く。


そこは、ほんの数秒前までいた“遮断された村”とは違い、香りのある空気が漂っていた。


「……ここは」


ノアが起き上がり、空気を吸い込む。


けれど、目を細めても、すぐに首を振る。


「……やっぱり、私は香りを記録できない」


「それで、いいのよ」


リディアは少しだけ笑って、焼きたてのパンを彼女の膝の上にそっと置いた。


「香りはね、記録じゃないの。記憶よ」


「……記憶?」


ノアはその言葉を、理解しきれないまま、音だけを繰り返す。


「香りは“残す”ものじゃないわ。風と一緒に流れて、人の心にふっと引っかかって、時間を逆流させる。誰かの朝、誰かの食卓、誰かの“好き”を思い出させるもの」


リディアは草の上に腰を下ろし、自分の髪についた埃をはらった。


「このパンはね、あなたと話すために焼いたもの。“焼きたて”じゃなかったかもしれない。でも、これからは焼けるわ」


ノアは視線を落とす。手の中のパン。その温かさ。


「わたしの中には……香りを記録する装置は、ありません。だけど……これを持っていた時、なぜか、“懐かしい”と感じた」


「それが、香りよ」


リディアはそう言って、立ち上がる。


ぷるるがようやく体勢を戻し、ぴょこんと跳ねる。


「は〜〜〜〜い、生還しました〜〜! 世界がバグるかと思った〜〜!! リディア様、次はもうちょっと安全な村にしてください!!」


「焼きたては、時に世界を壊すものなのよ」


「やだその哲学パン屋こわい!!」


リディアとぷるるのやりとりを、ノアはじっと見ていた。


そして、ぽつりとつぶやいた。


「……あなたが焼くと、どうしてパンは“記憶”になるの?」


その問いに、リディアは一瞬だけ、口元に指を当てて――にこりと微笑んだ。


「秘密ですわ」


風が吹いた。今度は、ほんの少し、パンの香りを連れて。

ぷるるですっ!今回、ついにリディア様、文明に追い出されちゃいました!いやそれパン焼いただけなんですけど!?!?


それにしてもノアちゃん、焼かれてないのに焼かれてる感あるというか……なんか核心に近そうな香りがしましたよね?(香りだけに)


次回、「焼きたてを知らない目」。パンでつながった少女との、もう少し深いやりとりが始まります!リディア様の哲学焼成、まだまだ止まりませんのでご期待ください!

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