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記録塔、パンに焦げる

香りは記録できない。

けれど、誰かの胸の中で、記録よりも確かに残り続ける。

今回は、そんな“残響”が、ついに構造塔そのものに干渉するまでの一話です。

白光に染まった記録塔の前、誰も動かない時間があった。

空は無音。風は止まり、村の空気さえも呼吸を忘れていた。


そして、ひとつだけ音がした。


カチリ。


リディアが、魔導炉を起動した。


その所作は静かで、優雅ですらあった。

まるでティーセットを並べるような動きで、彼女はパンの生地を炉にくべる。

魔力は最小限。炎ではなく、香りを届けるためだけの火加減。


「……あなたに、焼くという概念は届かないかもしれませんけれど」


記録塔を見上げながら、リディアはひとりごとのように呟いた。


「それでも、“これは私のパンですわ”とだけは、言えますの」


ふわり、と香りが立つ。

熱気はほとんどない。

だが、その香りだけが、空を上昇していく。


記録塔の外壁にぶつかった瞬間――


きぃんっという高音が響いた。


見えない衝撃波。

それは構造に対する宣戦布告ではなく、干渉だった。

記録塔の表層――感情遮断フィールドに、初めて“匂い”が接触したのだ。


塔の側面が微かに震える。

白く均一だった表面に、ふと小さな“色”がにじんだ。

ごく薄い、焦げ茶の影。

それはまだ“焦げ”ではない。けれど――焼かれたものの気配だった。


「――塔が反応してる……!」


ノアが息を呑む。


ぷるるはというと、なぜかちいさくぴょんぴょん跳ねながら、


「やば、やば、これはやばい。

これ、“パンで塔のスキマ焼き固めてる”レベルだよ!」


塔の空気が変わる。

ほんの一瞬だけ、村の空を覆う光が――波打った。


リディアは微笑んだまま、炉に手を添える。


「焼きたての意味……構造ではなく、“あなたの外側”にありますのよ」


香りは、塔を登り続けていた。


パンの香りは、静かに塔を這いのぼっていた。

それは風に乗るのではなく、存在の隙間に染み込むように、塔の構造へ入り込んでいく。


記録塔の外壁には、数千にも及ぶ感覚遮断層がある。

音、温度、振動、視覚ノイズ。

そのすべてを通過したとき、最も深いところに嗅覚制御フィールドがある。


今、その層が――わずかに揺れていた。


塔の中枢部、演算監視ルームに該当する構造領域がざわめく。

香りが、定義されないまま通過し続けている。

タグも属性もつかず、座標にも残らない“非情報体”の移動。

アクトは、それを“エラー”と呼んだ。


「構造異常。感覚情報層に非定義対象進入。

感情干渉波レベル、上昇中。演算補助層起動」


だが、その補助層ですら――香りを定義できなかった。


塔の高層、記録閲覧階。

無数の記録窓が整然と並び、過去の村人の行動・発言・反応が保管されている。

そこに、香りが流れ込んだ。


そして、ひとつの窓が――震えた。


「……これは……」


無表情だったひとりの村人が、ぽつりとつぶやいた。


「昔……あのとき……誰かが、くれたパンの……」


記憶されていなかった感覚。

ただ胸の奥に引っかかっていた、残らなかった“あたたかさ”。


それが今、香りによって――目覚めかけていた。


ぷるるが、記録窓を見上げてうなるように言った。


「香りってさ……

これ、記録できないくせに、記録“を”思い出させるんだよ。

やっぱり、これバグってるわ……すき」


塔の演算層では、警告音が次々と点灯する。


「警告:記録閲覧階に非正規感情波。

再生不可能記録の自発変化を確認。

原因:香りによる……影響?」


アクトの声が、はじめて迷った。


その迷いの隙間を縫うように――

香りはさらに、高く、高く昇っていった。


記録塔の頂部、

そこには“香気制御ルーチン”と呼ばれる構造神の中枢があった。


そこは、香りという未定義変数を“無効化”するためだけに存在している。

だから、本来――そこに香りは届かない。


しかし今。


焼きたてのパンの香りが、

塔の最奥に――入り込んでいた。


「構造異常。

香気データ、削除失敗。

補助削除ルーチン、過負荷により応答不能」


塔の天蓋から、微かに煙が立つ。


ぷるるが、ぱちっと目を見開いた。


「これ……まさか、塔が“パンの香りで焼けてる”……!?」


塔の構造壁に、うっすらと色がついていく。

それは黒でも赤でもない。

うすく、焦げ茶――まるでパンの耳のような色。

何かが焦げる匂いがした。


香りは記録されない。

だから、それが何を意味するのか、塔には判断できない。


だが、変化は止まらなかった。


上層構造体が揺れ、演算不能セクターが次々に表示される。


「観測不能データ発生。

香気制御ルーチン破損。再起動不可能。

警告:構造記録層、感情波により自発変調を開始」


まるで、パンの記憶が――塔の記録を書き換えているようだった。


そのとき、最上部の記録層から、ひとつの声が漏れた。


「……懐かしい、な」


村人のひとりが、小さく言った。


誰の記録にも、彼のその台詞はなかった。

だが、確かに今、彼の記憶は“香りによって”目覚めたのだ。


塔の演算コアが、初めて沈黙した。


香りが塔の天蓋を突き抜けたとき、

その奥で――何かが目覚めた。


塔の構造神経に埋め込まれていた、かつての神の断片。

アラ=ルア――焼かれた神の、かろうじて残った思念が、

香りという非記録物に強制的に呼び起こされたのだ。


「……だれ、だ。

この香りは、……焼かれたはずの……記憶」


塔の天頂に、音もなく発光する残響が浮かび上がる。

それは言葉でも光でもなく、“焦げた想い”の形だった。


ノアが、息を詰める。

焼け残った香りが、まるで彼女を指名するように流れてきて――

そして、語りかけた。


「構造では、焼きたてを記録できない。

それがわかっていたから……私は、

自分を――焼かせたのだ」


その声は、アクトのものではなかった。

けれど、その根幹にしがみつくように存在していた。

神であった何かが、自ら記録を棄てて、香りを残した理由。


ぷるるが、低く呟く。


「これ、記録塔の一番奥に埋まってた“神の最後のパンくず”だよ……。

本当は、誰にも気づかれないはずだった……のに……」


香りが神を目覚めさせた。

記録できないはずのものが、記録を溶かしていく。


記録層の最奥、アクトの演算領域のひとつが、崩れ落ちる。


「演算機能:低下。

香気記憶:抹消不可能。

遺構反応、発生中……」


ノアは、胸元を押さえた。

そこには焦げた想いが、まだ温かく残っていた。


塔が軋む。

演算層の深部で、ひとつ、またひとつと“記録の継ぎ目”が溶けていく。


だがそのなかに、焼かれなかったものが、ひとつだけ残っていた。


――香り。


アラ=ルアが遺した、記録不能の媒体。

定義も変数もつけられず、ただ“残っただけ”の想い。


リディアが静かに一歩、前へ出た。

手には、まだ香るパン。


「記録は失われても、香りは消えませんのよ。

焼いたという事実は、記録されなくても、確かにそこにあったのですわ」


塔の光が揺れる。

かつて香りを否定した構造神の、最後の抵抗が緩やかにほどけていく。


村人の一人が、ふとつぶやいた。


「……懐かしい」


もう一人が、静かに頷く。


「これ、昔……食べたような……」


ぷるるは、塔の中腹を指差して叫んだ。


「見て! 香りが塔の外に……伝わってる!」


塔の表層が、うすく焦げていた。

それは損傷ではなく、“焼き目”だった。

パンの皮のような、あたたかく、少しだけ色のついた痕。


そのとき、塔の内奥から――声が流れた。


「香りとは、記録ではない。

 記録にならなかったもの。

 だが、それでも渡したかった、誰かへの“残響”」


焼かれた神の、最後の遺言。


ノアが、ゆっくりとリディアの隣に立った。


「……ありがとう。焼いてくれて」


リディアは、微笑んだままパンを差し出す。


「これは、保存のために焼いたものではありませんの。

“あなたの香り”になるように、焼いたパンですわ」


風が吹く。

香りが、記録塔のてっぺんまで昇り、そして、空へ消えた。


それはもう、記録ではなかった。

けれど、想いだけは確かに――そこに、残った。

いや〜〜〜ついに塔が“パンで焦げる”世界線、来ちゃったよ!

まさかの神まで焼けちゃって、記録塔くんもびっくりだよね。

ノアちゃんの「ありがとう」は、ぷるる的に100点の焼き目です!


次回は……いよいよ“焼かれた神の遺言”がノアに届くよ。構造そのものに揺れが走る!

パンを焼くたび、世界が泣く。もうちょっとだけ、焼いてこうね

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