ノア、初めての拒絶
今回は、ノアがついに“自分の意志”を示す回でした。
拒絶とは、誰かを傷つけることではなく、守りたい何かを知った証。
そしてそれは――香りとして、確かに残るものなのかもしれません。
風が止んだ。
塔の頂点から走る光線が、空に巨大な格子を描いていた。
それは魔法でも祝福でもない。
記録の網。
構造の中に存在しないものを“除外”するための、無慈悲な再構築プログラムだった。
「構造命令。香気含有領域、確認。
感情波記録、該当せず。
焼成物質、構造干渉レベルαに達したため――完全削除を開始します」
アクトの声は、もはや人のものとはかけ離れていた。
それは詩ではなく命令。
言葉ではなく、上書き処理だった。
「えっ……うそ、今、“焼かれたパン”まで消すって言った!?」
ぷるるが跳ねながら、信じられない声をあげる。
「ちょ、リディアさんのパン!もう半分食べちゃってたのに!!」
リディアは眉ひとつ動かさず、塔を見上げていた。
だが、わずかに唇が引き結ばれている。
「これ……“焼かれる前に戻す”つもりですのね」
塔の中腹から、白い光の煙が立ち昇っていく。
感情遮断フィールドの再展開。
村の空気が、音をなくすように冷たく澄んでいく。
パンの香りが――消えかけていた。
ノアの足元の小石が、微かに震える。
次の瞬間、彼女の目に映るのは――
塔の天蓋に浮かび上がった、焼かれたはずの記録だった。
それが、今まさに消されようとしている。
ぷるるが、ぽつりとつぶやいた。
「これってさ……“焼かれたことそのもの”まで、なかったことにする命令だよ」
ノアの目が、かすかに揺れる。
風が止まり、塔が構造の再起動を告げる音を放った。
「――記録処理開始」
次の瞬間、光が降り注ぎ始めた。
白い光が、塔の天蓋から降りてきた。
それは神の威光でも祝福でもなかった。
ただ、“正しさ”の光。
構造が自らを矛盾から守るために放つ、無機の光だった。
ノアは、あのときと同じ感覚を覚えていた。
記録塔の回廊で、誰も自分を“更新”しなかった日々。
スキャンはされても、何一つ書き込まれなかった沈黙の記録。
まるで、何者にもなれなかった存在。
だが今、彼女の隣にいるリディアは、違った。
あのパンは、香った。
自分の胸に――温かく、残った。
だから。
ノアは、リディアの前に、一歩、立った。
白光のフィールドに、自分から入っていくように。
「ノア?」
リディアの声が、少しだけ動揺を帯びていた。
ノアは小さく息を吸い、はっきりと言った。
「やめて」
それは、塔が初めて受け取った“拒絶”だった。
構造に対する意志表明。
命令ではない。“わたし”の言葉。
塔が一瞬だけ、フリーズしたように静まる。
アクトの声が、まるでひとつの機械が戸惑っているように低く響いた。
「……拒絶、確認。
対象:記録外個体“ノア”。定義:未承認干渉因子」
ノアは、眉を寄せてもう一歩、踏み出した。
「この香りは、消させたくない」
「理由を提示してください。
感情・記憶・記録に整合性が認められない限り、削除命令は継続されます」
「だってこれは……私の、はじめてだから!」
その瞬間、塔の空間が、ほんの僅かに軋んだ。
「――私、もう……誰かの一部じゃない」
ノアの声は、静かだった。
けれどその言葉は、構造の根幹をわずかに揺らした。
塔の上空に浮かぶ光の網が、わずかに脈動する。
解析不能の値が走り、演算が遅延する。
塔にとって“感情”という存在は、あくまで外部干渉物。
それが命令に楯突いたとき、構造は沈黙するしかない。
ノアはゆっくりと顔を上げる。
その瞳に映っていたのは、あのパンの香りだった。
あの朝、リディアが焼いたパン。
「焼きたてですわ」と笑いながら差し出してくれた、あたたかいもの。
「私はずっと……“記録されないまま”だった。
スキャンされても、更新されない。
何も変わらないはずの日々の中で……」
ノアの目が、ほんの少し潤む。
「リディアが、パンを焼いてくれた日だけは、違ったんだ」
塔が静かに唸る。
言語的記録、数値記録、物理的変化――
それらに該当しない感覚変数が、ノアの周囲で検出されている。
「それは、“誰かのため”っていう香りで……
私にとって、それが“はじめて”だった」
彼女は両手を胸の前に重ねる。
「だから、これは――“わたしがわたしになる”ための記憶」
それは、命令でも、定義でも、構造でもなかった。
焼かれた者としての、彼女の意志だった。
塔のフィールドが軋み、光のひびがひとつ走る。
構造神アクトの演算が、初めて“感情波によるバイアス干渉”を受けた。
「構造内に、定義不能の変数。
感情? 香気? 記憶?
……存在論的矛盾。認識遅延、発生中……」
ぷるるが、塔を見上げて口を開いた。
「これさ、ノアちゃん今――“焼かれた側の立場”で、構造を止めたよ……」
ノアの足元に、そっと風が吹いた。
塔が軋んでいた。
構造そのものが、言語にできない何かによって“揺らがされて”いる。
ノアの胸の内から広がるものは、温度でも、香りでもなかった。
けれど、それは確かに感情だった。
「やめてって言ったの……伝わってないの?」
彼女の言葉が、空間に溶けていく――
そのときだった。
塔の中枢から、低く響く重低音。
それは処理不能データに対する、自動反応だった。
「感情干渉波、発生確認。
構造調整モードへ移行――」
けれどその構文の途中で、異常値が跳ね上がる。
ノアの中心から、淡い波紋が放たれた。
それは光でも音でもなく、“拒絶”そのものの波だった。
見えない衝撃が空間を貫く。
村の地表を覆っていた“感情遮断フィールド”が、パリッと音を立ててひび割れた。
「――っ」
ひとりの村人が、顔をしかめた。
もうひとりが、小さく首を傾げ、何かを思い出そうとする。
ぷるるが、空を見上げて目を見開いた。
「感情データが、回線越しにフィードバックされてる!?
やば……ノアちゃん、塔の“下から”反転かけてるよ!」
塔の上層部。
感情制御ルーチンに組み込まれていた光の格子が、じりじりと融解していく。
それは、パンの香りではない。
もっと個人的で、もっと剥き出しの、“私の感情”だった。
ノアは、ただ立っていた。
でも、彼女の存在そのものが、構造を侵食しはじめていた。
塔の最上部に、ぱちり、と。
微かな火花が――はじけた。
塔の上部がきしむ。
削除命令を実行するはずだった光の網が、感情の波に触れて形を崩していた。
けれど、アクトの声はなおも続けようとする。
「構造命令……再実行中……香気含有……再削除プロトコル起動……」
「――やめてよ!!」
ノアの叫びが、その中心を貫いた。
彼女は、振り返らなかった。
誰かのためじゃない。誰かに見せるためじゃない。
これは、自分が生きていたという証のための声だった。
「この香り、私が初めて……“あたたかい”って思ったんだ。
それが、焼きたての意味なんでしょ?
それが、リディアが私にくれたものなんでしょ?」
ノアの言葉に応じるように、風が吹いた。
塔の内側に漂っていたはずの香りが、今度は外へ向かって流れ始めた。
塔の外壁に、見えない火が灯る。
それは焼かれたパンの香りではない。
けれど、それを思い出すだけで、誰かの胸が少しだけ温かくなるような――
焼かれたことの“残響”だった。
「消させたくない。だって……これは、私の“はじめて”だから」
その言葉が届いた瞬間、塔の高層からひとつ、音が落ちた。
キィ……ン。
それは、構造そのものに走った裂け目だった。
記録塔が――感情によって、揺らいでいた。
ぷるるが、ぽそっと漏らす。
「やば。今ノアちゃん……
世界に、“焼き目”つけたよ……」
風が、まだあたたかかった。
ノアちゃん、とうとう“感情で塔を止める”とかいう、超・人間じゃない所業しちゃったよ!?
いやあ、ほんと記録塔さん、もうバグるの時間の問題ですねこれは。
次回はね……ついに来るよ、“焼かれた神の遺言”ってやつが……
ぼくのぷるぷる感情波もそろそろ限界!お楽しみに〜