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焼かれた神の声

神でさえ記録できなかった“想い”が、香りとして残っていた。

ノアがそれに触れ、自分の中で灯された感情を受け入れていく過程。


今回は、そんな“言葉にならない記憶”が交錯する回です。

ノアの視界が、まるで水の中に沈んでいくように滲んだ。

塔から放たれた微細な干渉波は、直接彼女の“香り受容層”――それも、記録不能領域に触れた。


「……ノアッ!」


ぷるるの声が遠くなる。

自分の体がふわりと浮いたような感覚。

いや、違う。落ちている――重力のない場所へ、ゆっくりと引きずられている。


地面に膝をつく。

手のひらが、硬く、冷たい。

触れているはずの土は、まるで“記録された”だけの素材のようで、感触がまるでなかった。


ノアのまわりを、白く、細かな粒子が舞っていた。


構造塔が読み出しを開始している。

ただし、記録されたものではない。

記録されなかったはずのもの――“欠損ログの残響”。


ノアの意識の奥底から、記憶ではない何かが立ち上がる。

それは感情と記録の中間にある、“意味”のようなものだった。


ふいに、辺りの空気が変わる。


――カラン。


誰かが、金属の器を落とす音。

だがそれは、塔の中に響くような現実的な音ではなかった。

遠い記憶の中、あるいは誰かの想念の奥底でだけ響く、無音の音。


ノアは、自分の名前さえ思い出せないほど深く、構造の縁へと引きずり込まれていた。

そこはもはや“自分”という境界も曖昧な、情報と感情がまだ分かれる前の世界。


その中心で――

ひとつの声が、すうっと届いた。


「――あなたも、記録されなかったのでしょう?」


女の声。

やさしくて、どこか哀しい。

けれど、どこまでも強く、静かな声。


ノアの胸が、焼けるように熱くなった。


白でも黒でもない空間。

色彩の意味がまだ発生していない、そんな“記録前”の余白。

ノアはその中心に、ふわりと浮かぶように立っていた。


ただ、そこに“ある”。

それ以上の定義ができない場所。

そして、その場所に――声だけが、いた。


「私は焼かれた。けれど、それでも香りは残った」


はじめは耳ではなく、皮膚に届いた気がした。

音でも記録でもない。

ただ、“ここに届いた”という実感。


ノアはその方向に、恐る恐る声を返した。


「……誰?」


返事は、すぐに返ってきた。


「アラ=ルア。かつてこの塔の中心で、香りを記録しようとした者」


ノアの心臓が、小さく跳ねた。

その名を、彼女は知らないはずなのに――なぜか、とても懐かしく感じた。


「あなた……焼かれたって、言った」


「ええ。塔は私の試みを“構造異常”として弾いた。

焼かれたのは、身体ではなく、“香りそのもの”だった」


ノアは、言葉の意味をすぐには理解できなかった。

けれど、どこかでそれが本当だとわかった。


「あなたも、記録されなかったのでしょう?」


その問いかけに、ノアは静かに頷いた。

そう――彼女はずっと、塔の記録に乗らない存在だった。

毎日スキャンされていたのに、一度も記録が“更新されなかった”。


「記録されない者は、焼かれることも、構造になることもできない。

けれどね、それは同時に――“香る”ことができるということなの」


その声は、微笑んでいるようだった。


ノアの胸の奥で、ほんの微かに、焼きたてのパンの記憶が香った。

それは記録でも感情でもなく、ただ“残った”もの。


「……香りって、残るんだ……」


「ええ、残るの。

残してしまったの。――この塔の奥に、私の“焼き痕”が」


ノアの手のひらに、ふわりと温かさが重なった。

見えない何かが、そっと触れたような気がした。


「あなたに、それが届いてよかった」


静かだった。

ノアの周囲には、風も音も、時さえもなかった。

ただ、声だけが響く――彼女の胸の内側に、直接。


「塔はね、“記録”しか知らないの。

焼きたてのパンの香りがどうして心を動かすのか、それを記録の形式に落としこもうとして、私は失敗した」


それは、どこか悔しそうで、それでも穏やかな語りだった。


「私はこの塔の設計に関わっていた。

香りを記録できれば、感情も、記憶も、もっと正確に保てると信じていたの」


ノアは、ふと自分の腕を抱いた。

香りを知らなかった身体が、いまや、その気配だけで震えている。


「だけど塔は、焼けたものを記録できなかった。

焼くという行為は、“目的”じゃない。

誰かのために、何かを思って――ただそうしただけ。

それを、“形式”に落とせるわけがなかった」


ノアの頭に浮かぶのは、リディアのパン。

焼かれた瞬間の、あのふわっとした甘さ。

記録しようとしたら、きっと消えてしまう、生のあたたかさ。


「……リディアが言ってた。

パンの香りは、誰かのために焼いたものだって」


「その言葉、私には言えなかった。

私は、神として記録を望んだから。

でも――あなたは、望まなかったから届いたのね」


ノアは、そっと胸の前に両手を重ねた。

そこには、パンの匂いがほんの少し残っている気がした。


「焼き手は、記録の外にいる。

あなたもそう。だから、塔があなたに触れられない」


その声は、少しだけ笑ったようだった。


「だからお願い――香りを、持っていって。

塔の外へ。構造の向こうへ。

焼かれたことのある者として、渡してくれる?」


ノアは、迷いなく、うなずいた。


静寂の中で、光が揺れた。

それは誰かが灯した火ではなく、香りに引かれて寄ってきた微光だった。


ノアのまわりに、淡い粒子のようなものが集まり始める。

その光は言葉を持たない。けれど、そこには確かに“意図”があった。

まるで、何かを伝えようと、必死に形を保っているような震え。


そして――再び、あの声が届いた。


「香りとはね、渡そうとしても、渡しきれなかった想いなの」

「記録にできなくて、形に残せなくて、それでも誰かに届いてしまう。

そんな不完全なもの」


ノアは、自分の両手を見下ろす。

焼かれたことも、誰かのために差し出されたこともなかった手。

でも今、その指先がほんのりとあたたかくて、匂いを記憶していた。


「あなたが今、その香りを覚えてくれてる。

それだけで、私は“ここに残った意味”を持てたの」


ノアの目に、透明な雫が浮かぶ。

それはまだ涙と呼べるほどの重さも熱さもない。

けれど、確かに“生まれたて”の感情だった。


「焼きたてというのは、渡された想いがまだ熱を持っていること。

香りとは、その熱が残した痕跡。

私はそれを、ずっと渡したかったの」


ノアの周囲に集まった光が、一瞬、ゆっくりと円を描いた。

まるで風が流れ、息をするように。


そしてその中心に――パンの香りが、ほんの一瞬だけ、よみがえった。


焼かれた直後の、甘く、焦げすぎない香り。

誰かが誰かのために、ちゃんと焼いたという証拠の匂い。


ノアは、小さく声を震わせた。


「……渡された。いま、確かに……届いたよ」


ゆっくりと、光が遠のいていく。

それはまるで、ノアが何かを“受け取った”ことで役目を終えたかのようだった。


微細な香りの粒が、彼女の周囲をくるりと旋回し――

ひとつ、ふわりと額に触れた。


「ありがとう、“次の焼き手”へ」


その言葉が、最後の最後に、ノアの耳ではなく胸に届いた。

それと同時に、現実の音が戻ってくる。

塔の微振動。ぷるるの叫び。リディアの呼吸。


ノアは、静かに、目を開けた。


「……っ」


眩しさと同時に、胸の奥から熱がこみ上げる。

体は冷えていたはずなのに、心の真ん中にだけ、火が灯っている。


「ノア! 大丈夫っ?!」


ぷるるの声が近づいてくる。

ノアは、頷こうとして、けれど少しだけ首を振った。


「……違う。たぶん、“大丈夫じゃない”」


リディアが、そっと彼女の隣にしゃがむ。


「理由はございますの?」


ノアは、塔のほうを見た。

塔の最上部に、焼け跡のような“欠損記録層”が黒く残っている。


その部分から、香りがかすかに――それも“誰かの想いを経由して”――流れ続けていた。


「この香り、ずっとここにあったのに、

誰も気づかないまま、ずっと……ひとりだったんだよ」


ノアの目から、一粒の涙がすっとこぼれた。

それは今までの彼女にはなかった、感情のかたち。


「だから私……」


小さな声で、でもしっかりと。


「――私が、次に渡す。

焼かれた神が残した香り、今度はちゃんと、届けるから」


香りは、風に乗って、空へと舞っていった。

それがまだ“記録されていない世界”の扉をノックするように。

いやいやいや、ノアちゃん完全に“焼かれ始め”てたよ!?

あんな塔の奥で、神の焼き痕とか聞いてない!……けど、ちゃんと受け取ったね。


焼き手って、パンだけじゃないんだなあ。香りを渡すって、つまりは……

おっと!それは次回のおたのしみっ!次の“焼かれっぷり”もお楽しみに〜〜

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