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あなたにだけ、香るパンを

今回は、「記録ではなく、関係性で届く香り」の実験と到達を描きました。

ノアは“記録されない存在”から、“届いた記憶を持つ存在”へと再定義されはじめています。


パンとは、保存のためにあるのではなく、“あなたの今”にだけ残るもの。

次回は、その“今”が構造神アクトにどんなバグを生むのかが、さらに進展していきます。

塔の影に差し込む午後の光は、どこか粉のように柔らかかった。

その中で、リディアは静かに立ち、炉の前に一枚の板を置いた。


その板には、ひとつのパンの設計図が描かれている。

けれど、いつものような複数の層や香り調整ではない。

そのパンは――ただひとつの“対象”だけに届けるための設計だった。


「このパンは、あなたのためだけに焼きますわ」


ノアが目を見開いた。


「……わたし、だけに?」


「ええ。一般的に“焼かれたパン”は、複数の人に同時に提供することを前提にしております。

でも、これは違います。あなたにしか香らないパン――つまり、**“個人指定焼成”**ですの」


ぷるるが宙でくるりと回転した。


「うわー、リディア様の“関係性指定焼成”モード、実戦投入!? 珍しすぎるー!」


ノアは困惑のなかに、少しだけ期待を含んだ目を向けた。


「……でも、そんなの……できるの?」


「できるかどうかではなく、焼くのです。

あなたに香るパンを、私が焼く――ただそれだけの話ですわ」


リディアの声は、今まででいちばん穏やかだった。

炉が応えるように、低くやさしい音を立てて、光を灯した。

その火は、いつものような白銀ではない。

柔らかな金色。個人の感情に反応した“心の熱”による火だった。


ノアの喉が、ごくりと鳴る。


「……香るって、どういうことなんだろう」


「それは、焼きあがった後に、あなたが決めてくださいませ」


リディアが、ひとつずつ素材を置いていく。

ノアの髪の色に似た麦の粉。

過去の記憶に似た白い液体。

そして、焼かれなかった時間を象る空気の層。


「では――焼き始めますわね」


その一言とともに、炉が静かに、しかし確かに唸った。


ノアは何も言えず、ただその場に座り込んだ。

自分のためだけに焼かれるパン。

それがどんな香りになるのか――彼女自身もまだ知らなかった。


焼成の合図とともに、炉の奥から微かな音が立ち始めた。

いつもなら香ばしい蒸気が外に広がり、周囲に“焼きたて”の知らせを振りまくところだが――


今回は、まるで香りがその場に留まり、誰かを選んでいるかのようだった。


ぷるるが空中で鼻先をひくつかせたが、すぐに困ったように顔をしかめた。


「ん……? あれ? ぷるる、今回、香り、感じないかも……?」


リディアはうっすらと微笑んだ。


「当然ですわ。これは、“ノアのためだけ”に焼いたものですもの。

他者には認識できないように焼いてあります」


ノアが、目をぱちぱちと瞬いた。


「私だけに……香る……?」


リディアはそっとパンを炉から取り出し、ノアの前に差し出す。

ほんのりとした金色の皮、仄かに揺れる湯気。

その一切には、外界への拡散成分が存在しない。

けれど――


ノアは、受け取った瞬間に知った。


「……あ」


甘い。

温かい。

涙が出るほど、なつかしい――けれど思い出せない。

それは、確かに“彼女だけ”に届いた香りだった。


「これは……」


言葉にならない。


「香りは保存できませんのよ、ノア」

リディアの声が、やさしく響く。


「でも、“受け取ること”は、できるのですわ。

そしてそれは、記録されるよりも、ずっと――あなたを残しますの」


ノアは小さく震えた。

パンを抱きしめるように両腕に乗せたまま、ふっと笑った。


「じゃあ……これは、“わたしの記憶”になるんですね」


ぷるるが頷いた。


「そう。記録塔には残らないけど、君の“中”には残る。

焼きたての香りって、そういうもんなんだよ」


ノアはそのまま、鼻先をパンに寄せて――


もう一度、深く息を吸った。


ノアの胸の奥が、ふっとあたたかくなった。

それは焚き火でも、湯でもなく――パンの香りが、内側から灯した熱だった。


その瞬間だった。


「っ……!」


ぷるるが、空中で小さく跳ねた。


「反応が……違う! 塔の下じゃない! これ、ノアちゃんの中だ!」


リディアがゆっくりと目を伏せる。


「ええ。私のパンが届くべき場所に、ちゃんと届いたということですわ」


ノアは自分の胸に手を当てた。

そこではっきりと感じる。

先ほどまでと違う、“外からの揺れ”ではない感覚。


「これ……構造塔でも、地下層でもない……私……?」


ぷるるがふるふると震えながら言った。


「そっか……そっかそっか! 

香りって、世界の構造に届く前に、“人”の中に届くものだったんだ……!」


構造塔の記録端末が沈黙する。

観測対象として登録されていない香り。

パーソナル感情変数――未定義領域。

それらはすべて、神域の演算網に「分類不能」として跳ね返された。


リディアが言葉を添えるように語る。


「“あなたのため”に焼いたパンは、構造よりも“関係”を優先しますの。

誰かのためだけに焼くことで、それは“香り”ではなく“届く気配”となりますのよ」


ノアの瞳が大きく揺れる。


「じゃあ……パンって、保存とか定義とかのために焼くものじゃない?」


「ええ。“誰かのため”に焼くものですわ。

それだけで、世界よりも強い意味を持ち得るのですのよ」


塔の端末がひとつ、ブレた。

“未定義因子により演算保留”という表示が点滅する。


ぷるるはうれしそうに息をついた。


「やばいね、リディア様。たぶん今、神様の演算、ぜんぶふやけてる」


パンを食べ終えたノアは、ゆっくりと両手を見下ろした。


その手のひらは、焼くことも、記録することもできない――

ただ、受け取ることだけができる、白い掌だった。


「わたし……このパンを食べて、何かが変わった気がします」


誰にも気づかれないように、静かに息を吸い込む。

それは香りというよりも、温度だった。

身体の奥に染み込んだ何かが、じんわりと温められていく。


「ずっと、自分のことを“構造失敗体”だと思ってました」

「香りも、感情も、記録されない私は、ただの抜け殻だって」


リディアは否定も肯定もせず、そっと見守っている。


ノアは、ほんの少しだけ笑った。


「でも――このパンは、私に届いた。

記録されない私の中に、ちゃんと残った」


ぷるるが、ふわっと跳ねる。


「うん! それが“焼かれた”ってことだよ!」


「……焼かれた」


ノアはその言葉を、胸の中で繰り返すように呟いた。


「私は……“誰かのために焼かれたパン”を受け取った。

そしてその香りで――私は、焼きなおされたんだ」


遠く、塔の構造制御が軋む音が聞こえる。

微かに震える地層。

だがそれは、崩壊ではなかった。

あたかも新しい設計が静かに再配置されていくような、優しい変化の兆しだった。


リディアが、そっと言葉を添える。


「世界に記録されなくとも、人の中に残るものがございます。

あなたが、あなた自身を“焼きなおした”と感じたなら――

それが、パンの届いた証拠ですわ」


ノアは、もう一度自分の胸に手を当てた。


「これが、“わたし”……」


構造塔の最上層、記録の網がわずかに揺れた。


「観測ログ:感情処理領域に再現性のない変数を検出」

「反応対象:個体“ノア”」

「現象:対象の内面構造に香り由来の波形変化」

「結論:未記録香気による構造非依存共鳴、観測失敗」


そして塔の主、構造神アクト=セカンド=コアが姿を現す。


その眼差しは、もはや完全な論理体とは言えなかった。

どこか、“想定できなかったもの”への迷いが宿っている。


「……そのパンは、構造的にはゼロです。

質量変化なし、記録コードなし、保存不能。

存在していた証拠が、どこにもありません」


リディアが、焼炉の前で振り返った。

手に持つ空の皿から、微かな香りだけが空へと流れていく。


「それでよろしいのですわ。

パンは、保存のために焼くものではありません。

誰かに、いま、届くためだけに――焼かれるのです」


アクトの目が、その言葉に瞬いた。


「届いた?」


ノアが静かに立ち上がった。

目を伏せ、両手を胸元で重ねて――


「はい。届きました。

パンの香りが、私の中に、“いま”を焼いてくれました」


塔の上空で、香りの粒子が静かに舞う。

見えないはずの気配。

記録されないはずの存在。

それが、“今ここにある”ということだけで、世界の記述に誤差が生まれていた。


塔の端末に、淡く表示される異常コード。


感情判定処理:未了

記録遅延:原因不明

再起動条件:人間定義の再解釈要求中


アクトは、それを見つめながら――


「理解不能。だが、破壊命令は実行できません」


沈黙のなか、ノアの背後から微かな風が吹いた。


塔の上部、どこかに開かれた隙間から、ひとひらの香りの記憶が舞い降りる。


そして、幻影の声が遠くで囁いた。


「次に焼かれるのは――世界の記録装置だ」

はいきた、リディア様の単独指定焼成! ノアちゃん専用! あれはやばい!

記録が残らないのに、構造がざわめくとか、神界の保存主義からしたら事故案件だよねこれ!


でも……ノアちゃん、ほんとにちょっと“焼きなおされた”顔してた。

次の話はたぶん、世界の構造にパンが本格的に届くターン!

ぷるる、そろそろ避難バッグ用意しておきます。ふよっ!

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