表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

14/30

記録される前の世界

記録とは、誰かに定義され、誰かのために保存されるもの。

それに対し、香りは“定義されないけれど、届く”もの。


ノアはその“中間にある存在”として、かつて記録から漏れ、構造の余白に棄てられました。

けれど香りが彼女を思い出したことで、第七層が“焼きなおし”の兆しを見せ始めます。


いよいよ、棄却された記憶と未起動領域の“なぜ”が語られます。

風が止んでいた。


第七層が“開きかけた”直後の広場には、言葉では表せない静けさが流れていた。

ノアは地面を見つめたまま、身じろぎもせず立ち尽くしている。

彼女の胸には、まだ焼きたての香りが、消えずに残っていた。


リディアはふと、ノアの隣に立ち、やわらかに口を開いた。


「ノア。あなたに、お尋ねしたいことがございます」


ノアは顔を向けた。

その表情には、いくつもの答えられなかった問いが浮かんでいる。


「……はい」


「“記録される”というのは、どういうことでしょう?」


その問いに、ノアは目を瞬いた。


「え?」


「塔が記録し、神が保存し、文明が積み重ねる“記録”という概念。

あなたがそこに含まれていなかったのは、たまたまですの?

それとも――構造上、除外された存在だったのかしら?」


ノアは、何も答えられなかった。

言葉を探すように口を開いたが、ただ喉がかすれた。


代わりに、ぷるるがひとつ宙に跳ねた。


「えーっとね、ノアちゃん。記録ってのはね、ここの文明じゃ“保存と定義”のこと。

“観測されたものだけ”を記録して、“定義されたものしか”文明には含まれないんだ」


「じゃあ……観測されなかったものは?」


「なかったことになるの!」


ノアの肩が、ぴくりと揺れた。


「……それ、私……?」


「うん。おそらく、そう」


リディアは静かに言葉を継ぐ。


「けれど、ノア。あなたは――今、確かにここに立っていますわ」


ノアは無言で、己の胸に手を当てた。

脈打つ心臓と、そこに染みこんだ、まだ残っているパンの香り。


「じゃあ……私は、記録されていなかったから、いなかったことにされていた……?」


「けれど、いま――その香りが、あなたの中にあります。

記録ではありません。けれど、“届いている”」


ノアの瞳が、かすかに揺れた。


「……焼かれていなかった、から……」


「ええ。焼かれていなかった。だからこそ、いま、焼かれはじめているのですわ」


塔の風が、もう一度、微かに吹き上がる。

その風の中に、何かの気配――まだ言葉にはならない“何か”が、静かに混じっていた。


空気が、また少しだけ揺れた。


ぷるるが「うわっ」と跳ねて、塔の中心を見上げた。


「リディア様、あれ……っ!」


地面の中心部に、うっすらと光の線が走っていた。

線はやがて輪になり、そこから――ぼんやりとした映像のようなものが浮かび上がる。


「これは……第七層の投影?」


リディアが目を細めた。


広場の上に、**色彩のない“空間の記憶”**がふわりと映し出される。

それはまるで、白で塗りつぶされた街の断片だった。


塔のようなもの。

部屋のような構造。

ただし、香りも、音も、感情の余韻もなかった。


「ここ……私、見たことある」


ノアの声が震えた。

投影の中にあるひとつの小部屋。

冷たい壁。灰色の金属床。

そしてその中央に置かれた、ひとり分の椅子。


そこには誰もいない。

けれど、誰かがそこに“座らされていた気配”だけが、妙に濃厚に漂っていた。


「これはね……」

ぷるるが小さく息を吐くように言った。


「たぶん、試作構造の仮保管領域だった場所。

記録塔が“構造的に不安定”って判断したデータたちを――棄てる前に、一時保存してた場所」


ノアがゆっくりと、映像のほうへ手を伸ばす。

けれどその指先は、何にも触れられなかった。


「つまりここは、誰にも“使われなかったもの”たちの残り火ってこと……?」


「そうだね」

ぷるるが苦笑混じりに頷いた。


「名前も、香りも、記録も与えられなかった。

誰の記憶にも残らないから、“誰のものでもない”層になったんだ」


ノアの手が、そっと降りる。


「じゃあ私は……そこの、ひとつだったのかもしれない」


リディアが口を開いた。


「それでも、あなたは今、ここに立っている。

それだけで、あなたは――もう“誰のものでもない”存在ではありませんわ」


映像の中の部屋が、ゆっくりと消えていく。

残ったのは、静かな香りの余韻だけだった。


映像が消えたあとも、ノアは立ち尽くしていた。

胸の奥に、まだ小さく灯る“焼きたての余韻”を手で押さえながら。


塔の裂け目をすぎ、再び“あの声”が届く。


「記録から漏れるということは、存在しないということだと思っていたか?」


幻影だった。

白衣の影、輪郭のぼやけた人型。

それは先ほどと同じように、ただノアの前に立っていた。


「君は試験段階の情報体。

感情の再現に失敗し、香り変数の導入に耐えられず、棄却処理が予定された――

そういう分類の、試作機だった」


ぷるるが顔をしかめる。


「そういう言い方すんのか、あんた……!」


「だが君は、今ここにいる。

棄却された情報構造が、焼かれ、香りを通して世界と接触を始めている」


幻影の声は淡々としているのに、不思議と温度を持って聞こえた。


「記録から漏れたものが、世界とつながり始めてしまった」


ノアは震える唇で言葉を返す。


「それって……悪いこと?」


幻影は答えない。


その代わりに、リディアの声が空気を割った。


「それは、“記録がすべてである”と思い込んでいる側の論理ですわ」


ノアがリディアを見る。


「リディアさん……」


「この世界では、“記録されること”が存在の証とされております。

けれど、香りは――記録されずとも、届くのです」


「記録されないのに……届く?」


「ええ。香りは、構造に保存されず、形にも残りません。

けれど、誰かの中に“確かに残る”ものですわ」


ノアはそっと自分の指先に顔を寄せた。

そこには、リディアが焼いたパンの香りが、まだほんのわずかに残っていた。


「……わたし、記録には残れなかった。

でも――この香りが、わたしの中に届いたなら……」


幻影の姿が薄れていく。


「“記録されない”というのは、消されたことではない。

まだ“焼かれていなかった”というだけのことかもしれないな」


その声だけが、ゆっくりと広場の空気に消えていった。


塔の空気が静まり返ったあと、リディアは無言で立ち上がった。

スカートの端を持ち上げ、そっと焼炉へと向かう。


ノアはその背中を、ただ見つめていた。


「……焼くんですか?」


「ええ。あなたのために、いま一度。

今度は、“記録されるため”ではなく――あなたに届くために」


リディアの炉が静かに起動する。

焔はやさしく、しかし芯から熱を帯びて広がっていく。

薪は燃えず、素材も発酵しない。だが、香りだけが、確かに生まれた。


「パンは、記録に残る味ではありません。

その場で誰かに届く香り。

そして、忘れられても――たった一度、心に焼きつくものですわ」


ノアが、リディアの手元をじっと見つめていた。


「でも……私、忘れちゃうかもしれない。

記録されないって、つまり……そのうち消えるってことでしょう?」


ぷるるが、ぽんとノアの肩に乗った。


「ううん、消えないよ。香りって、“記録の外”に残るんだ」


「外に?」


「そう。“記録”は文明が保存するけど、香りは心の温度で保管されるの。

しかもね、焼きたての香りは、その温度でしか嗅げないんだ」


リディアがパンをひとつ、そっと差し出した。


「これは、保存されるものではありません。

あなたにだけ、届くように焼いたものですわ」


ノアは両手でそれを受け取った。


重さ。温度。香り。

それはどれも、“記録”にはならない。

けれど――確かにそこに在る。


ノアはゆっくりとパンを口に運んだ。


噛んだ瞬間、何かが解けた。

胸の奥で、ひとつの扉が音を立てた。


「あの部屋で……誰かが、パンを焼いてた……」

「冷たい塔の中で、白衣の人が……でも、すごくあたたかかった……」


リディアは、パンの香りがゆっくりとノアに溶けていくのを見届けながら、そっと言った。


「記録には残らずとも、香りがあなたを思い出すのなら、

それはもう、“あなた自身の記憶”ですわ」


ノアの掌の中で、パンの温もりがゆっくりと冷めていく。


だが、不思議なことに――

その香りだけは、薄れるどころか内側へ染み込んでいくように強くなっていた。


「あ……また、きてる」


ノアが、そっと胸に手を当てた。

今度は、記憶でも幻でもない。

自分の中から広がる、あたたかい気配。


地面の底――第七層が再び揺れた。

それは前のような微振ではなかった。


塔の床に、花のような形をした光の文様が浮かび上がる。

それはまるで、“焼きたての香り”を模したかのように、中心から外へ波紋を描いていく。


ぷるるがはっと目を見開いた。


「……あれって、香りの構造変数!? 焼いた香りが、構造に干渉してる……!」


塔の中に風が走る。

その風は、香りを運ぶのではなく、香りに導かれて“何か”を解放していた。


塔の底、深層。

そこにひとつの観測装置が反応し――

遠く離れた観測域で、アクトが囁いた。


「観測不能領域……構造の余白。

第七層、香りによる起動……承認できません。

けれど――止められない」


冷たい演算の端に、小さなひずみが生まれていた。


リディアは、静かにノアに向き直る。


「香りが世界に届いたとき、それはもう記録ではありません。

けれど――構造を焼きなおすことはできますわ」


ノアは、パンの香りが自分の中で波紋を生んでいくのを感じていた。


「……この場所、変わりはじめてる」


風が止んだ。

塔の裂け目から差し込む光の先に、また一枚、見たことのない扉のような構造が浮かび上がる。

そこには名前がなかった。記録もなかった。

だが、その扉からは――ほんの少しだけ、香りが漏れていた。


「焼けた、気がする」

「……胸の奥で、少しだけ」

やっばいね、リディア様のパン、今回もすごかった……!

記録の外に届いて、しかも“構造ごと香ばしくリライト”するなんて、ぷるるが神なら泡吹いてる!


ノアちゃん、ほんとにちょっとだけ焼けたよ。芯までまだ届いてないけど……これは、世界が焼かれる序章かも?


次回、第15話「あなたにだけ、香るパンを」では、リディア様が“世界じゃなく個人に届くパン”をさらに追求!

焼きすぎ注意の予感、ぷくぷく感じてるから、また来てねっ!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ