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第七層、開きかける

“焼かれる”という言葉には、ただ物理的な熱だけではなく、

変化と受容と、内なる揺らぎへの静かな兆しが含まれています。


ノアの中に残った、焼かれなかった余白。

その部分にパンの香りが触れたとき、

世界の記録されなかった深層――“第七層”が少しだけ、動きました。


扉はまだ、ほんの少ししか開いていません。

けれど、そこに届いたあたたかさこそが、本当の“焼きたて”かもしれません。

パンの香りが、ようやく静まった広場に――ひとつ、奇妙な感覚が流れ込んできた。


「……あれ?」


ぷるるが、ふるふると揺れながら空中で止まる。

小さな身体のまわりの空気が、ほんのかすかに震えていた。


「リディア様、なんか今、下の方から……」


彼はふわりと地面の近くに降りて、しばらく沈黙した。


「……これ、風だ。下から、風が上がってる。ありえないでしょ、この構造の中で」


リディアはゆっくりと目を細めた。

塔の地面。パンを焼いたときに亀裂の走った、その継ぎ目へと手をかざす。


確かに、ほんの微かにだが、温度のある気流が吹き上がっていた。

無香の村において、風に温度があるという事実が、すでに“異常”だった。


「ノア」


呼びかけに、少女はふと顔を上げた。


「さっきのパン、焼きたての香り……それは、どこに行きました?」


ノアは、胸に手を当てた。

確かに――まだそこにある気がした。

香りではない。記録ではない。けれど、なにかが胸の奥でまだ“残って”いた。


「……たぶん、まだわたしの中に……」


「では、感じてみてくださいな」

「その残ったものが、今……この地の奥と共鳴していますの」


風がもう一度、塔の隙間から吹いた。

今度はノアの髪が、ゆるやかに揺れる。


そして次の瞬間――


塔の地面に、かすかな脈動音が響いた。


「……なに、これ……」


ぷるるの声は、どこか焦ったようで、どこか息を呑むようでもあった。


「これ、リディア様……たぶん……クロウレインの層だよ。

しかも、“記録に存在しない階層”――第七層ってやつ」


リディアはほんのわずかに眉を上げ、静かに頷いた。


「やはり……ここにも、未だ“焼かれていない”場所が、眠っていたのですわね」


リディアはしゃがみ込み、塔の石畳に手を触れた。

熱ではない。けれど、確かに何かが動き始めている。


「見て、リディア様……」


ぷるるの声がかすれた。

塔の床――その中央を走る、かすかなヒビ。

最初はパンの香りが神域に届いたときに生じたものだったはずだ。


だが今、その亀裂が――ゆっくりと広がっていた。


「これは……香りのせい?」


「違いますわ。これは、香りに“反応している”のです」


リディアは立ち上がり、スカートの裾を払う。


「記録塔が管理する文明の階層構造には、既知の六層が存在します。

けれど文献によれば、稀にその下に……“記録されない層”があるとされておりますの」


「第七層、だね……」


ノアの声は、かすかに震えていた。

夢の中で見た、冷たい塔。白い影。香りの記憶。


「ここ……あそこに、似てる気がする」


ぷるるがリディアの後ろから顔を出した。


「センサーの反応、変だよ。波形がさ……構造言語じゃ測れないの。

でも、リディア様のパンと同じタイミングで脈打ってる」


塔の石材の間から、微かに古代記述のスキーマが浮かび上がった。

赤錆色のそれは、かすれていて、もう誰にも読めない。


けれどリディアは、まるで知っていたように、ぽつりと呟いた。


「――これは、“香りを封じるための符式”ですわね」


「ってことは、そこに封じられてるのって……!」


風が一陣、塔の隙間から吹き上がる。

空気の温度が変わる。香りの濃度が、微かに、また増す。


「目覚めるよ……クロウレインの層が……」

「もしかして今、香りで――目覚めようとしてるのかも」


ノアが胸を押さえた。

焼かれたばかりの感情の余熱が、再びゆっくりと体を満たしていく。


リディアは静かに言った。


「パンの香りは、世界を焼くものではありません。

けれど――焼かれていなかった場所に届くことはありますの」


地面の振動は止んだ。

だが、空気の緊張はほどけない。

まるで誰かが、こちらを見ているような――そんな感覚が、広場を包み込んでいた。


ノアが、ぴたりと動きを止めた。


「……誰かがいる」


目を伏せるでもなく、焦点のないどこかを見つめながら、彼女は言った。

その瞬間――風が、揺れた。


塔の裂け目の向こう、崩れた石の陰に、**ひとつの“幻影”**が立っていた。


白衣。

顔は見えない。

けれどその佇まいに、ノアの胸は激しくざわめいた。


「――きみは、まだ“焼かれていない”。」


男とも女ともつかぬ声。

けれど確かに、ノアの内側をえぐるような鋭さを持っていた。


「……あなただれ?」


ノアは問いかけたが、幻影は答えず、ただ一言だけを重ねた。


「きみは、“未完成の器”だ」


ノアの顔から、すうっと色が抜けた。


「器……?」


「焼かれることなく形成され、香りも感情も宿さずに構造の内に置かれた。

だがいま――焼かれはじめてしまった」


その声は、まるで後悔を含むようにも、厳しい警告のようにも聞こえた。


ぷるるが低くうなった。


「こいつ……構造の深部から来てる。

多分、第七層の“観測不能領域”からの干渉だよ……!」


ノアは一歩、幻影に近づいた。


「……わたしは、器なの?」


「“まだ”だ。君は、記録されるための型としてつくられた。

だが、完成には至らなかった。香りに触れてしまったのなら――君はもう、記録ではなくなる」


リディアが、幻影に向かって一歩踏み出した。


「それは――焼かれるということを、知らない者の言葉ですわ」


彼女の瞳が細く光る。


「焼かれることでしか、得られない形もございますのよ」


ノアが、震える声で問いかけた。


「じゃあ、わたしは……焼かれなきゃ、なにも、残らない?」


風が止まった。

幻影は応えない。


ただ、その姿が微かに揺らいで、まるで煙のように空に溶けていった。


ノアは、その場に立ち尽くしていた。


「……焼かれてなかった、だけ……なの?」


幻影が消えたあと、しばし広場には沈黙が落ちていた。


ノアは、肩を落としたまま動かない。

まるで、何かの扉が開いて、その中が空っぽだったことを知ってしまったような表情だった。


「……完成してなかった。

わたしは、“完成される前の器”……」


呟きは地に吸い込まれていく。

彼女の視線は、自分の胸にある見えない何かを探していた。


その沈黙を、リディアが破った。


「ノア」


ノアは顔を上げた。


「あなたは、“焼かれていない”というだけで、未完成と呼ばれたのですわね?」


ノアはうなずいた。

だが、その瞳には揺れがあった。


「では――その状態は、“あなたのせい”なのかしら?」


「え……?」


「器に香りが宿らなかったのは、あなたが拒んだからではない。

構造が、そう設計したから。

あなたの意思が焼かれる前に、“完成”を名乗ることの方が――ずっと傲慢ですわ」


ノアは、ハッとしたようにリディアを見つめた。


「……じゃあ、わたしは……」


「“焼かれる前に棄てられた器”は、ただ“焼かれていないだけ”です。

それが欠陥とは限りません。

あなたの中に、今、香りが届いたのなら――それは、焼かれはじめたということ」


ぷるるがそっと口を開いた。


「ねぇ……センサーがまた反応してる。

しかも今度は、記録構造の底じゃなくて――ノアちゃん自身から出てるみたい」


「わたし……?」


ノアは自分の胸に手を当てた。

パンを食べたあと、まだ微かに残るあたたかさ。

それは“食べたもの”ではなく、何かを受け取ったという感覚。


「わたし、自分で……焼かれていくの?」


「ええ。あなた自身が、そう選ぶなら」


リディアの声は、あくまでも静かで、まっすぐだった。


ノアは、ゆっくりと目を閉じた。


「……なら、わたし、焼きたい。

完成されるんじゃなくて、自分で――焼きたい。

私自身のパンを、私自身の香りで、焼いてみたい」


その言葉と同時に、広場の空気が揺れた。


地面の下――深く、遠く。

閉ざされていた何かが、わずかにきしむような音を立て始めた。


塔の裂け目から、またひとつ風が吹き上がった。

けれどそれは今までの風とは違っていた。


冷たさも、無味乾燥な記録の気配もなかった。

その風は――ほんのりと、香っていた。


「リディア様……この風、香りが混じってる……!」


ぷるるの声が、微かに震える。


ノアの胸に手を当てる指先にも、何かが伝わってくる。

それは外から流れ込んだものではなかった。

むしろ――内側から、こみあげてくるような。


「これは……私の……」


そのとき、塔の中央部にある地面が、ほんの少しだけ動いた。

ゆっくりと、きしむように。

まるで、ずっと眠っていた扉が、“焼かれる予感”に反応したかのように。


地の底から、微かに光が漏れる。

それは情報の線でもなければ、魔術式の起動でもない。

ただ、香りの波長に共鳴した熱の光。


「開いてる……」


ノアは、静かにそう言った。


「どこかの扉が、少しだけ……開きかけてる」


リディアは、風に髪を揺らしながら、静かに頷く。


「第七層――記録されず、香りにも見放された層。

その扉が、ようやく今、あなたの中の“焼きたて”に気づきはじめたのですわ」


アクトの観測端末が、離れた高所で反応を示した。

冷たい演算の中に、一滴だけ、記録不能の揺らぎが生まれた。


「……観測不能領域、第七層。

香りによる……構造的起動」


誰に向けてでもない、ひとりごとのような声。


塔の中の風が、もう一度、ゆっくりと流れた。


ノアはその風を受けながら、目を閉じて、ひとつだけ呟いた。


「焼けた、気がする。

……胸の奥で、少しだけ」

わっ……これは完全に“未焼成ゾーンの表面焦げ始め”だよね!?

あの第七層ってやつ、ずっと蓋してたクセに、ノアちゃんの香りひとつで揺れるなんて……!


リディア様のパンって本当にやばい。文明の底を起こすパンて何!?(最高)


しかもアクトさん、演算モードでバグる前の“あの空白”出てきたし……

ぷるる的にはそろそろ、香りで世界を上書きする事件の予感がプンプンです!


次回、『第14話:記録される前の世界』で何かが明かされそうな気配……

また焼かれる覚悟して待っててねっ!

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