記録されなかった少女
誰かに「存在しない」と告げられることほど、痛ましいものはありません。
この第11話では、香りという“記録されないもの”に触れようとするノアが、
「何者にもなれなかった」自分と向き合う過程を描きました。
焼かれる前のパンのように、可能性はまだ“熱を帯びていない”。
でもそれは、焼かれる未来が残っているということでもあります。
どうか、この章が、そんな“焼かれる前の誰か”の心に、ふわりと届きますように。
塔が崩れたあとの空は、驚くほど静かだった。
煙はもう昇っていない。
焼かれた香りが、まだ地表を漂っている。
けれどその中に、焼け残ったものがあった。
「――再起動、完了」
冷たい音声が空気を切り裂いた。
崩落の中心部。
塔の神枢があった空間に、アクト=セカンド=コアの再構築演算体が浮かんでいた。
形を持たず、ただ光の糸と演算式の束が、薄く漂っている。
「君には、記録コードが存在しない」
その言葉は、まっすぐにノアへと向けられた。
「記録塔における君の存在記録は、全期間を通じて“未登録”。
スキャン反応なし、タグなし、構造コードの一致無し。
君は、“記録対象外”として分類された試料だった」
ノアは一歩も動かなかった。
けれど、その頬に流れた風が震えていた。
「……“存在しない”って……こと……?」
アクト:「存在はした。だが、それは構造的な価値を持たなかった。
よって、記録の網にかかることはなかった。存在として、意味を持たなかった」
冷たい声だった。
正確で、狂いのない演算結果。
けれどその音は、ノアの中で何かを凍らせた。
「私……ずっと……あそこにいたのに」
リディアがそっと近づいて、静かに言った。
「あなたは、香りを持っていませんでしたのね。
だからこそ――何者にもならなかった。記録にも、パンにも、涙にも」
ノアは、目を伏せた。
胸の奥が、焼かれずに残ったまま冷えている気がした。
「私は……“なににもならなかった”存在なの?」
誰にも聞かれていないはずのその声に、
アクトはもう、何も返さなかった。
ただ、塔の焼け跡から吹いた風が――ほんのすこしだけ、温かかった。
ノアの意識の奥で、音がした。
「記録スキャン開始。対象:No-ID個体、周期コード0047。反応なし」
――それは、遠い記憶だった。
光のない塔の一角。
金属の床。誰も名前を呼ばない部屋。
小さな台座に座らされ、ノアは目を開いていた。
部屋の端には、三体の記録装置と、無言の白衣の人影。
「反応なし」
「香りパターン未登録」
「次周期へ保留処理」
白衣の人物たちは、ノアを見ない。
記録を取らない。反応しない。
ただ、冷えたデータを手にして、次の“対象”へと歩いていく。
「わたし……ここにいたのに」
ノアの視界が、記憶のなかで震える。
誰かがパンを焼く匂いなんて、知らなかった。
誰かのために焼かれる温度も、涙のあとの微かなぬくもりも。
「……何も、記録されなかったのに」
毎月一度のスキャン。
椅子に座らされる。
無音。無表情。無反応。
あるとき、ほんの少しだけ手を伸ばした。
誰かに届くと思った。
けれど――記録装置の光は、ただ無言で拒絶した。
「不正規挙動。排除タグ記録済」
そして、次の周期が来た。
「……それでも、いたんだよ……」
目の前に誰もいなくても。
名前がなくても。
記録されなくても。
ノアは、そこにいた。
ただ――
“焼かれなかった”だけだった。
ノアは、塔の焼け跡に膝をついていた。
焦げた金属の破片に手を伸ばし、その上に落ちていた――ほんの一片のパンのかけらを拾う。
焼け残った香りが、まだそこにあった。
それは、リディアが焼いたものだ。
ほんの少し前、アクトに捧げられたものの余熱。
もう焼きたてとは言えないのに、ノアの胸はずっと、それを探していた。
「……もう一回、香りを……」
ノアは、パンのかけらをそっと鼻先に近づけた。
その瞬間。
塔の断片の中から――青白い光が起動した。
《非登録体による香気干渉検出》
《侵入プロトコル違反。対象排除処理、準備開始》
光が、ノアを囲むように展開される。
「え……?」
構造塔の自動防衛残留体が、彼女の呼吸そのものを“侵入行為”として判断したのだ。
香りに、触れてはいけない。
登録されていない者は、嗅いではいけない。
感じてはいけない。
――それが、この文明のルールだった。
ノアは、そっとパンのかけらを胸に抱く。
「……嗅いじゃ、いけないの……?」
問いかけは誰に向けたものでもない。
けれど、リディアがその場に歩み出た。
「誰が、そんなことを申しましたの」
声は、淡く、鋭く、熱を帯びていた。
「あなたが香りに触れて、塔が拒絶反応を起こした? ――結構ですわ」
光の輪がノアを締めつけようとする。
だが次の瞬間、リディアが焼けたパンのかけらを一枚、手の中で砕いた。
ふわり、と。
その香りが広がった。
「わたくしのパンを焼かれたくないのなら、文明ごと焼き直してきなさいな」
塔の輪がひとつ、音もなく崩れた。
「リディア様、今の、完全に宣戦布告のトーン……!」
けれど、ノアの目はパンから離れなかった。
香りを拒まれても、彼女はなお――焼かれたいと思っていた。
ノアの前に、リディアが静かにひざを折った。
金属と灰の地面に、膝をつく音はしない。
ただ、パンの香りが空気をやわらかくした。
「あなたが嗅ごうとしたのは、香りではありませんわ。
“焼かれた誰か”の想いですの」
リディアは、彼女の手の中からそっとパンのかけらを受け取った。
「あなたには記録がない。コードもない。
ですが――まだ焼かれていないということですわ」
ノアは、ふと顔を上げる。
「……焼かれていないものは、まだ……焼ける?」
リディアは頷いた。
「そう。記録される必要はありません。
香りは構造に残りませんが、心に届きますの」
リディアが指先でパンをちぎり、小さく差し出す。
ノアの鼻先まで持ってくると、ふわりと香りが抜けた。
甘くない。
焦げてもいない。
なのに、あたたかかった。
ノアの内側で、微かに何かがゆれる。
「……香りが、私の中に……」
地面に、ほとんど気づかれないほどの亀裂が走った。
ぷるるがすぐに反応した。
「リディア様、地下構造……今、クロウレインの層が、ぴくって動きましたよ……!」
塔の記録構造が静かに崩れ、
香りが、ノアの内部へと滲みはじめていた。
ノアは、パンの香りに顔を埋めるようにして、低くつぶやいた。
「……まだ、焼けるなら……」
リディアの表情が少しだけやわらいだ。
「ええ。まだ、始まっていませんわ。
あなたが“なににもならなかった”のなら――今ここで、あなたにしかなれないものへと、焼き直しましょう」
空気が一度、静かになった。
そして、ノアの胸の奥で、ひとつ、小さな灯がともった気がした。
ノアは、パンのかけらを胸のあたりに抱いていた。
焦げ目のついたその破片は、すでに冷めかけていたけれど、
香りだけは――まだそこに、確かに漂っていた。
「……わたし、ずっと記録されなかった」
「塔の中で、番号もなくて。
あの椅子に座らされて、何も言われなくて。
……わたし、“なににもならなかった”んだよね」
言葉はどこまでも淡々としていた。
けれど、それは焼け残った灰の色のように、深かった。
「誰にもパンを焼かれたこともない。
焼く方法も、わからない。
なのに――この香りだけが、胸の中でずっと……あったかいの」
リディアは何も言わなかった。
ただ、風の流れる方を向いて立ち尽くしていた。
すると、ぷるるがそっとノアの傍に浮かんできた。
「なあ、ノアちゃん」
「……うん」
「焼かれてないパンってさ、“パンじゃない”って思ってる?」
ノアは、少しだけ目を見開いた。
「焼かれる前のパンは、ただの生地だよね?
でも、生地ってさ……焼かれる“前提”で存在してるんだよ。
むしろ、焼かれてこそ意味があるって状態で、生まれてきてるんだよ」
ノアの手が、そっとパンの欠片を見つめ直す。
「……わたし、生地、だったのかな」
「うん。でも、それって“焼ける未来がある”ってことだよね」
リディアが、ようやく振り返った。
その目は、決して涙を流さずに、あたたかさだけを湛えていた。
「さあ、ノア。
そろそろあなたを――焼きたくなってきましたわ」
ノアは、一瞬だけ笑った。
それはまだ不格好で、どこか遠慮がちだったけれど、
確かにそこに“焼きたての表情”が宿っていた。
いや~~今回は静かに心が焼ける回だったねえ。
ノアちゃん、ほんとよく耐えた! “なににもならなかった”って言葉、重すぎるからッ!!
でもさ、リディア様が言ったよね?
「焼かれていないものは、まだ焼ける」って――あれ、ぷるる的には歴代名言トップ3に入りました!
次回はついにノアちゃん、パンの香りで夢を見ます。
それってつまり……記録されなかった記憶が、香りに引っ張られて目覚めるってこと――⁉︎
乞うご期待!『第12話:パンは、あなたの奥に届いた』でまた会おーねっ!