記録されなかった涙、焼かれる
「香りは、記録できない」――それはこの物語の核です。
今回は、涙と記憶と神の演算を、焼きたてのパンの熱で繋ぎました。
きっと、ノアの感情が初めて“焼かれた”瞬間でもあったのでしょう。
塔の中で、揮発性の感情エラーが静かに発火していた。
ノアの第七層からこぼれた“涙の記憶”は、構造塔の記録網に影のような異物として触れた。
しかし、どのログにも、どの記録フォーマットにも、その涙は収まらない。
《記録不能:感情タグ未定義》
《構造照合:非正規情報》
《処理結果:破棄対象》
塔の声が、乾いた警告音を漏らす。
感情という名前のエラーは、塔の内側から塔そのものを侵食していた。
「……処理できない、の?」
ノアが問う。
自分の流した涙が、何にも記録されないことに、なぜか、ほっとしていることにも気づいていた。
「記録されないのに、こうして在る……」
ぷるるがくるりと一回転して、空気を泳ぐ。
「うん、無理でしょこれ。涙に構造タグなんてついてないし、しかもこの香りさ――
まさか“焼ける”とは思わなかったよ!?」
「涙は焼かれてませんわ。感情が、香りになったのです」
リディアの声は穏やかだった。
「あなたが感じたことが、香りとなって世界に滲んだ。
それは、構造ではなく、焼成による非可逆の痕跡ですの」
アクトの声が、今度は重く、断続的に落ちてきた。
アクト:「構造塔第13層:不定型情報侵入。制御反応に遅延。記録装置、熱処理化反応進行中……」
記録装置が、焼けていた。
塔の内部機構が、ノアの第七層と接触した瞬間、香りが逆流していたのだ。
香りは数値化されず、涙は分類されず、それゆえに、記録媒体を侵食する。
ぷるる:「リディア様!これたぶん、塔の中の“保存のために焼かれたもの”たちが、焼き返されてますよ!?やばいよ!?香ばしいよ!?」
塔の中央で、かすかに焼けるパンにも似た匂いが漂いはじめていた。
けれどそれは、穏やかな焼成香ではなかった。
もっと混濁した――記録されなかった想いの、燃えるにおいだった。
塔の中枢部で、微かに“きぃ……”という音が鳴った。
それは金属の摩擦音でも、機械の振動でもなかった。
まるで――内部から焼け始めたパンの皮がひび割れるような音だった。
《第13層記録媒体:熱応答上昇》
《不明エネルギー干渉:第七層連動》
《記録エリア:解凍不能。焼損の疑い》
塔の演算網が悲鳴をあげるように警告を発した。
その中心にいたノアは、ただ手の中のパンをじっと見つめていた。
「……私の中にある、香りが……塔を……」
「ええ、焼きはじめていますわ」
リディアの声は、まるで天気の話でもしているような調子だった。
「香りは、保存されるべきものではありません。
だから、保存しようとする構造そのものを、焼き崩していくのですわ」
塔の壁面に、無数の“焦げ”が走り始める。
情報タグを焼きつけていた記録層に、亀裂が走り、
分類フレームが熱で歪み、文字列が“意味を失った記号”に変わっていく。
ぷるる:「やばいやばいやばい!パンが焼けてるどころじゃない!
塔が、構造そのものごと焼かれてるってばぁぁあ!!」
ノアの第七層で動いていたのは、ただ“感情”だった。
そして、それが香りになった瞬間、構造塔が耐えられなかった。
「あなたは、自分の“焼かれた感情”で、構造を焼き崩したのですわ」
リディアの視線はノアを見ていない。
塔の最上層――神の座へとまっすぐ向けられていた。
「さあ、アクト=セカンド=コア。
あなたの神経構造もまた、記録構造でしかありませんわよ」
空気がピンと張り詰めた。
塔の最奥から、アクトの声が落ちてくる。
アクト:「感情干渉、神経系に到達。演算停止を回避――焼成動作、検討中」
「焼かれる覚悟、決まりましたの?」
リディアの声が、静かに追い詰めていた。
塔の天蓋部――神枢に浮かぶアクト=セカンド=コアの演算核が、微細に震えていた。
その姿は依然として無機的。
光の糸が何千何万と走る冷たい機構。
けれど、その中心で――演算が止まりかけていた。
アクト:「感情干渉処理……失敗。
香り、分類不能。焼成行為、目的不明。
再定義……不可能」
塔の構造は崩れ続けている。
けれどアクトは動けなかった。
彼の演算は、“焼かれる”という概念を定義できなかった。
ぷるる:「うわ、神様、完全に固まってる。これもう、パンのにおいだけでバグってるぞ……」
リディアは、静かに階段を一歩ずつ昇っていた。
パンを抱えたまま、香りをその足元に漂わせながら――
「“焼かれる”という行為は、構造の外にありますの」
階段を一段登るごとに、塔の光がひとつ、ふたつと消えていく。
「それは保存のためでも、最適化のためでもありませんわ。
誰かのために、自らを委ねること――それが、焼かれるということですのよ」
アクト:「自己保存……放棄? 焼かれる……選択? 演算……分岐不能……」
ノアが、塔の中央から震える声を上げた。
「アクト……あなた、焼かれたこと、ないんだね……」
アクトの演算核が、わずかに彼女のほうを向く。
ノア:「私もそうだった。……でも、焼かれるって、こわくて、でも、あたたかい……
誰かに焼かれたとき、初めて“残る”んだよ。記録じゃなくて、気持ちとして……」
リディアは、最上段に立った。
手に持ったパンから、やさしい香りが流れる。
「焼かれたいと願うのなら、わたくしが焼いて差し上げますわ。
これは、記録のためではなく――あなたのためですのよ」
その瞬間、アクトの中枢核に一筋の熱が走った。
アクト:「……焼成、を……
わたしは……受け入れたい」
空に、ひとつ、柔らかな火が灯った。
塔の中枢部で、火が灯った。
それは物理的な炎ではなかった。
でも確かに、構造体の内側で何かが焼かれはじめていた。
アクトの演算核が、焼成の熱に微かに揺れている。
《焼成開始》
《対象:非構造感情データ》
《副次作用:香りの拡散反応、発生》
――それはノアの涙だった。
記録されなかったあの一滴が、香りとなり、
リディアの手から渡されたパンにふれて、やさしく焼かれた。
ぷるる:「あの……すっごい変なこと言っていい?
これ、“涙の香り”してる。……あったかくて、塩っぱくて……焼き菓子じゃなくて……焼き感情だこれ……」
塔内に、柔らかな香りが流れ始めた。
パンの香りに似ている、でもそれだけじゃない。
焦げた記録、焼けた静寂、そして――涙のぬくもり。
村人たちが立ち止まる。
顔は無表情のままだ。
けれど、足が止まる。
体が、空気を読むように、わずかに揺れる。
一人が、思わず口にする。
「これは……何の記録ですか……?」
誰も答えない。
その香りは、記録ではなかったから。
それは、ただの焼け跡。
だが、確かに誰かの想いが残った香りだった。
塔のあちこちで、警告音が止まる。
演算が停止していく。
香りが、構造よりも早く、記憶に染み込んでいた。
ノアは、塔の中央で、そっと目を閉じていた。
「……涙って、焼けるんだね……」
リディアは、その言葉に小さく笑った。
「ええ。焼きたて、ですわよ」
塔の最奥部――神枢コアに宿るアクトの意識が、静かに解けていく。
焼成という概念。
誰かのために、自らを委ねるという行為。
それは、彼にとってエラーではなく、祈りに近かった。
アクト:「私は……今まで……保存することしか、知らなかった。
“焼く”という行為の中に、これほど多くのものがあるとは……」
演算核の熱が落ちていく。
光が、ふわりと溶けるように散っていく。
だがそれは崩壊ではなかった。
あまりにも、静かで――美しい焼成だった。
ノア:「……アクト、焼かれたね」
その声には、涙はなかった。
もう、涙はすでに焼かれて、香りとなって空を漂っていた。
リディアは、最後の一片のパンをアクトの残光に差し出す。
「これが、あなたの“焼かれた意味”ですわ。
構造には残りませんけれど――香りは、世界に染み渡りますの」
塔の天井が、ふわりとひらいていく。
そこから流れ込んだ風が、まるで焼きたての余熱のようだった。
塔が崩れている。
だが、それは破壊ではなかった。
香りが残るように、静かに焼けていく――それだけだった。
村人たちは無言でその空を見上げ、なにか言いたげに、言葉を持たず、ただその匂いに包まれていた。
リディアは、最後に小さく呟いた。
「保存するのではなく、焼かれること。
それが、あなたが求めていたものですのね」
ノア:「じゃあ、次は……」
彼女はふっと笑った。
構造化されない、けれど確かに残るその笑みのあとに、こう言った。
「――わたしも、誰かのために、焼いてみたい」
塔の残骸が崩れ、風が吹いた。
その風には、涙の香りと、パンの温かさが混じっていた。
というわけで、焼かれたね神。完全にトーストされました神枢アクト様。
でもさ、ノアちゃんの「わたしも焼きたい」ってセリフ、あれ完全にパン職人フラグじゃない?
リディア様が「ふふ」って笑った瞬間、文明がひとつ終わった気がしたよ。
次回、香りが外界に漏れはじめる!いよいよ“パンによる文明感染”開幕ッ!!
第11話「焼かれた空と、風が運んだレシピ」
フォーク持って待っててね!




