パンの香りが、空に届かない
香りが届かないというのは、思ったよりずっと不安なことでした。
焼きたてのパンの匂いが、世界を安心させてくれるのなら――届かない場所では、きっと、別の法則が支配しているのでしょう。
今回は、“焼かれたことのない村”での最初の朝の話です。
――風が吹いていたが、何の匂いもしなかった。
「……これは、焼かれてないですね」
そう呟いたのは、リディアではない。リディアの肩に乗った、透明半固体の――もにゅもにゅと柔らかく脈打つスライム型魔導具、ぷるるである。
「ぷるる、焼き加減の話じゃなくて、これは空気の話よ。風が吹いてるのに、何の匂いもしないの。不自然だと思わない?」
「いえいえいえいえ、リディア様。ぼくスライムですけどね、香りの専門家ですからね。これは、物理的に“香りが排除されてる”感じです。フィルター越しの空気、っていうか。言うなれば、デオドラント次元って感じです」
リディアは歩を止めた。目の前に、目的の村が広がっていた。名を、ヴェイ=ネヴァル。
地図にも記録にも、そこには“人が住んでいる”と記されている。しかしその村には、香りが存在しなかった。
畑はある。井戸もある。洗濯物は静かに揺れている。それらは「人の生活」を確かに示しているはずなのに――
「生きてる匂いが、しない」
リディアがぽつりとそう言ったとき、道の先、村の門のそばに佇むひとりの男と目が合った。
「こんにちは、パン屋の方ですか?」
表情はない。目の動きも、声の抑揚も一切ない。だが、その無機質な挨拶は確かに言語として成り立っていた。
「……ええ、そうですわ。旅のパン焼き屋ですの」
リディアは微笑んで答えたが、男はまばたきすらせず、棒読みのように言葉を継いだ。
「歓迎はされません。通行と焼成の権限はありません。香りの有無を確認中です。お待ちください」
「……焼成の、権限……?」
リディアは眉をひそめた。ぷるるがぴょん、と跳ねてリディアの髪の間に潜り込む。
「焼成って、パン焼く行為のこと言ってますよリディア様。あの人たち、パンを“許可制の技術”か何かと勘違いしてません?」
「いや、勘違いじゃないのかもしれないわね。これは――私たちが、ここにいていいのかどうかの問題かも」
リディアは視線を村の中に向ける。誰も彼もが、整った衣服、整った所作で、そして同じ顔をしていた。表情がないのではなく、まったく同一の無表情が、彼らのデフォルトだった。
「この村……感情が存在していない……?」
「うへぇ、焼きたての喜びとか絶対ないやつですね。パンの敵、ここに極まれり、って感じです」
「……気をつけましょう。ここは、“焼かれたことのない”土地なのかもしれません」
リディアはそう呟き、そっと炉の蓋に手を置いた。まだ焼かない。だが、この文明が“焼かれる”ことで、どう反応するか。
その瞬間の予感だけが、どこか――無香の空の奥で、冷たく点滅していた。
――リディアはそっと炉の蓋に手を置いた。まだ焼かない。だが、この文明が“焼かれる”ことで、どう反応するか。
「では、とりあえず……いつも通りの朝食を用意しますわ」
「うわ、焼きに入るの早くないですか!? 村に歓迎されてませんよ!?」
ぷるるが泡のように震えながら肩の上で跳ねるが、リディアは落ち着いたままだ。
「私、何も特別なことをするつもりはないの。旅の途中で少し立ち寄っただけ。だから、焼くだけ」
リディアは木箱から炉の脚を展開し、平らな地面に設置する。土に触れると同時に、炉の下部から小さな魔方陣が光を放ち、安定化が完了した合図として「ピッ」という電子音が鳴る。
「うわー出ました、いつもの反応なしナチュラル美少女ムーブ……ぼくの心臓があったらドクドクしてますよリディア様……」
「心臓どころか内臓もないでしょ、ぷるる」
「魂と香りでできてますけど? 超高次元スライムですけど?」
リディアは炉の側面から淡い白銀の粉を取り出し、静かに成形を始める。
「今日のパンは、シンプルに小麦とオリーブオイルだけにしておきます。香りが強くならないように」
「焼くこと自体がアウトっぽい雰囲気なんですけどそれは……。ってか、今、空、変な揺らぎしてません?」
ぷるるが不穏な声を漏らしたが、リディアは無言で粉をこね、ゆっくりと炉の中心部に生地を置いた。
その瞬間だった。
――すっ と、何かが抜け落ちた。
「……あれ?」
空へと立ち上るはずの、あの黄金色の香りの柱。世界に染み込むように広がる“パンの息吹”。それが、途中で止まった。
まるで、天井の見えないガラスにぶつかって弾かれたように、香りが空に届かなかったのだ。
「……焼きあがってますのに……香りが、昇っていかない……?」
「うわあああああああ出たぁあああああリディア様、パンの香りが反射されてる! 拡散じゃなくて、“遮断”されてますよ! ここ、空気に香り通すつもりゼロだ!」
リディアは手を止めて、すっと周囲を見渡した。無表情のまま作業していた村人たちが、全員同時に動きを止めている。
そして、空間に電子音のような高音が鳴り響いた。
――カチッ、カチッ、カチッ
まるで時計の針が逆回転するような、奇妙な拍動音。そしてそれと共に、村の中央広場上空に、幾何学的な構造体のような魔方陣が展開される。
「うわ、これ完全にシステム発動してる……! 村の防衛陣か何かか!? 侵略反応ってやつかこれ!?」
「……パン、焼いただけなんですけど」
「その“だけ”がアウトなんですよリディア様ァ!」
焼きあがったばかりのパンの山が、構造体の下で静かに湯気を立てていた。
しかしその香りは、どこにも届いていなかった。
――焼きあがったばかりのパンの山が、構造体の下で静かに湯気を立てていた。
しかしその香りは、どこにも届いていなかった。
「リディア様……パンの香り、閉じ込められてます……。あんな構造陣、記録にないレベルでヤバいですよ……!」
ぷるるが震えながら、リディアの肩から炉を見上げた。空に広がる魔法陣は、まるで結界のように村全体を覆っていた。立方体状の座標構造を持ち、内部に“流体的な情報層”が浮遊している。
「……制御魔術じゃないわね、これは……“記録領域”の干渉式?」
「そーですそーです、香りの分子を空間に“記録”できるかどうか、それがこの村の判断基準になってるんです。で、リディア様のパンは、記録されなかった。だから“異物”って認識されたっぽいですよ!」
リディアは一歩、焼きたてのパンに近づいた。表面は金色に焼き上がっており、内部のふくらみも理想的だった。
ただ、その香りが、どこにも届いていない。
「香りを記録できない……というより、“香り”という概念自体が、この文明に存在していないのかしら」
「そうそう! それがぼくの恐れてた“無香構造文明”ですよぉ……やっぱヴェイ=ネヴァル、こわ……。この村、嗅覚じゃなくて“定義”で世界を維持してるっぽいです」
ぷるるの声が、珍しく深刻だった。リディアが視線を村人たちに向けたとき、それは起こった。
村の全住人が、同時に顔を上げ、同時に口を開いたのだ。
「――侵入対象、香り保持者。構造外反応、確認」
「――焼成者、記録外行動を実行」
「――焼成者、拒否します」
その声音には一片の怒りも憎しみもなかった。ただ、冷たく無機質に、情報として“拒絶”の意思が読み上げられていた。
リディアの目の前で、ひとりの老婆がゆっくりと近づいてくる。編みかけの籠を抱えたまま、その動作に一切の感情はない。
「焼くことは、過去の行為。香りは、不要」
「記録されない感覚は、許容されません」
リディアは、しばらく言葉を失っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……記録されないから、存在しない。なるほど、ずいぶんと“きっちりした”世界ですこと」
「リディア様、撤退しましょ!? これ、完全に敵視されてますよ! 拒否反応=防衛陣=次の段階は排除処理って流れですってば!」
「でも、排除されるようなことはしていませんわ。私はただ、パンを焼いただけ」
その“ただ”が、最も大きな異常として世界に記録されない。
村の空には、先ほどの立方体構造陣がさらに分裂を始めていた。小さな粒子が舞い、空間情報の“書き換え準備”が進行している。
そしてそのとき。
広場の片隅、朽ちかけた塔の影で、何かが“こちらを見ている”気配がした。
視線。リディアが首をわずかに傾けると、その暗がりに、ひときわ白い目があった。
その瞳は、たしかにパンを見ていた。
まるで、それが世界で初めて見るもののように。
――視線。リディアが首をわずかに傾けると、その暗がりに、ひときわ白い目があった。
だが、その気配はすぐに引っ込んだ。何かが物陰に消える気配。
「今の……」
「見てましたね。パンを。あの子だけ」
ぷるるが、目を細めるように液状の身体を傾ける。だが、それ以上は気配が掴めなかった。
リディアは視線を戻し、無表情の村人たちに再び向き直る。まだ“パンを焼いた”という事実が彼らの中で処理されきっていないようで、全員が硬直したままだ。
「ねえ、あなたたち……この香り、わかるかしら?」
そう言って、リディアは片手で焼きたてのパンを持ち上げた。外皮は艶やかで、指先からほんのりと温もりが伝わってくる。
「この香り。焼きたてのパンの香り。ふくらんだ小麦と、オイルと、炉の熱が織りなす……」
彼女は静かに、丁寧に言葉を選んで語りかけた。
「……“人に食べてもらう”前提で作られた香りなの。空腹をそそり、心を落ち着け、記憶を呼び起こす。そういう香り、あなたたちは――」
「記録されていません」
リディアの言葉を遮るように、村の男が言った。その声も、無機質だった。
「香りの定義は存在しません。香りは、共有不可能です。香りは、形を持ちません。記録されない事象は、認識に値しません」
「はああああ……来ました、文明断絶ワードラッシュ……。これはもう通じる気配ゼロですね」
ぷるるがぐにゃぐにゃと肩で波打つ。
「リディア様、あの人たち、“感覚”を記録の対象にしてるっぽいです。たとえば音なら波形、色なら光度。味なら成分。……でも、香りだけは、“定義できる形”がないから、最初から切り捨てられてるっぽいんですよね」
リディアはパンを見下ろす。
そこにたしかに存在しているもの。けれど――この村では、存在していないことになっている。
「記録されないから、存在しない。あなたたちの世界では、そうなのね」
「情報化不能な現象は、拒絶されます。侵入対象はただちに村域外へ移動してください」
男はそう言うと、再び歩き出した。まるでプログラムされたような動作だった。
「じゃあ……この焼きたてのパンは、“ただの物質”ってこと?」
リディアは自分に問いかけるように呟く。
ぷるるはしばらく沈黙していたが、やがてぽつりと答えた。
「ここでは、そうですね。パンの“目的”が、伝わってない。だからただの、熱を持った小麦の塊って扱いです。焼きたて、じゃない」
「……だったら――」
リディアが視線を上げたそのとき。
「だったら、私が証明しますわ。このパンが、“ただの物質”じゃないってことを」
その目は静かだったが、どこか微かに揺れていた。
「それが……この村の境界を揺らす一歩になる気がするんです」
「こ、こわ……リディア様、文明ごと焼きかねない発言が軽いです! もっと自覚して……!」
ぷるるが泡を吐いて震えるそのとき、風がまた一度、無音で吹いた。
香りは、乗っていなかった。
――風がまた一度、無音で吹いた。
香りは、乗っていなかった。
リディアは黙って、焼きあがったパンを手のひらで包み込んでいた。焼きたての熱はある。けれど、香りが“伝わらない”という現象は、これほどにも静かに、重く、胸を締めつけるものなのかと感じていた。
「ぷるる……」
「はいはい、知ってますよ。リディア様は“ただ焼きたいだけ”なんですよね。でも……たぶんこの村にとっては、“焼く”って行為そのものがバグなんです」
「……わかっているわ。だけど」
リディアが言いかけたそのときだった。
――ぱさり。
微かな音がして、何かがリディアの目の前に落ちた。
それは、小さな羽根だった。灰色がかった白。ふわりと浮かんだその羽根を、リディアが無意識に見上げると――
視線の先、朽ちかけた鐘楼の屋根裏、その暗がりに。
ひとりの少女が、静かに佇んでいた。
その存在は、構造体によって“感情”や“香り”が封じられたこの世界において、まるで場違いなほどに、静謐で、輪郭がはっきりしていた。
「誰……?」
リディアが声を漏らすと、少女はわずかに体を傾け、そして、階段の影からゆっくりと降りてきた。
靴音はない。表情も、ない。
だが、目だけが、あまりにも人間的だった。
リディアが手にしているパンを、少女はまっすぐに見つめていた。息も声もなく。
そして、距離がわずかに詰まった瞬間。
その少女――ノアは、ほんのわずかに眉をひそめて、口を開いた。
「これは……」
その声は、まるで乾いた紙をめくるように、静かだった。
「……焼きたてじゃない」
ぷるるがピクリと反応する。リディアも、無意識に手の中のパンを見下ろす。
「え……?」
「……焼いてはいる。でも、これは、“焼かれていない”」
ノアの声には、抑揚がなかった。ただ、確信のような静けさがあった。
「香りが、外に出ていない。だから……これは、“焼きたて”ではないの」
そのとき、リディアの背筋を一本の電流が走った。彼女の言葉は、この文明の常識の外側からやってきていた。
この少女は、知っている。
“焼きたて”というものが何であるかを。
「あなたは……誰?」
リディアの問いに、ノアは答えなかった。ただ、その目でパンを見つめたまま、もう一度、同じ言葉を繰り返した。
「これは、“焼かれてない”……」
その瞬間、空に浮かんでいた構造体が、低く震え始めた。
まるで、ノアのその言葉に反応したかのように。
第二部で後書きを担当します、ぷるるです!
パンが焼けたのに香りが届かない……という超事件が発生しました。個人的には大事件です。泣きます。鼻ないけど!
リディア様、もうちょっと警戒してくださいよ!この村、明らかに焼きものNG空間ですって!
でも最後に現れた少女、ノアちゃん。
なんだか“焼きたて”って言葉の意味を……知ってる感じでしたよね? 怖いけど気になる……!
次回、第2話「香りのある者、受け入れ不可」。パンの香り、再び文明と衝突します!神様も見てるかも……?お楽しみに!