元カノの依頼
1
死は肉体という牢獄からの魂の解放である。
人は自殺に理由を付けたがる。誰かが自殺すると、その動機を探り、従前の言動に自死の兆候を見出そうとする。自殺した文学者のテキストを論じると、必ず、著者が自殺したということから作品を読み解こうとする者がいる。
だが、テキストは独立して読むべきだ。
残念なことに、作者が自殺すると、作品の中に死の陰を探しだそうとし、作者を精神病にしたがる。これは、病んだ作者が書いた病んだ作品である。そういうラベリングをして安心したがるのだ。
健康で力強い作者が明るい小説を書いた。
それなのにその作者は突然自死した。
健康に不安があったわけでもない。経済的に問題があったわけでない。手痛い失恋をしたわけでもない。
そんな作者が理由もなく死を選んだことが不安なのだ。不条理に向き合うのが怖いのだ。だから、悩みや病気のせいにしたがる。
だが、脱獄するのに理由はいらない。
たまたまその機会に恵まれたので飛び出したにすぎない。
ずっと脱獄することを狙っていて、ついにそのチャンスをつかんだのだと、後から人は言うかもしれない。
否、否、そうではない。
ただ、空が青かったからだ。
それだけだ。
囚われの身から解放されるのに他に理由が必要だろうか。
2
「ごめんね。忙しいのに時間を作ってもらって」
私が席に着くと、慶子が申し訳無さそうに言った。
「別にいいさ」
再会した慶子からメールで連絡をもらった時、正直会うかどうかを迷ったが、結局、了承する返事をした。彼女が予約したのは神楽坂にある和食の店だった。料亭のような門構えだったが、中に入ると靴のまま上がることができた。
店員が案内してくれたのは個室だった。
和室なのに床には厚い絨毯が敷かれていて、テーブルと椅子が置いてあり大正時代の洋間のようだった。
「高そうな店だね」
「そんなことないわよ」
「飲み物は何にする?」
「ビールで」
「料理はコースで注文をしてあるから」
「そうか」
すぐに陶器の杯に注がれたビールが出てきた。
「乾杯」
杯を合わせた。
「久しぶりね」
「そうだな」
だが、慶子と酒を飲むのは久しぶりではない。慶子と付き合い始めたのは高校生の時からだった。あの頃は酒を飲む習慣はなかった。
こうして酒を酌み交わしていることが過ぎ去った歳月を感じさせた。
「石田君のお通夜の時は、話をすることもできなかったわね」
「ああ」
学生時代の友人だった石田が亡くなったのを知ったのは、通夜が始まる三時間前だった。私はすぐに秘書を呼び、夜のスケジュールを調整した。
幸い通夜が行われる寺は事務所からそう遠くない場所なので午後七時からの監査法人とのミーティングの前にお通夜に行くことができた。
車を外に待たせて、私は小走りで通夜の会場に入った。
香典を出し、焼香を済ませて車に戻ろうとしたところ、声を掛けられた。
「慎ちゃん? 慎ちゃんなの」
「慶子か?」
「ここに来れば、会えるかもしれないと思っていた」
慶子はそう言うと懐かしそうな顔した。
「すまない。外に車を待たせている。仕事なんだ。すぐに行かないとならない」
「そうなの」
慶子が失望した顔をした。
私は名刺を取り出すと、彼女に渡した。
「連絡先だ」
慶子は名刺を食い入るように見た。そして顔を上げた。
「弁護士になったの?」
「ああ」
何か言いかけた慶子をその場に残して待たせている車に乗り、監査法人とのミーティングに向かった。
数日後、慶子からメールが来た。
弁護士である私に依頼したいことがあり相談したいのだという。
少し迷ったが、今慶子がどういう暮らしをしているのか、そして石田がどうして死んだのかについて興味があった。
慶子は私が高校、大学のときに付き合っていた相手で、石田は、かつては親友とでも言うべき存在だった。
「やっぱり弁護士って忙しいの?」
慶子は半分くらい空けた杯を持ちながら言った。
「まあな」
私を呼び出した真意は分かりかねたが、まずは知りたいことを訊いた。
「ところで、石田の死因はなんだったんだ」
通夜の時は時間が無くて、詳しい話を聞くことができなかった。同い年でまだ若い石田が何故死んだのかが気になっていた。
「自殺よ」
やはりそうかと思った。 体にガタが来て亡くなるにはまだ若すぎた。
「理由は?」
「そんなこと分かるわけないじゃない。だって私は彼の奥さんじゃないんだから」
その言葉で過去が蘇った。
確かに慶子は石田の妻ではない。
だがヤツの女だった。
そして私の恋人でもあった。
慶子が石田とできていたことを知ったのは二〇歳の夏の終わりだった。
当時、私は小説を書いていて、大学で石田と同人誌の真似事のようなことをしていた。
夏のある日のことだ。ゲラが刷り上がったという連絡を受けて、印刷所にゲラを受け取りに行き、その足でゲラを石田に持っていくことにした。
石田は高校を卒業して大学に進学すると都内に実家があったが一人暮らしをしたいと言って経堂に部屋を借りて住んでいた。八月の下旬で大学は夏休みの最中だった。
携帯電話は今のように誰もが一人一台持っている時代ではなく、石田の部屋には固定電話も無かった。
そこで私は、直接、石田のアパートに持ってゆくことにした。もし不在でも、ポストに突っ込んでおけばいいと思った。
石田の部屋は経堂から歩いて一五分ほどの住宅地にあった。
駅から歩く間にシャツは汗だくになった。
石田の部屋の前に着くと、私はドアのチャイムを押した。
反応が無かった。
留守のようだった。
私は、ポストにゲラの封筒を入れて帰ろうと思った。だが封筒が大きすぎてポストにうまく入らなかった。
すると部屋の中から人の声がしたように思えた。
「おい、いるか」
そう言って、ドアのノブを回すと鍵はかかっておらずドアが開いた。
「なんだ。いたのか」
そうつぶやくとドアを開けて部屋にあがった。石田は部屋にいるときは鍵をかけることはなく、訪ねて行ってこんな風に勝手にあがることはこれが初めてではなかった。
夏の午後の日が差す暑い部屋に、石田が慶子の上になり体を重ねていた。
二人共裸だった。
肌の汗が玉になり、日光を受けて光っていた。
石田の腰の動きに合わせるように慶子が吐息を漏らしていた。
むせ返るような熱が立ち込めた部屋で、私は凍りついたように立ち尽くした。
慶子は高校の同級生で初めて付き合った異性だった。
初めてデートをしたのも、キスをしたのも、初体験も、すべて慶子とだった。
そのよく知っているはずの慶子が見知らぬ人に見えた。
そして、私が見たことのない顔をして石田の下で動いていた。
畳の上に校正用のゲラが落ちた。
その音に慶子は動きを止めた。
そしてこちらを見た。
慶子は驚きの叫びを上げるわけでもなく、私のことを珍しいものでも見るような顔で見た。
白い肌がピンク色に上気して汗ばんでいた。
私は部屋を飛び出した。
経堂から電車に乗り、渋谷に出た。
夏休み終盤の渋谷は若者で溢れていた。あてどなく雑踏の中を歩いた。
世界が終わったような気がした。
日が落ちかけた頃にセンター街の奥にあるショットバーに入った。そして飲みなれない酒を何杯も飲んだ。気分が悪くなり路上で吐いた。
その先のことはよく覚えていない。
それ以後、慶子にも石田にも一切連絡することを止めた。実家に住んでいたが、電話があっても居留守を使った。
夏休みが終わると同人誌のサークルを辞めた。
私は高校生の頃から小説を書いていて小説家を目指していた。だが、両親は私が大学の文学部に進学し小説を書くことに没頭することに大反対した。そこで妥協して通っていた付属高校の上の大学の法学部法律学科に推薦で進学した。慶子と石田とは高校時代の文芸部の仲間で、彼らも推薦で大学に進学し、大学で同人誌のサークルに一緒に入ったのだった。
私は小説を書くことも嫌になった。
三年になり専門課程が始まると、きっぱりと小説家になる夢を捨てて司法試験を受験することにした。
それ以降は司法試験の勉強に没頭した。慶子は文学部で、石田は経済学部なのでサークルを辞めてしまえば、同じ大学に通っていても顔を合わすことはなかった。
「それで、僕に相談って何だい」
すっかり年相応に老けてしまった慶子を見ながら私は言った。
「実は、離婚したの」
なんだ、離婚の話かと思った。弁護士と聞くと誰もが離婚事件を連想して、ピンチの時には頼むと言う。だが私は弁護士になってから一度も離婚事件を手掛けたことは無い。
「離婚の相談か?」
「違うの。離婚はもう済んだことなの。でも慎ちゃんが弁護士になっていたのなら、慎ちゃんに相談すればよかったかしら」
「いや。僕の専門はIPOだ。離婚事件はやったことがない」
「アイピーオーって何?」
「簡単に言えば会社を証券取引所に上場させることだ。企業関係を専門に扱っている法律事務所で働いている」
「そうなんだ。なんだかすごいね」
「別にそれほどでもないさ」
「それで、話したかったのは、私には家族がいないってことなの」
「お母さんは?」
「亡くなったわ」
「そうか……」
慶子は早くに父を亡くし母子家庭だった。だが、母親の実家が資産家だったので経済的には困っていなかったようだった。
「癌よ」
「そうだったんだ」
「それで私、一人になっちゃったの」
「子供は?」
「子供はいないわ。前の夫の子供を流産して、子供を産めない体になったの」
いろいろあったのだなと思った。
だが、あの夏の日のアパートで石田に抱かれているところを目撃してからずっと口をきいていなかった。それなのに突然こんな風に二人きりで会い、打ち明け話をされても正直なところ戸惑うだけだった。
「それでね。慎ちゃんにお願いしたいことがあるの」
「なんだい」
「私のことを殺してもらえるかしら」
3
「どうしました」
いつも仕事の帰りに立ち寄るバーの女性のバーテンダーが訊いた。
「いや、何でもない」
「先生、なんだか最近考えごとばかりしていますよ。お店に来た時くらいお仕事のことは忘れてリラックスして下さい」
「ああ」
あの日、慶子が私に自分を殺してくれと言ったのは尊厳死のことだった。身寄りの無い慶子は、自分がもし植物状態になったら、慶子本人や家族に代わり生命維持の措置を停止させる意思表示をする役割をお願いできないかということだった。
どうして、それを自分に頼むのかと訊いたら、弁護士ならそういうことができると思ったのだと答えた。だが、私以外に知り合いの弁護士がいないので頼んでみようと思ったらしい。
慶子はどうやら成年後見人制度と勘違いをしているようだった。意識の無くなった被成年後見人に代わり成年後見人の弁護士は財産の処分をすることができる。だが本人の命となると別だ。それを私は慶子に説明した。
「そうなの」
慶子は失望した顔をした。
「悪いが僕には何もできない」
「そっかあ。分かった。でも生きるってなんだか大変でさ、面倒くさいよね」
「ああそうだな」
「ところで、慎ちゃんは、結婚してるの」
「ああ」
「お子さんは」
「一人だ」
「ちゃんとしているんだね」
「まあな」
「ところで石田君が小説を書いていたのを知っている?」
「知っているも何も、僕たちの繋がりは小説を書くことだったろう」
「そうじゃなくて、最近のこと」
「知るわけがないだろう」
「私も知らなかったんだけど、お通夜の席で山木君が石田君がインターネットの投稿サイトで小説を書いていたって話をしていたの」
「ラノベとかで有名なあれか」
「そうそう」
「あいつがラノベを書いてたのか」
「違うの。確かに投稿サイトはラノベとかで有名だけど。石田君はエッセイや純文学を投稿していたの。もちろんPVはゼロに近かったらしいのだけど」
石田がまだ小説を書いていたということに私は何か頭を殴られたような気がした。
「なんていうペンネームなんだ」
「それがね。『思考団』っていうの」
「『思考団』だと」
それは高校の文芸部の時に私と慶子と石田で出した詩集のタイトルだった。高校生なので印刷して製本する金などなく、手書きの原稿をコピーして手作りで作った詩集だった。
「一度、アクセスしてそのペンネームで検索して彼の書いた作品を読んでみて」
「ああ、分かった」
正直なことを言えば、作品を読むのが怖かった。何が書いてあるのか見当もつかなかった。
そして、それを読むことで自分が蓋をした若い頃の小説家になる夢や慶子への気持ちなどが、パンドラの箱の蓋を開けたように蘇ったりしないかと不安になった。
「おかわりはどうします」
バーテンダーが訊いた。
「同じものをくれ」
私はポケットからスマートフォンを取り出した。
そして投稿サイトにアクセスした。
そのサイト内で『思考団』と検索した。
思考団という作者の作品が出てきた。
その作品の中に『自死』というタイトルがあった。
投稿した日付を見た。
自殺する前日だった。
私は、その作品のページを開いた。
「死は肉体という牢獄からの魂の解放である」という一文から始まる短い文章だった。
(何だって。空が青いからだと。自ら死を選んだのは、ただそれだけだというのか)
もちろん、これは投稿小説サイトに投稿された作品だ。
遺書ではない。
だが、まるで石田が私に語りかけているような気がした。
ぜんぜん『なろう』らしくない作品です。
でも、こんな作品でも発表することができ、さらにPVがゼロでもないのが、また『なろう』らしいところです。
読んでくださりありがとうございました。




