第38話 砂漠の月
深夜、自室にして。
「やっと、読める……」
机にある一冊の本──『砂漠の月』を前に、奏太は深く息をついた。
結局、この本を入手するために隣町の書店も巡る事になった。
何店かは在庫切れて涙を呑む思いをしたが、県内でも有数の規模を持つ大型書店で一冊だけ残っていたのを購入する事ができた。
数々の大物作家の本がひしめく棚の中、隅っこでぽつんとあった『砂漠の月』を見つけた瞬間の喜びは一生忘れないだろう。
その代償として帰宅時間が深夜になり親に怒られてしまったが、この本を手に入れられた成果に比べると瑣末な事である。
「さて、と……」
感慨もひとしおに、本を開く。
『砂漠の月』のあらすじは、うだつの上がらない主人公が、人生の一発逆転を狙って文学賞を取るべく奮闘する、というものだ。
──最初は正直、主人公が叶えられもしない大きな夢だけ見て、何も動かない姿を正直馬鹿にしていたんですよ。
カフェで文月が懇々と語った感想を断片的に思い起こしながら読み始める。
文月の言う通り、序盤は人間のクズを体現したような主人公がでかい口を叩いてばかりで行動しない様相に辟易した。
しかしそれで読む気が失せるという事もなく、不思議と先が気になってしまい、次々とページを捲っていく。
──でも、彼は動かないんじゃなくて、動けなかったんです。主人公は、過去のトラウマが原因で人の目が怖くなって、自分の殻に引きこもるしかなかった。
──長い間ずっと、努力して苦しんでいたことが作者の巧みなミスリードで明かされて、一気に主人公の見え方が変わりました。
奏太も同じように、主人公に対する印象が変化した。主人公に共感できる部分もいくつかあって、少しずつ応援したい気持ちが湧いてくる。
──もう、そんなに苦しいならやめたほうがいいってくらい、見てられない醜態を晒し続けてたんですけど、彼はもう、やめることが出来なかったんですよ。
──過去のトラウマが原因で人と関わる事ができなくなって、それでも自分の存在理由はどこかと探し続けて、やっと辿り着いた最後の希望に縋るしかなかった。
──昔に囚われて、選択肢が自分の中で消えた後でも先に進もうと苦しみ続けていました。そんな、どうしようもない弱さと同時に、意地とでも言うべき強さがあったんです。
ここのパートは思った以上に重い話で、ページの進みが遅かった。
途中で集中力が切れて休憩したり、読む場所を机からベッドに変えたりした。
時刻は夜の三時を回ってしまっている。
明日の授業での居眠りは避けられないだろう。
しかしそんな事はもはやどうでも良くなっていた。
文月の本心を知るためにという当初の目的は頭から消えて、奏太はこの冴えない男の物語に魅了されていた。
この物語の結末を見届けたい、その一心になっていた。
──結局、最後彼は夢を叶えられないまま病を患って死んでいくんですけど……どこか満足そうなんですよね。
──夢を叶えようともがき足掻いているうちに、彼の頑張りをちゃんと見てくれて応援してくれる人や、気の置けない親友もできて。
──最後に一人ぼっちじゃなく死んでいけた彼は、きっと幸せだったと思います。
「うー……あー……予想はしていたけど……きついなぁ……」
そんな言葉が漏れてしまう展開に、奏太は頭を抑える。
瞳の奥が熱い。油断したら目尻から何かが溢れてきそうだ。
まだ物語は終わっていないと、奏太は自分に言い聞かせた。
その先は、文月の感想では語られなかったエピローグ。
主人公が残した遺言を、親友が見つけるシーン。
──内容の面白さはもちろんですが、何よりも主人公の最期の遺言で、完全にやられてしまいました。
──どんな遺言だったの?
──言いません。ネタバレになってしまいますので。
あの時は知る事ができなかった遺言の一言一句に目を通して──全てがわかった。
ゴミ屑のような人生の果てに、主人公が手にしたものも。
『砂漠の月』という本のタイトルの意味も。
そして……文月の本心も。
全部、全部、わかった。
「やっぱり、そうだったんだ……」
視界が滲む。
声も震えていた。
奏太の頬を伝う一筋の涙が、カーテンの隙間から差し込む朝陽に照らされきらりと光る。
「そろそろ起きなさい」と母親が部屋を訪れるまで、奏太のベッドの上から動く事ができなかった。




