第29話 反抗
「……俺は、思わないかな」
気がつくと、そう答えていた。
澪が意外そうに奏太を見る。
「へ?」
まさか否定されると思っていなかったのか、悠生が素っ頓狂な声を漏らす。
(落ち着け……)
胸の中で燃える感情を抑え込む。
あくまでも、文月とは関わりのない体を意識し、言葉を選んで口を開く。
「文月さん、いつも本読んでるし……多分、あの本がとても大切だったんだよ。それを馬鹿にされたら、文月さんは怒ったんだと思う。……あくまでも想像だけど」
流石にちょっとやり過ぎだったでしょという責めのニュアンスも添えて、奏太は言う。
こんな事を言ったら悠生は逆ギレを起こすのではという一抹の不安があった。
極力、平静を装っているが冷や汗はダラダラで心臓はバクバクだ。
でも、多分大丈夫だろうという楽観もあった。
悠生から見て、奏太の立場は下ではあるが圧倒的に下というわけではない。
よっぽどの事がない限り、悠生は奏太との衝突を望まないはずだ。
その予想は、当たっていた。
「いやーでもよ、先に怒鳴ってきたのは向こうのほうだし……」
悪戯を注意されて口答えする子供みたく言う悠生。
とはいえ奏太の言葉は筋が通っているので、悠生も明確な反論を口にできない。
「んー、でも確かに、私もちょっとやり過ぎだと思ったかなー」
陽菜が苦笑いを浮かべて言う。
思わぬ援護射撃だ。
彼女もどちらかと言うと、争い事や人の悪意が苦手なタイプなため、奏太と似たような感想を抱いたのだろう。
「な、なんだよ陽菜も奏太の味方かよー」
「やー、味方とかじゃなくて、同じ女としてかな? 文月さん、多分男の人と喋るのとか超苦手な子だから、悠生に凄まれてよっぽど怖かったんだと思うよ。それに文月さん、教室を出ていく時、ちょっと泣いてたっぽいし」
「え、マジで?」
(マジか……)
悠生の声と、奏太の心の声は同時だった。
「多分だけどね? 私、スマホ中毒だけど視力めっちゃいいんだ〜。神様に感謝だね!」
陽菜の明るい声で場が和らぐも、奏太の胸は締め付けるように痛んだ。
言葉を失う悠生に、今まで静観していた澪が口を開く。
「私も、あんなか弱そうな子を威圧するのは、どうかと思う」
「ぐっ、澪まで……」
「ぶつかったらお互いにごめんなさいで済んだ話でしょう。皆の前でおちょくるような真似をしたり、友達がいないとかどうとか言うのも、人として違うと思うわ」
淡々としつつも力を含んだ澪の正論に、悠生がうぐっと言葉に詰まる。
プライドがエベレスト並みに高い悠生だが、一方で年相応に常識的な部分もあるので、三人の立て続けの苦言を頭ごなしに突っぱねるような事はしない。
やがて、バツの悪そうに頭を掻いて。
「まあ、ちょっと言い過ぎたかもな……つい、いつもの癖で」
言うと、陽菜がにぱっと笑ってぺしぺしと悠生の背中を叩いた。
「わかればよきよき! もう高校生だからねー、私たち。ああいう、なんていうの? マウント取って気持ち良くなるのは卒業しないと」
意外と大人な陽菜の言葉に、悠生は「まあそれはそうだなー」とぼやき、大きなため息をついて言った。
「……タイミング見て、謝っとくわ」
「うんうん、そうしなー」
陽菜が笑顔で頷いたタイミングで、昼休みが終わるチャイムが鳴り響く。
最後はお互いに後腐れがない雰囲気で解散し、各々が席に戻った。
(……疲れた)
どっと鉛のように纏わりつく疲労感に、奏太は深く息をつく。
同時に、初めて自分の意思で反論をした事に、言いようのない達成感を覚えていた。
(やれば出来る、か……)
悠生には逆らえない、同調するしかないという思い込みは自分が作り出した幻想だった。
しっかりと自分の意思と考えを持って主張すれば、案外相手も納得してくれるものなんだなと奏太は思った。
一瞬、微妙な空気になったが最終的には丸く収まったので、結果オーライである。
「やるじゃない」
不意に、隣席からがそんな言葉がかけられた。
澪は、難問に正解した生徒を褒めるような、感心した表情を浮かべていた。
「いやー……なんか今回のは、ちょっと違うなーって思って」
「ええ、私もそう思うわ」
そう言い置いた後、澪は続ける。
「でも、ちょっと……いえ、結構意外だったわ」
「意外?」
「奏太、自我の無い人だと思ってたから。悠生に言い返すとは、思っていなくて」
「自我無いはひどくない?」
「否定できないでしょう?」
「仰る通りでございます」
「よろしい」
くすり、と口元に小さな笑みを浮かべた後、澪は真面目な表情をする。
「それで、なんで言い返そうと思ったの?」
どういう風の吹き回し?
とばかりに探るような目を向けてくる澪に、奏太は答える。
「……別に、なんとなく」
自分と文月との関係性。
この一ヶ月の間に自分と文月がどんな交遊を重ね、彼女に対しどんな心象の変化を辿ってきたのかを説明すれば、自ずと納得のいく答えになるだろうが。
ここで、澪に明かす気にはなれなかった。
「そっか……」
それ以上追求して来ることはなく、澪は次の授業の準備をし始めた。
(……別に、大層な理由じゃないよ)
先ほどの澪の質問に、胸の中だけでそっと考える。
悠生に本を馬鹿にされ、凄まれ、怯える文月を助けることができなかった。
自分の保身を考え、何も出来なかった自分に強い怒りを覚えた。
悠生に言い返したのは、今の自分が出来る精一杯の罪滅ぼし。
それが文月にとってなんら関係ないのはわかっている、いわばただの自己満足だ。
筆箱を取り出す手にぎゅっと力が籠る。
灰色の油が喉元に纏わりつくような不快感を抱えたまま、授業が始まった。
文月の席に目を向けるも、彼女はまだ帰ってきていない。
なんとなく、彼女は戻ってこないんじゃ無いかと思った。
予想は、当たっていた。
それから五、六時間目と、文月は授業に出なかった。
その事を話題にする生徒もいなかったし、教師も文月の不在を軽く流していた。
この教室の人間達にとって、文月は完全なる空気だった。
ただ一人、奏太を除いて。




