はりぼての家族
気がついた時には、二の腕から血が流れていた。
カトリーナを切りつけようとするアダムの剣の前に、両腕を広げて立ちはだかったからだ。
追いかけてきたベリオンに腕を引かれなければ――カトリーナに突き飛ばされなければ、この程度の軽傷では済まなかっただろう。
「カトリーナ!」
足元には血を流して倒れる妹がいる。
すがりつくように膝をついたラフィーナをベリオンの手が追いかけた。
「動くなラフィーナ、いま傷口を押さえるから」
カトリーナは肩から胸、腰にかけて、ミントグリーンだったドレスが真っ赤に染まっていた。
あふれる血は止まらず、床に流れて広がっていく。
「カトリーナ、目を開けて、カトリーナ!」
「……」
「どうして私をかばったのよ……! カトリーナ!」
「っ、う」
何度目かの呼びかけでカトリーナは目を開けた。
同時に、衛兵に剣を奪われ取り押さえられたアダムが狂ったように叫んだ。
「カトリーナは、あいつは魔物だったんだ! 俺は魔物と結婚させられそうになっていたんだ! それだけじゃない! 俺は魔物と、俺に……なんてことを! 離せ! とどめを刺すッ!」
「……ア……アダム、さま……」
「魔物の分際で俺の名を呼ぶな! 汚らわしい!」
悲しげに揺れたカトリーナの視線が、両親に向けられる。
「おと……さま……お母さ、ま……?」
「まっ、魔物を育てていたなんて知らなかったんだ! あんなのは娘でも何でもない!」
父は後ずさり、壁に背がぶつかると、そのまま腰を抜かしたように座り込んでしまった。
母は一度目を覚ましたようだが、血まみれの姉妹を見て、また気を失った。
カトリーナが静かに涙を流す。
即死していても不思議ではないほどの傷を負いながら、ラフィーナに向かって手を伸ばせるのは、彼女が魔物だからなのだろうか。
「カトリーナ、しっかりして……目、閉じたらダメよ……」
けれど、きっともう、助からない。
そこに浮かぶのは死相だ。病に倒れたかつての母のような。
「おね、さま。ごめんなさい……お、と……毒……」
「王都の、毒花?」
冷え切った手を両手に包むと、カトリーナは頷いた。
「……わたし、さっき、思い出した。わたしの本当の、お母さんが、魔物だったの。だから……わたしも、魔物なの」
「そう、なの……」
「お母さん、精気を、吸うって、ときどき……何のことか、分からなかったけど、ようやく……」
精気を吸う魔物とは、いわゆる夢魔のようなものだろうか。
精気を吸うために男と会い、王都の毒花となったのだろうか。
知りたいことはたくさんあるのに、どんどん冷たくなるカトリーナの体温に気を取られて頭が回らない。
「もう喋らないで。お願い」
「わたし、お姉様になりたかった」
「血が止まらないのよ、やめて……」
「初めて会った時、お姉様はすごく幸せそうで……お姉様になれば幸せになれるって、思って……」
だからラフィーナの名を使ったのだと、かすれた声が言う。
名前など黙っていてもよかった。
架空の名前でもよかった。
それでも義姉の名を使ったのは、義姉になりたかったからなのだと。
「お母さん、最期に言ったの。幸せになって、って」
「……!」
「でもわたしじゃ、お姉様にはなれない、よね……バカだし、本当の妹どころか……そもそも人間でも、なかったんだもん」
疲れたように大きく息を吐くと同時に、透明な涙が流れた。
「……カトリーナ。あなたが私の名前を勝手に使ったり、妻や婚約者のいる人と関係を持ったりしたのは、いけないことだったわね」
「……うん」
「元気になったらお説教だわ。きちんと反省してもらわないと。たっぷり絞ってあげるから覚悟してね」
握った手に力が込められた。
「迷惑をかけた方々には謝りましょうね。私も一緒に行ってあげる」
「……うん」
「だって、私はあなたの姉だもの。これからもずっと、カトリーナは私のたった一人の妹。魔物でも人間でも関係ない」
「……う、ん……」
「あなたが私の妹になってくれた時、本当に嬉しかった……大好きよ、カトリーナ」
見開かれた目に厚い涙の膜が張った。
まばたきの度に雫が頬を流れ、唇がわなわなと震えだす。
「ごめ……ごめんなさい、ごめんなさい、お姉様、迷惑かけて、本当にごめんなさい……!」
血が付くのも構わずに、号泣する義妹を抱きしめた。
「だいすき、わたしもお姉様が大好き。本当に、だいすき」
それから少しして。
カトリーナは、ラフィーナの腕の中で、灰となって消えた。
*
崩れた灰の中から透明な石が現れた。
部屋の照明を受けて虹色に反射する、美しい魔核だった。
「ま、魔核……!」
背後から父の声が聞こえる。
ラフィーナは濡れた顔を拭い、魔核を両手に持って立ち上がった。
「おお! なかなかの大きさではないか! 今日まで育ててやったんだ、最期くらい恩返しをしてもらわないとな。さぁラフィーナ。その魔核をこちらに渡しなさい」
壁を頼りに立ち上がりながら、父はラフィーナに手を差し出した。
そんな父に向かって、ラフィーナはきっぱりと言った。
「お断りします」
「なっ!」
こんな男が今世の父親だったのかと、冷めた目で男を見る。
どうやら父親というものには恵まれない定めらしい。
「なんだ、その反抗的な目つきは。娘が父親に逆らうつもりか!」
「カトリーナがあなたの娘でもなんでもないなら、その姉である私もあなたの娘ではありませんので、逆らっても問題ないはずですが」
先ほどの父の――男の言葉で返す。
「屁理屈を……!」
男は歯ぎしりをしながらこちらにやってきた。
右手を大きく振りかぶる。
顔に濃い影が掛かったが、その手が振り下ろされることはなかった。
「私の妻に手を出せると思うな」
音がするほど強く腕を掴んだベリオンは、いつの間に写真を割ったのか、角つきの姿となっている。
「ひっ! ひいいいっ!」
男はまた腰を抜かしたらしい。
くっきり跡の残る腕を抱え込んでうずくまってしまった。
ラフィーナは父だった男に向かって言った。
「カトリーナに……魔物に騙されていたなんて言い訳でしょう」
震えている男の耳に、この声は届いているだろうか。
「あなたたちは自分のことしか考えていない。孤児を養子として引き取ったのも、『王都の毒花』の噂を信じて私を辺境へ追いやるように嫁がせたのも、十年近く育てたカトリーナを簡単に切り捨てたのも、すべて名誉……いいえ、はりぼての見栄を張り、守るため」
両親やアダムは、カトリーナを魔物だと信じてしまった。
ベリオンから聞いたカメラと写真の話を信じたこと。
取り乱すカトリーナの様子が真実を物語っているように見えたこと。
それが理由なのだろうが、呪いを封じて姿を元に戻す魔法ではなく、姿を入れ替える魔法だとか、何か別の魔法とは思わなかったのだろうか。
呪いだとか、娘が魔物だとか、すぐに信じる方がどうかしている。
カトリーナが本当に魔物だったのは、あくまで結果論だ。
「娘は見栄を張るためだけの道具だったから、私たちの顔が入れ替わったことに気づかず、信じるどころか、親としての愛情すらなかったのでしょうね」
新しい両親から空っぽの愛情を受けていたから、義妹の寂しい心は埋まることがなかった。
埋まらないものを埋めようとして、「姉のようになりたい」ではなく「姉になりたい」と間違えた道を進んでしまった。
「私も状況を嘆くばかりで、至らない姉でした。でも私だけはこれからも、カトリーナの家族であり続けます」




