ホテルの夜
ベッドから出たラフィーナの肩に薄手のショールを羽織らせ、テーブルまでの短距離をエスコートする。
椅子を引いて座らせ、食べ物を取皿に乗せ、飲み物をつぐ。
あまりに甲斐甲斐しい様子のベリオンに、ラフィーナは目を瞬かせた。
「自分でできますから大丈夫ですよ。ベリオンもお腹空いてないですか? 一緒に食べませんか?」
ベリオンの前にもお茶のカップを置いた。
大人しく座り、勧められるままにサンドイッチをかじっているが、その表情はどこか暗い。
「私が寝ている間に何かありましたか?」
「いや、特に何も。それより、朝までもう一眠りできそうか? 眠れないなら何でも付き合うが」
ベリオンが指差す先には、各種テーブルゲームが揃っていた。
生まれ変わりを白状する前の負けまくった夜を思い出す。
「敗北の悔しさで目が冴えそうな予感がします」
初めてベリオンの名を呼んだ気恥ずかしさまで蘇ってきて、ごまかすようにりんごを食べた。
「食べて温かいお茶を飲んだらまた眠くなっちゃいました。ベリオンも疲れたでしょう。そろそろ寝ませんか?」
「分かった」
空になった皿はホテルの使用人に下げてもらい、改めて寝支度を整える。
ベッドに入るラフィーナの視線の先では、ベリオンがソファに横たわろうとしていた。
「え?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
(なんでソファに……もしかして、同じ部屋なの?)
ラフィーナの声を受け、ベリオンは申し訳なさそうな顔を見せた。
「すまない。一部屋しか取ってなかったようで……」
「そ、そうだったんですね!?」
収穫祭の夜に告白されていながら、ラフィーナがはっきりとした返事をしていないからか、二人は未だ別々に眠っていた。
だから当然のように、ホテルでも別部屋だと思っていたのだ。
「ビクター……」
万事お任せあれと言っていた家令の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「悪気があったわけではない、と思うんだが、戻ったらきつく言っておく」
「いえ、それは! 夫婦ですから、一部屋で当然です!」
ゴクリと喉を鳴らし、部屋を見渡す。
最上階の広いスイートルームなのにベッドは一つだけ。
三人がけのソファは大きいが、身長のあるベリオンではゆっくり身体を休められない。
(私がソファで寝ると言えば押し問答になるのは火を見るより明らか……と、いうことは)
「……一緒に寝ましょう」
「……!」
「こちらに来てください、ベリオン」
「……いや、でも」
「ソファで寝るのはダメです」
「だが」
「代わりに私がソファで寝ますよ」
「それは駄目だ」
「ですよね。だから一緒にこっちで寝ましょう」
「……」
このベッドはいわゆるキングサイズの巨大なものだ。
二人で横になってもまだ余裕がある。
ベリオンはしばらく悩んだ様子を見せたが、諦めたようにソファから立ち上がった。
まっすぐベッドに来るかと思いきやクローゼットを開け、中から取り出したガラス板――ベリオンの写真を、真っ二つに割る。
角が生え、尻尾が伸び、バケモノ辺境伯の姿となった。
「急にどうしたんですか?」
「念の為に箱枕を持ってきておいてよかったな」
「ここまで作為的に割るために持ってきたんでしたっけ?」
「悪いが明日また写真を撮ってくれ」
「話が噛み合いませんね」
ベリオンはラフィーナの言葉を無視したままベッドに潜り込んだ。
広いベッドの端と端に横たわり、ランプの灯りを落とす。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
「……」
「……」
目を閉じるが、心臓の音が妙にうるさくて、眠気はどこかへ飛んで行った。
隣にベリオンが眠っている。
ただそれだけのことを意識している理由など考えるまでもない。
無意味に寝返りを打った背中に控えめな声がかけられた。
「ラフィーナ、まだ起きているか?」
「はい、起きてます」
ころりとベリオンの方に向き直る。
暗闇に浮かぶベリオンの輪郭は、天井を向いていた。
「どうかしましたか?」
「……君に謝りたくて」
「何を?」
「私たちが結婚した日のこと」
(結婚した日、謝る、というと、白い結婚のこと……?)
まさかこのタイミングで初夜について言及するつもりだろうか。
それは止めてほしい、と冷や汗をかき始めたが、続けられた言葉は別のものだった。
「あの日も具合が悪かったんじゃないのか?」
「……、あぁ!」
毛布の中でぽんと手を打ち付けた。
馬車酔いしたラフィーナを介抱するベリオンの表情が気になっていたが、ここに繋がってくるらしい。
確かに結婚した日も朝から馬車に揺られ、内臓がぐるぐるした感覚のまま式に挑んだ。
今日、馬車に酔ってぐったりしたラフィーナを見て思い至ったようだ。
「それなのに私は最低な夫だった」
「……」
白い結婚宣言のことだろう。
結局、初夜についても言及されてしまった。
気にしてないから大丈夫と言うべきだろうか。
それとも、確かに少し具合が悪かったので何もなくてちょうどよかった、とでも言うべきだろうか。
どちらを言ってもベリオンがますます落ち込んでしまいそうな気がした。
「あの頃は、君がこんなに大切な存在になるとは思っていなかったな」
ぽつりと溢れたような言葉に、体中が一気に熱を持つ。
隠れるように潜り込んだ毛布が暑い。
詰まって出てこない言葉の代わりに、ラフィーナは少しだけ枕を中央へ寄せた。
戸惑うような衣擦れの音が聞こえる。
「……私ももう少し、近づいても?」
「は、はい」
ベリオンが少しだけ近づいて、指先が僅かに触れ合った。
胸が高鳴るのに、どこか安心もする。
(不思議……冷たくて気持ちいいからかな……)
爬虫類は少しひんやりしているらしい。
そんなことを知った瞬間には、優しく落ちるような眠りに入っていた。