夜のゲーム
「うそ……」
すっかり夜もふけた頃、主寝室にラフィーナの弱々しい声が響く。
「嘘じゃない。君の負けだ」
――チェスによく似たボードの上。陣地の王を敵の魔法士にコツンと倒され、ラフィーナは敗北した。
「も、もう一度!」
「諦めろ。はっきり言わせてもらうが、君はびっくりするほど弱い」
悔しいが、ラフィーナには言い返す言葉がない。
前にやったすごろくもズタボロだった。
どうやらラフィーナはゲーム全般、弱すぎるらしい。
勝負していて楽しい相手ではないだろうにベリオンは機嫌が良さそうで、ラフィーナも嬉しかった。
(これで離婚が考えられるもんね)
バケモノ辺境伯などと言われていたベリオンだったが、人の姿に戻ってみると、ものすごく格好良い。
すっきりとした鼻梁。形のいい薄い唇。傷跡が残っている以外は日焼けすらない滑らかな肌。
背は高く身体に厚みもあるようだが、服に包まれるとすらりとして見えた。
砂漠の主を倒した辺境伯などというから、てっきり屈強な戦士のような人を想像していたのに、むしろ麗人と呼べるような人だ。
「次はカードにしましょう」
「負けたら私の言うことを一つ聞く、と約束するなら」
「なぜ勝つと分かっていながら賭けるんですか!」
「始める前から負ける気でいるのか?」
「うぐぐ……では、私の指定するゲームでお願いします」
「いいだろう」
「単純すぎて運ですからね、次のゲームは。勝敗は半々ですよ……たぶん」
怖い点を強いて挙げるなら、切れ長の三白眼や頬から耳にかけての古傷、鮮血を浴びたのかと思うような赤い髪だろうか。
けれど時折見せる柔らかな笑顔がすべて相殺してくれる。
つまり。
(今の閣下なら、誰とでも結婚できるわ)
ラフィーナとベリオンが結婚したのは、カトリーナが泣いて嫌がったからだ。
オーレン侯爵家の前に打診された家もあったが、皆嫌がって縁談がたらい回しになったと聞く。
結果、ベリオンに寄越されたのは余りもの同然のラフィーナだった。
国王としても本当はもっと王家に近しく、政略的な利のある相手と結婚させたかったことだろう。
(でも今なら大丈夫。きっとみんな、すごくかっこいい閣下を好きになる)
王命による結婚なので簡単には離婚できない。
だが、次の相手がもっと政略的にふさわしければ問題ない。
そしてその人は、ラフィーナのような噂がなく、ラフィーナのようなよく分からない存在でもない、ちゃんとベリオンを愛してくれる女性のはずだ。
*
「くっ……ババ抜きですら負けるとは!」
残ったカードを卓の上にさらけ出して、ラフィーナは突っ伏した。
何を何回やってもベリオンには勝てない。
「分かりやすいんだ、表情が」
「そんなはずありません。完璧なポーカーフェイスだったはずです〜!」
ベリオンは余裕の表情でワインを嗜んでいる。
「やれやれ」という声でも聞こえてきそうだが、彼が口にしたのはもっと恐ろしい言葉だった。
「約束だ。言うことを聞いてもらおうか」
「……三回勝負じゃダメですか?」
「後出しは認められない。これとは別にもう一つ賭けるなら受けて立つが」
何度勝負しても負けそうで怖い。
「それで、私は何をすればよろしいでしょうか」
人の姿である今、目の前の男には角が一本も生えていないのにまるで魔王だ。
魔王は長い足を組み直し、戦々恐々とするラフィーナに言った。
「……名前を呼んでほしい。『閣下』などではなくて」
何を言われるかと構えていたラフィーナは、息を飲んだ。
水のようにワインを飲んでいたせいだろうか。
ベリオンの顔が赤く見える。
そんな顔で懇願するように言われては、ラフィーナははくはくと口を動かすことしかできない。
「頼む、ラフィーナ」
囁く声が耳をくすぐる。
目をそらせず、逃げ出すこともできない。
顔に血が集まるのを感じながら、ラフィーナはひねり出すように「べべリオン様」と言った。
「ふっ、何だそれ。様はいらないから、もう一度」
「…………ベリオン」
「ん……ありがとう」
嬉しそうに細められる深緑の目はバケモノと呼ばれていた頃と何ら変わりない。
どうにか目をそらして、ラフィーナは椅子から立ち上がった。
「眠くなってきましたね。そろそろ終わりにしませんか」
「あ、ああ。じゃあ……」
「せっかく人の姿に戻ったことですし、かっ……ベリオンは、こちらでゆっくりお休みください。箱枕は使わなくなるならそれに越したことはありませんので、普通の枕を使ってくださいね。では、おやすみなさいませ」
ぺこりと頭を下げ、何かを言われる前に競歩で寝室を出た。
後ろ手に扉を締めながら立ち止まらず自室に飛び込む。
深く息を吐いてようやく、身体から力が抜けた。
「はぁ、申し訳ない……」
前世では恋愛経験ゼロ。今世でも元婚約者含めて恋などしたことはないが、他人の気持ちに対してそこまで鈍くはない。
自分の気持ちにも鈍感ではないつもりだ。
今夜ベリオンがラフィーナを誘った本当の意味も分かっている。
けれどこの想いは、育ててはいけない。
(今日は上司の接待だったのよ。ま、負けたのは接待だからです!)
ラフィーナはオーレン侯爵家の長女として生を受けた。
社交界に出る歳になると『王都の毒花』と呼ばれるようになり、半ば追い出されるような形でアルガルド辺境伯に嫁いだ。
カトリーナを本当の妹のように可愛がり、精霊術士でありながら殺生を嫌って精霊と話せないふりをした、少し臆病で、心優しい女性だった。
けれど、今のラフィーナは違う。
(……今の私は、自分が何なのか分からないから)
今この瞬間思考しているのは、母を亡くし、生死の分からない父が残した借金を背負いながら、火事で死んだはずの女だ。
初めは生まれ変わったのだと思った。
ひょんなことで前世の記憶を思い出したのだろうと。
しかし正解など分からない。
火事で死んだ女の図々しい魂が、全く関係ない別の女性の身体と未来を奪った――そうでないとは言い切れない。
(転生なのか、憑依なのか……どっちもネット小説でよくあるやつ)
もし憑依なのだとしたら。
いつか元のラフィーナがこの身体に戻ってくるのだとしたら。
いつか消える人格だというなら、何もしないのが互いのためだろう。
(呪いさえなければなんて思ってたけど、なくなったらなくなったでこれだなんて、もう……)
今世こそ恋をしてみたかったのに、その恋が実らせていいものとは限らないだなんて、思ってもみなかった。
(でも、こっそり片想いするだけなら自由よね)
そうしてまで想っていたい人がいる。
それだけで十分幸せなことだと、自分に言い聞かせた。