ベリオンの呪い
「……呪いが、解けた?」
ラフィーナの声を受け、言葉の意味を理解するより先に、自分の手に視線を落とした。
「……は?」
手全体を覆っていた鱗が、ない。
まるで人のような肌色、刃物を当てればすぐに切れてしまいそうな柔らかい皮膚。
もう何年も見ていなかった、呪いを受ける前の、自分の手だった。
さらに下へと視線を落とすと、屈強な鳥類のようだった足も人間のものに変わっていた。
角を触ろうとした手は空を切る。動かそうとした尻尾には感覚が届かない。
「まさか、本当に、戻った……?」
声は変わっていないはずなのに、耳に届く音は何故か少し違う。
あれほど敏感に嗅ぎ分けていた匂いも、急に分からなくなってしまったようだった。
「……ラフィーナ」
驚いた顔で固まっている妻の方へと足を向けた。
怯えさせないようにゆっくりと近づきながら、ふと気がつく。
もうバケモノと呼ばれる姿ではなくなった。
鋭い爪で彼女の柔らかな肌を傷つける心配もない。
妻に触れても、抱きしめても、良いのでは――
「っ、ラフィーナ!」
「うひゃああっ!」
――ガシャン!
明るい中庭に、ガラスが割れた硬質な音が響く。
同時に上がった悲鳴は妙に気の抜ける声だった。
しかし、ベリオンの動きを止めるには十分なもので。
「…………」
「あっ、写真、割ってしまった……危ないので踏まない、で……あれ? 閣下?」
初対面の時、ラフィーナは『バケモノ辺境伯』に悲鳴の一つも上げなかった。
けれど今、人の姿で近づこうとしたら、触れる前に叫ばれてしまった。
その事実で頭がいっぱいになっていたベリオンは、自分がまたバケモノ辺境伯の姿に戻っていることに気づいていなかった。
*
その後は一切、仕事にならなかった。
足元の散らばったガラス片は『写真』というものらしい。
ラフィーナいわく、写真を撮ったら人の姿になっており、写真が割れたらバケモノの姿に戻ったような気がした、とのこと。
仮説を実証するためにその場でもう一度写真を撮ると、バケモノ姿だったベリオンは瞬き一つの間に人の姿へ戻った。
そして写真を割ると、その瞬間にバケモノ姿へと戻った。
試しに、人の姿になってる間にもう一枚写真を撮った。
しかしバケモノの姿に戻るわけではなく、他の何かに姿を変えるでもない。
割った写真を集めて繋ぎ合わせても、何も起こらない。
写真を撮れば人の姿に、写真を割ればバケモノの姿に、ということらしい。
条件付きとはいえベリオンの姿が元に戻ったことを、まずはビクターに伝える。
「このお顔は間違いなくベリオン様。お懐かしゅうございます」と確認が取られ、その後ようやくベリオンは自身の姿を鏡に映した。
久々にバケモノではない自分の姿を眺めているうちに、城に魔法士や学者たちが駆けつけてきた。
皆、取るものも取り敢えずといった様子で大汗をかいている。
自分たちが調べ尽くし、解呪は不可能と結論付けていた辺境伯の呪いが急に解けたと聞いたのだから、居ても立っても居られなくなったのだろう。
「失礼! 領主様のお姿が元に戻られたと聞き……ってうわああ本当だ!」
部屋に入るなり悲鳴を上げるのは、ベリオンの元の姿を知っている者。
「失礼! 辺境伯のお姿が元に戻られたと聞き馳せ参じましたが……はて今はどちらに?」
部屋中に巡らせる視線が椅子に座っているベリオンを素通りするのは、元の姿を知らない者だ。
少しして目立つ赤髪を見つけ、怪訝そうな表情がじわじわと驚愕に変わっていくまでが全員同じ反応である。
そうやって、広い会議室にアルガルドの有識者が一通り揃ったのは夕暮れ前のこと。
数時間のうちに集まれるほど暇な面々ではないのだが、ベリオンの呪いが解けたかもしれないというのは、それほどの事態だった。
「この絵付けガラスが『シャシン』でございますか!」
「割ると角付きに戻ると聞きましたが……ほう、何度でも?」
研究者たちは人に戻ったベリオンと、写真に映る角付きのベリオンを交互に眺める。
ちなみに『角付き』というのは、ベリオンの『バケモノ辺境伯』の姿に含みを持たせないための呼び方だ。
残念ながらあまり普及していない。
「では今ここで割ってみてもよろしいですか?」
そう来るのは予想の範疇だ。
割ったら今度は、また人の姿になってみてくれと言われるのも想定できている。
ベリオンが視線を向けると、ちらりとカメラの方を伺ってから、ラフィーナは頷いた。
「では割りますぞ!」
「待たんかね! 私が割る!」
「いいや、ここは魔法士である儂が妥当というもの!」
「落ち着け諸君。恐れ多くも閣下の絵姿を割るんだぞ!?」
「その通りだな。相応の覚悟が……」
「おい……誰が割る?」
誰が割るか割らないかで一悶着が勃発したので、代表してベリオン本人が自分の写真を真っ二つに割った。
瞬く間に角付きの姿となり、その瞬間を目撃した有識者たちから歓声と悲鳴が上がる。
ひとしきり騒いだ後、ラフィーナがベリオンの写真を撮る。
人の姿に転じたのと同時に、ラフィーナが精霊に命じて道具を使わせたことや、カメラという道具に興味を惹かれた者も一定数現れた。
人間の塊はベリオン側とラフィーナ側に別れ、それから小一時間。
写真を撮っていた精霊が「モウ疲レた」とラフィーナを通して伝えてきたことで、この日は解散となった。
*
「嫌だ」「もっと見たい」とうるさい奴らには割れた写真を置き土産に、そのまま部屋に残してきた。
あの様子では写真を肴に朝が来るまで談義を繰り広げることだろう。
カメラも置いていけと言っていたが、それは精霊が拒否したため、ラフィーナが持ち帰ってきた。
写真を撮っていた光の精霊はラフィーナから褒美に山盛りのお菓子をもらい、カメラの側で食べながら休んでいるらしい。
そしてベリオンとラフィーナもようやく、もみくちゃにされて疲れた身体を休めることとなった。
主寝室の丸テーブルに夕食を運び込む。
赤ワインのグラスを小さく鳴らし、二人で乾杯した。
「お疲れさまでした」
「ああ、君も」
椅子に座るベリオンは人の姿だ。
もちろん、全身を覆う布も被ってはいない。
こまめに切ってもすぐに伸びてしまう邪魔な爪がなくなり、かえってカトラリーの扱いに苦戦しながら、ラフィーナと二人でゆっくり食事をした。
せっかく人の姿に戻ったというのに、すぐに人が集まって大騒ぎとなってしまった。
こういう時こそ妻とゆっくり過ごしたい――けれどその妻は、人に戻ったベリオンを見て悲鳴を上げていた。
今も一見普通の態度で食事をしているが、あれからまともに目を合わせてくれない。
(ずっとあの姿だったからな……こちらの顔に慣れていないのは、しかたないか)
砂漠の主を殺して約二年。
わざわざ自分の肖像画を見る趣味のないベリオン自身ですら忘れかけていた顔だ。
目の前で急に変わったのだから、さすがのラフィーナも悲鳴の一つくらい上げるだろう。
ベリオンは二杯目の赤ワインを飲み干してから、ありったけの勇気を振り絞り、言った。
「ラフィーナ。今夜は……この後も、一緒に過ごさないか?」
初夜の日、ベリオンはラフィーナに寝室を共にすることはできないと告げた。
それは彼女が『王都の毒花』だからではない。
ベリオンが『バケモノ辺境伯』だったからだ。
爪は鋭く、鱗は硬い。角もあれば牙もある。
相手を傷つけると分かっていて触れることは、誰に対してもできることではなかった。
しかし今、ベリオンを躊躇わせる理由はない。
他でもないラフィーナが、ベリオンに人の姿を取り戻させたのだ。
かつてのベリオンが告げた言葉はどんな理由があったにせよ、妻となった女性には屈辱的なものだっただろう。
だからまずはその時のことを謝罪し、今日から改めて新しい夫婦関係を築いていきたい。
ベリオンのそんな想いが通じたのかラフィーナは、
「はい」
と頷いた。
その頬が赤く染まっているのは果たして、酒精のせいだけだろうか。
ベリオンも僅かな期待に、体温の上昇を感じた。
コメントくださった方、本当にありがとうございます!
うっかりネタバレしそうなため、完結までコメントの返答は控えさせていただこうと思いますが、大変ありがたく読ませて頂いております(_ _*)
また誤字報告もありがとうございます!
何回読んでも見落としがあるので、心の底からありがたく思っております……!
続きも楽しんでいただけますように!