新しい枕
数日後の朝食の席で、ラフィーナは言った。
「閣下」
「なんだ?」
「もしよろしければ今夜、主寝室に来ていただけませんか?」
「……ん?」
ラフィーナは、ベリオンが主寝室を使っているのだと思っていた。
しかし実際には、主寝室どころかベッドすら使わず、自室のソファに座っているだけだった。
横になるには四本の角が邪魔になるからだ。
(睡眠は食事と並ぶ健康の柱。領主たるもの、おざなりにしていいものではないわ)
本人は慣れていると言うが、それでラフィーナの気が済むわけがない。
「今晩、お休みになる際は主寝室に」
「いや、聞こえなかったわけではないんだ。二度も言わせてしまってすまない。だが……」
ベリオンは言いにくそうに言葉を詰まらせている。
その理由が分からないラフィーナだったが、少ししてはっとした。
「もしかして、ご用事がありましたか?」
ベリオンは辺境伯家の当主であり、貴族だ。
この姿であっても夜会などに招かれる機会があるだろう。
しかしその妻であるラフィーナは出席するよう言われていない。
それはおそらく、ラフィーナが『王都の毒花』だからだ。
上司と部下としては上手くやっていけそうな雰囲気になっているが、妻として社交させるには問題があると思われているのだろう。
(王都の毒花は夜会に出れば必ず男性と二人きりになっていたみたいだしね)
確かにこの顔は美女と呼べるほど整っている。男好きのする顔だとも思う。
しかし、性格は見た目と真逆だった。
前世を思い出す前のラフィーナは心優しく純粋で、この世に悪があるなど思っていない節があった。
だから名前を騙られた時は理由が分からず恐怖したし、妹がそれをやっているなどとは考えたこともなかった。
(カトリーナが、笑うまでは)
両親に淫乱となじられた時、その様子を見ていた妹の口元が弧を描いたのを見た。
それでようやく、誰が自分の名を騙っていたのかを知ったのだ。
ラフィーナとカトリーナは、血の繋がりがないにもかかわらずよく似ている。
髪や目の色はもちろん、顔立ちもだ。
強いて違いを上げるなら、ラフィーナがつり目で、カトリーナがたれ目だという程度。
化粧で姉の顔に似せることは難しくなかっただろう。
それでなくても夜は顔が見えにくい。
男性と二人きりになる時だけラフィーナと名乗れば、『王都の毒花』は簡単に出来上がる。
(ま、証拠はないのだけれど)
ベリオンはラフィーナのあだ名が嘘だと分かってくれている。
それでも『王都の毒花』と呼ばれるような女を南方貴族の社交に入れたくないのだろう。
ラフィーナに夜会のことを言わないのはそのために違いない。
「閣下、私は勝手にお城を抜け出たりいたしません。閣下の知らないところでご迷惑をかけたりもいたしません。ですから私のことは気にせず、安心してご用事をお済ませください」
「特に用事はないが」
「あら、そうでしたか」
ベリオンは炭酸水のグラスを飲み干してから言った。
「だから、つまり……本当にいいのか? 寝室に行っても……」
「もちろんです。私がお願いしているのですから」
空になったグラスを弄びながら、ベリオンはなおも遠慮がちに確認を続ける。
「私は見ての通りだから、君だってさすがに、その、恐ろしいだろう」
「今さらすぎます」
ラフィーナは自分の心配が無駄足だったことを理解した。
ラフィーナが『王都の毒花』と言われることを気にするように、ベリオンも『バケモノ辺境伯』である己の姿を気にしていただけのことらしい。
「確かに驚きはしました。でも、怖いと思ったことはありません。本当ですよ」
「……どうして?」
「どうしてって、だって……」
深緑の瞳と視線がぶつかる。
その瞬間、いつぞやのことを思い出し、顔に熱が集まった。
『君は、猫じゃないのに?』
あの日もベリオンは、足元にササミをじゃれつかせながら同じような目をして言った。
(あれって、私がこの人を優しいと思ってるってことが、うっかり知られたというか。むしろ私がそれを自覚した瞬間だったというか)
知られてまずい感情ではない。
なのになぜか、あの場の雰囲気か視線か、何かがラフィーナをいたたまれない気持ちにさせたのだ。
(サブカル文化のおかげで耐性があっただけだとは言えないし、えーと)
「本能で大丈夫だと思ったんです。ですからこれ以上は上手く言えません」
他にもっとマシな言い分があっただろうが、一度口にしてしまった言葉は戻らない。
「……」
「……」
「分かった」
永遠のように長い数秒の後、ベリオンは頷いた。
「今夜は主寝室に行く」
「お待ちしています」
*
夜、主寝室の扉が開かれる。
「こんばんは、閣下」
「あぁ」
ベリオンは約束通り、ラフィーナの元にやって来た。
角を隠すいつもの布の下は緩やかな夜着となっており、きちんと寝支度も整えて来たようだ。
対するラフィーナはきっちり服を着込んだままで、髪の毛も解いていない。
ベリオンはそんな妻をじっと見ていたが、何も口にはしなかった。
(もしや、寝室に普段着の人間がいるとリラックスできないタイプだった? 配慮が足りなかったわ……)
しかし忙しいベリオンを待たせてまで着替えてくるのも気が引ける。
逡巡した結果、このまま計画を進めることにした。
「さ、どうぞ。こちらに腰掛けてください」
ベリオンをベッドの縁に座らせる。
部屋の隅に置いていたものを持ってくると、それを掲げて見せた。
「今回はこれを作ってみたんです。箱枕と言います」
時代劇でよく見るあれだ。
髷を崩さないよう眠るためあえて高さを出しているものだが、ベリオンの角にも応用できるのではないかと思い作ってみたのだった。
本来木の箱になる土台部分は、籐のような植物で編んだ箱状のものにした。
ある程度の高さを籐編みの土台で出し、その上に綿をたくさん詰め込んだクッションを置く。
紐で土台と固定すれば洋風箱枕の出来上がりだ。
枕の高さや幅については、以前測った数値を反映してある。
多少前後する分はクッション部分の大きさや綿の量を増減するだけで微調整可能だ。
籐編みの部分は簡単に直せないが、クッション部分だけならメンテナンスが簡単なので、あえて二層式の箱枕を選んだのだった。
「これなら角を気にせず横になれると思うんです。試してみていただけませんか?」
「あ、あぁ」
ヘッドボードの手前に箱枕を置いたラフィーナは、ベリオンのテンションが低いことに気がついた。
無理もない。現代日本人の感覚を持つラフィーナですら、箱枕で眠ることは難しいと感じるのだから。
「慣れないうちは眠れないと思いますが、慣れてきたら意外に眠れると聞いた……いえ、何かの本で読んだことがありますので、何日か使ってみてほしいんです」
「……分かった」
ベリオンは覚悟を決めたように頷いて、ゆっくりとベッドの上に身体を横たえた。
「頭ではなくて、首に当たるように……ちょっと失礼しますね」
長く豊かな赤髪が首と枕の間に挟まならないようまとめて横に流し、枕の位置を調節する。
手でざっくり測っただけだったが、高さや枕の幅はさほど問題ないようだ。
角が枕やシーツに当たることなく仰向けになれていた。
「角や根本に負荷はかかっていませんか?」
「大丈夫だ」
「では、横を向いてみてください。寝返りがしにくいとは思いますが……」
ベリオンがもぞもぞと横を向く。
尻尾が一度、大きく動いてシーツを打った。
(どういう感情なんだろう?)
右も左も問題ないことを確認して、ベリオンは仰向けの状態に戻った。
「一人がけのソファに座るよりも休めるといいのですが」
「横になれるだけでもずいぶん違う。ありがとう」
「礼には及びません。よければ今日はこのまま、こちらでお休みくださいね」
そう言って、ラフィーナは足元に避けていた薄手の毛布をふわりと被せた。
ベッドの隅に置いていた大きな布も畳んで、サイドボードの上に置いておく。
「ランプは消しますか? 一番暗い灯りにしますか?」
「まだそのままでいい。……君はまだ寝ないのか?」
「そうですね。読みかけの本がいいところなので」
「……そうか……」
「では、おやすみなさい」
「…………おやすみ」
自室へ戻り寝支度を整えたラフィーナは、夜中に本を読み切ってからぐっすり眠った。
対するベリオンは結局一睡もできなかったのだが――眠れなかった本当の理由を、ラフィーナが知るよしもない。