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「ショコラの求道者」Henri Rêver氏の談

作者: 稲見晶

 ショコラは無償の愛。ショコラは別離の痛み。

 この信念を形成したのは、地元の工房での修行中のことだった。

 もちろん十をいくつも過ぎていない小僧がひとりでにこんなことを思いつくはずがない。

 当然、ある出来事——より正確に言えば、ある出会い——がきっかけだ。

 師匠の存在だって? まさか。私に言わせてもらえば、彼の名が「愛」の対義語として辞書に載っていないのが不思議でならない。


 あの日、私は小麦粉やべたついたココアパウダーにまみれて店の裏手にいた。暑い日だった。

 ショコラのために整えた窖から這い出たばかりで、瞬きを繰り返した。

 自分の目方ほどもある袋か、抱えると腕が骨まで冷えるような大理石の板か、何かは忘れたが重いものを運びどおしで腕も足も音を立てそうに震えていた。


 笑い声が聞こえた。ポート・ワインを閉じ込めた繊細な砂糖のボンボンの声。

 穢れなき五月の女性が立っていた。


 彼女はたったひとりだった。

 私は腕も脚も背骨も忘れて眼だけの存在になった。

 今となっては瞳の色も髪型も思い出せない。そのくせあの長い睫毛がつくる影の形、話し出す前にわずかに持ち上がる唇の端、堆積したショコラの波間に薫るマグノリア。そして、生涯忘れえない、私を呪う——。

 

 女性は言った。

 教えて、と。

 私の目はまだもぐらのそれだった。

 私は答えた。

 この季節はプラムのピュレがお奨めです。人気が高いのはカフェー・マンデリン。キャレ・ノワール、ヴァニーユ、セル・ジェム。マンディアン、ミルティユ、シェリ。

 ショコラの名前のほか、語る言葉を知らなかった。

 

 店の商品を言い終えてしまい、私は乾いて立ち尽くした。

 微笑みを浮かべて私を聞いていた女性は、静かに小首を傾げていた。

 小さく開いた唇からはいまにも銀の鈴の声が発せられそうだった。

 陽はあまねく降り注いでいた。


 私と女性との間に一筋の風が吹いた。

 私はいちど瞬きをした。ようやくショコラトリーの小僧としてなすべきことを思い出した。

 入口はこの角を曲がってすぐです。青い庇を目印に——

 店のバックヤードから私を呼ぶ怒声が届いた。

 言うまでもなく私はこのとき彼女の案内を優先すべきだった。それができなかったのは師匠が恐ろしかったためだけではなく、あの女性が私の中でごく私的な唯一の存在となりかけていたためだろうか。


 ともかく、私は内面をひた隠しにして師匠の元へ馳せた。

 光と熱とを途絶する室内に入ったとたん、腕全体に鳥肌がたった。

 師匠は私をふたたび怒鳴りつけ、太い腕を振り上げた。

 その掌が頬を張る瞬間、私は外壁を透かしてあの女性の姿を見た。

 左頬から脳天にかけて閃光が走る。同時に女性の左頬が溶けて輪郭を失った。

 私は原料袋の間に倒れ込んだ。頬の内側や歯の隙間から温い血の味が滲み出した。

 私はあの女性から目を離すことができなかった。

 痛みが心身を灼く度、女性は肩から、腰から、溶けていった。全方位から熱せられた蝋のように。

 私は歯を食い縛り、それでも目からは涙がこぼれた。

 

 折檻から解放されて私は店の裏手へ急いだ。

 あの女性が立っていた場所には数色のガナッシュがゆるやかなマーブル模様を描いて折り重なっていた。

 小さく締まったくるぶしから下だけがかろうじて固形の面影を留めていた。

 頭がくらくらするほどの濃厚な香りは、店のものとは全く違っていた。

 私は右の手のひらでそれを掬って顔中でむしゃぶりついた。

 唇から舌、口蓋、脳髄、食道。ショコラの輻輳は私の意識と人間性を押し流してすべてを呑み込む。

 味覚と嗅覚は冴え渡っていた。瞬間瞬間で支配的な感覚が入れ替わる。まろやかなミルク。苺の酸味。

 

 気がついた時には口元から胸までを汚していた。胸郭の内に心臓の動きをありありと感じた。息は切れていた。

 この女性のことを誰にも気付かれたくなかった。鼻腔はまだ甘さに満たされていた。


 それからの私は探求に打ち込んだ。

 師匠の下で学ぶべきことは早々になくなり、知識と直観をがむしゃらに求めた。

 そして、今もなお。

 そう。私は今もあの女性の虜になっている。後にも先にもあの域に至るショコラを味わったことはない。

 この手で、消えていった彼女を……、かの風味を作り上げることこそが、私にできる、唯一のあの女性への愛なのだ。

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